長い夜の話
三木の髪は揺れない。
彼は派手に染めた短い金髪をつんつんといろんな方向に立てている。前髪は後ろ髪よりは長いが、額にたらされず横に流されている。
三木は繊細な顔立ちで、どちらかと言えば女性的。私はこのことを彼の髪が伸びてきた頃に知った。どのくらい前だろうか。もう随分長いこと彼が綺麗なことを知っていると思い込んでいるが、実はそれほど前ではないかもしれない。私はずっと前から知っていることを望んでいるのだ。
ベッドに座りながら足元に落としていた目線を上げる。そこには窓があった。自分の部屋なのにも関わらず、思考に耽っていたためかいつもより強く窓の存在を意識する。赤い、と思った。部屋はもう暗いのに窓の向こうの空は赤く、壁を隔てて世界が異なっているように感じられる。私はしばらくその赤を眺め呆けていた。
暗色が強まり、視界における不可思議さが薄れる。私は立ち上がり、実家から持っていくように命じられ渋々受け入れた姿見の前に立った。窓から差し込むわずかな赤が私を死んだもののように見せている。
自分の姿を改めて目にし、弱々しい容姿に嘆息する。物心ついた頃から髪が肩よりも短かったことはない。また、自分にあまり興味がなくまるで男らしくないそれを矯めようとしたこともなかった。私は与えられるものをそのまま受け取り、考えることを放棄していた。女のような私を皆褒めそやし、容姿に見合った振る舞いを求められた。彼らの私に対しての視線や願いは凶器であり毒だった。
人の笑った顔を気持ち悪いと思っており、三日月に細められた目も、それをひっくり返したような口も嫌悪の対象でしかなかった。しかし、恥じらいを装い目をそらし、口下手と偽れば大部分の面倒事は避ける事が出来た。本来の私は闇に融けどこかへ行ってしまったが、楽な道があれば自分と別れてもそちらへ進みたい。私は面倒くさがりなのだ。
なりたいものがないから、女性的な容姿と言われることにも何も感じないし、男性的でありたいとも思わない。
しかし、姿見に映し出された今の私は黄泉に渡った儚い女の霊のようでひどく不快だ。
三木の顔が頭に浮かぶ。彼は私のことをどう思っているだろう。初めは嫌われていた。当然の報いだが、私は身勝手にもそれに傷つき、できるなら好意を抱かれたいと願った。
今は嫌われてはいないと思う。けれど、好かれているとも思えなかった。そもそも、本来の私は行方不明で、今の私は輪郭が曖昧なよくわからない人物だろう。周囲の認識は「冷たい人物」というものだと私の耳にも届いている。
好かれるはずがない。
わずかに残っていた赤も思案の内に消えた。黄昏の薄闇の中で私は机に近づき引き出しからハサミを取り出した。いつ手に入れたかすら覚えていないただのハサミだ。それを持ち、姿見の前に戻る。私に表情はなかったが、鏡に映っているのは行方不明になっていたはずの本来の私のような気がした。
顔の右側に垂れている髪を適当に掴み、切り落としてみる。鏡を通して髪の毛が宙を舞い床に落ちるのを見届けた。ふと、我に返る。じゅうたんを敷いていなくて良かった、とほっとした瞬間気が抜けた。
腕を垂らし鏡を見ると、左右非対称のおかしな髪型をした自分が困った顔をしてこちらを見ている。このあと頑張って左右対称にして、明日は学校をさぼって美容室に行かなければ。
「……三木に会いに行ってもいいだろうか」
誰にでもなく問いかける。髪を整えてもらう前の不格好な私を、なぜか見てもらいたい。
それでも同じような長さに……と髪の毛にハサミを入れ続けた結果、短くