鋏3(終)
はっとして顔を上げる。俺は、何を考えていた?
――お前なんかを好きになってくれるやつ、いるわけねえだろ。
頭の中にはっきり響いた日本語は、自分の声だ。
――お前なんかに好かれて、イヴァンが可哀想だ。
――早く死んで同室者を変えてやれよ。
「あ、あれ……?」
異変を感じて顔に手を当てると、熱いものに触れた。
「なんで……」
手が湿っている。なぜか、俺は泣いているようだった。
こんな感情の爆発は久しぶりだ。自分の感情が制御できない。思った通りのことを考えられなくなった時から薄々危ないとは感じていたが。
「ごめん……」
「なんで謝ってんだよ。まあ、今のお前は昔のクゼっぽい」
「ほんと!?」
さっき頭の中に響いた本音は敢えて無視して、ぐちゃぐちゃの目をこすることもせずイヴァンを見上げる。思考が定まらず、感情をコントロール出来ないのが昔の俺なら、コンクリートに頭を打ち続けたら完全に昔の俺に戻れるかもしれない。
「そっちが良いとは言ってねえよ」
「え……」
希望が潰える。
「正す必要もないと思ってたけど、俺は今もこれからもお前を殺すつもりはねえよ。つうか、今までの同室者だって、直接手にかけたわけじゃねえ。飽きて助けるのやめたら勝手に死んだんだよ。……まあ、それが殺したことになるんだろうけど」
「なんで、教えてくれるの」
「は? 別に……って、これじゃいつもと同じか」
そう言うと、イヴァンは足を組み、視線を暗闇に投げた。
「噂っていうのは、否定しなかったら真実になるだろ。俺はいちいち否定しねえから、周りからやばくてすげー強いやつって思われてる」
「イヴァンは強いよ」
「実力以上にな。同室者殺しも否定しなかったからそう思われてるけど、俺は弱いやつをわざわざ自分の手で殺したりはしねえ。黙ってても死ぬし」
「そういう考え方もあるのか」
「クゼはなんだかんだ、人の助けがなくても生きて行けるだろ。今までの同室者とはそこがまず違う」
「好きにやらせてたからだよ。抵抗してたら死んでた。俺、弱いし」
「だから、後付いてこいって言ったじゃねえか。それとも何だ? だからこそ飽きたら殺されると思ってんのか?」
いつの間にか、閉じた膝の上に両の手を置き、拳を握りしめていた。緊張しているのだ。
「イヴァン……」
「ん?」
「ちょっと、整理させて……。少し黙る」
「ああ」
今イヴァンが俺にくれた言葉を思い出す。会話が続いてしまったから、言葉を意味のあるものとして理解できていない。まずは、なんだろう? イヴァンは俺が出会った頃と比べて変わったと思っている。そして、その変化を悪いとは思っていない。
これは喜ぶべきことだ。
――お前なんかを好きになってくれるやつ、いるわけねえだろ。
また自分の声が聞こえてくる。けれど、イヴァンはなぜか俺のことを受け入れてくれている。
それから、イヴァンは同室者を直接殺したことはない。彼らは弱く、放っておいたら死んでいった。
これを俺は勘違いしていた。他の囚人や看守同様飽きたら殺すと思っていた。
それから?
――俺は今もこれからも、お前を殺すつもりはねえよ。
ころすつもりはない。
「……イヴァン」
「なんだよ」
今までのイヴァンとの生活を反芻する。
彼は俺の話を聞いてくれた。
彼は俺を無視したことがない。
彼は俺を殴ったことがない。
彼は俺のために虫を殺してくれた。
彼は俺に口付けてくれた。
――イヴァンの同室者はよく変わるんだ。飽きた頃に殺すから。
こう言ったやつがいた。何人も何人も。看守もこう言って俺を嘲笑った。俺はずっと、イヴァンではなく噂のほうを信じていた。
そしてもう一つ気付いたことがある。それは、俺が本当に恐れていたもの。
俺は殺されたかったのだ。俺は何の価値もない人間で、人を殺して、それでものうのうと生きている。そんな俺が人から好かれるのが怖かった。イヴァンから何か受け取ってしまうことを恐れていた。好かれたいという願いの奥には、好かれるはずがないという安心があった。
「……イヴァンはすごい」
「どこが。俺のことそんなに褒めんの、お前くらいだよ」
「こんな俺に愛想を尽かさないのがすごいよ」
「そこかよ」
イヴァンが屈託無く笑う。
「まあ、見てて面白いからな」
「はは。面白いか」
笑おうと思わなくても、自然と笑えた。イヴァンは特に面白いことを言っていないのに、なんだか今までの自分がひどく滑稽に思えたのだ。
「面白えよ。今まで人間では周りにいなかった」
「人間では?」
「よく似た動物はいたよ」
「動物か」
「ああ。飼ってたんだ。餌やってただけだけど」
「幸せだったろうね、そいつ」
「だといいけどな」
ふいに、髪の毛を触られた。
「感触は似てねえわ」
「イヴァ――」
イヴァンの顔が近付いて来て、俺は目を閉じた。唇に温かい感触。髪の毛を撫でられているのも、唇を優しく食まれるのもすごく気持ちが良い。これは「口付け」だ。前に読んだ日本の小説で女が欲しがったもの。
顔が離れる。逃げ出したいくらい気恥ずかしかったが、それよりもずっとイヴァンを視界に捉えていたくて、彼をじっと見上げた。
「すげえ見てくる」
イヴァンは笑っている。目を僅かに細め、おおよそ犯罪者らしくない穏やかな表情で笑っている。これがイヴァンの本性かもしれない。
「なあ、クゼ」
「何?」
「もらっていい?」
何を? と聞く前にイヴァンの手がするりとズボンの中に入ってきて俺の尻を撫でた。
「……いいよ。あげる」
「テンション低いな。前は前戯とか必要ねえし、ぜひぜひ便利に使って! とか言ってたのに」
からかうように言われ、目を逸らす。
「は、恥ずかしいんだよ。前は、全然だったのに」
イヴァンの指がアナルをつついてくる。ささやかな刺激だけれど、イヴァンに触られていると思うと興奮した。
「俺も、結構どきどきしてる」
「え、う、嘘だ」
手首を掴まれイヴァンの心臓のあたりにいざなわれる。温かい胸に手を当てると、とくんとくんと彼の心臓が早鐘を打っているのがわかった。
「ほんとだ……。なんで?」
「なんでって……緊張してんじゃねえの。だせえな」
イヴァンの胸に当てている手を少し動かしてみる。服の上からでも彼のしなやかな筋肉が感じられた。
「あ」
肩を掴まれ静かに押し倒される。今まで触っていたイヴァンの心臓なんて目じゃないくらい早く大きく俺の心臓が動いている。骨まで破って外に出てくるんじゃないかと思うほど。
イヴァンが俺の足を割り開きその間に収まった。こんな格好今まで散々してきたのに恥ずかしく、どうして良いかわからなくなった。なんとなく手を伸ばしてみる。イヴァンの顔が近付いてきたから彼の首に腕を回す。さっきよりもずっと深い口付けをする。彼の舌が俺のものに絡まり、溶け合い、甘い痺れを伴いながら一つになるのを、まるでセックスみたいだと思った。レイプしか経験がないけれど、こんなに気持ちの良いことが世の中にあるのを初めて知った。
「ん、……は、」
顔が離される。イヴァンの唇が濡れている。口の端から溢れそうな唾液を手で拭った。
「ねえ。心臓、出てない?」
「は?」
「なんか、突き破ってる気がする」
「残念ながら出てねえな」
イヴァンが苦笑して、俺のシャツを捲り上げた。
「でもすげー速い。息上がってるし、それに」
「う、あっ」
イヴァンの手が降りてきて、すでに少しだけ反応してしまっているところに触れた。その瞬間変な、引きつったような声が出た。興奮している自分がすごく恥ずかしくて腕で顔を隠す。
「いまさら」
腕に触れる柔らかいもの。
「わ」
弱く噛まれ、驚いて少し腕を浮かせて視界を広げると、イヴァンが俺の腕を持ち上げて悪い笑みを浮かべた。そして今し方噛んだそこを見せつけるようにして舐められる。覗き窓から届くわずかな光が彼に妖しい陰影を付けていた。胸がざわつく。一瞬視界が歪んだ。
(か、かっこいい……)
イヴァンは俺の話を聞いてくれた。無視しなかった。笑いかけてくれた――こんなイヴァンを好きな綺麗な理由は一瞬にして消えた。理性の働かない、本能に近いところで生じた熱はじわじわと体中を侵食していく。イヴァンを俺だけのものにしたい。誰にも渡したくない。俺が死ぬときは彼を殺して道連れにしたい。
「は、はは……」
「なんだよ、いきなり笑って変なやつ」
イヴァンが俺の手を離し、ベッドの下から小さなボトルを取り出した。ボトル一杯に入っている液体を手に取り、手を俺の尻に滑らせる。
「――っ」
イヴァンの指が中に入ってきて一瞬ぎゅっと目を閉じる。久しぶりで痛みを覚悟したがローションのおかげなのかさほど痛みはない。イヴァンは逆の手で体のいろんなところを触ってくる。髪の毛、頬、胸のところ、太もものあたり。こんなところを触られても気持ち良くなんかなるわけないのに、どこに触れられても気持ち良くて仕方が無かった。気を抜くと狂人のように直ぐに口からよだれが垂れてしまいそうだったし、中に入れられた指が抜き差しされるたびにその刺激が前に行き、いけないものを垂れ流している錯覚に陥った。ぶっ壊れた人間が出すような意味の無い音がひっきりなしに口から出ていた。
「いれるよ」
顔は燃えているように熱かった。俺は眠りに入る直前で意識が戻ったような、そんなぼやけた世界にいた。
指よりもずっと大きな物がゆっくりと入ってくる。俺がずっと待ち望んでいたもの。俺は一方通行でもいいからイヴァンと「愛のあるレイプ」をしてみたかった。
「――う、ぅ」
「……なんだよ」
は、とイヴァンが少し苦しげに息を吐いた。
「痛えの?」
問われて首を横に振る。ぐ、ぐ、とイヴァンが中に入ってくる。
「クゼ、実は泣き虫?」
また首を横に振る。
俺はイヴァンと愛のあるレイプをしたかった。それは俺からしか矢印の出ていないもの。それを望んでいた。くしゃ、と髪の毛を掻き上げられる。ロウに整えてもらった髪の毛はきっと見る影もない。
「台無しだな」
イヴァンも同じことを思ったのか、自分で崩したくせに彼はおかしそうに目を細めた。湧き上がる感情は初めてのものばかりで、世の中の全てに名前が付けられているはずなのに当てはまるものが見当たらない。そればかりか思い上がりに違いないが、俺がイヴァンに抱く感情は世界中の誰も持ち得ない自分だけのものだと思った。
両の手でイヴァンの頬を包み込んでみる。血の通った人間の感触がした。暗闇の中でひときわ映える白い肌。モノクロームの世界でも輝く金色の髪の毛。こんなに美しい天使になら殺されても良いと思っていた。
少しくらい強引でも俺はなんともないのにイヴァンは時間を掛けて入ってきた。
「ん、……」
奥まで押し込まれた物がゆっくりと引き抜かれ、さっきよりも速く押し込まれる。
「あ、あっ――」
我慢できずに変な声が出た。気持ち悪くないかな。大丈夫かな。段々と俺の中がイヴァンの形に慣れ、抜き差しが楽になってきた。イヴァンが動くたびに足されたローションが俺の中でぐじゅぐじゅと嫌らしい音を立てる。そのたびに俺は気持ち悪い声を出して、気色悪くよがったのだった。
きっと俺の腹は自分の出したもので真っ白になっている。そんなことあるわけないのに、箍が外れたようにひっきりなしに出ていた気さえする。暗い室内。湿ったベッドに横たわり、イヴァンの腕の中にいる。やっと鼓動も落ち着きを取り戻し、なんとなく眠くなってきた。
「クゼ」
「んー……」
ぐい、と脇腹を掴まれて引き上げられる。寝入りばなの衝撃に目が覚めた。目の前にはイヴァンの顔。なぜか彼は真剣な表情で俺の目を見ている。
「どうしたの……?」
「言って欲しいことがある」
「言って欲しいこと? 俺に?」
「ああ」
一旦イヴァンは言葉を切った。普段は意識しない音が静かに、だけどはっきりと耳に届いた。イヴァンが口を開く。
「殺すな、お前にそんな権利ねえって言ってくれ」
イヴァンから出た言葉に驚く。イヴァンの顔は真剣そのものだった。
「死にたくないって、守ってくれってお前が言ってくれたら、俺は――」
最後まで言わずにイヴァンが黙った。
イヴァンは俺を殺さないと言った。世界中にある優しさを全部集めても足りないくらい優しく抱いてくれた。俺にはそれだけで十分すぎるほどの幸せなのに、もし今イヴァンが言った言葉を口に出したら、俺はどうなるのだろうか。
殺すな、死にたくない、守ってくれ。どれも本気で口に出したことのない言葉たち。俺なんかには死ぬまで縁がなかったはずのもの。
意地汚く生に執着している俺は、もしイヴァンに飽きられたら、下水に落ちたいと思いながらも、今までどおり男に媚びを売って生きて行くだろう。心底相手を見下しながら。
くだらない人生だ。
なんの生産性もなく、死にたくないから生き続けるだけ。俺はどんな罵倒も暴力も黙って受け入れなければならないような犯罪者なのに。
それでもイヴァンは死にたくないと言ってもいいと言ってくれた。守ってくれなんて、人の命を奪った俺が口に出来る言葉ではない。
「……俺」
言ったら何か変わるのだろうか。罪悪感で死にたくなるかな。いや、きっと変わらないだろうな。だって俺は自分の意思で人を殺せるような人間だから。ただ、もしかしたら、少しだけ心が軽くなるかもしれない。だって、俺が死にたくないと言ったらイヴァンは肯定してくれるから。
口に出してみようかな。あんたと生きてみたいと言ってみるか。
心細くなり、イヴァンの手を探して触れた。すると、手を握られた。握られた手は自分のものではないように感じられる。
そういえば手を握られた記憶はない。小さな頃はあっただろうけど、全く覚えていない。それなのに一瞬、忘れたはずの母の顔を思い出した。
「……俺、優しくされたい」
考えていた言葉とは違うものが出て自分でも驚く。しかし、考えずに出た言葉は紛れもない本心だった。
「わかった」
イヴァンが嬉しそうに笑った。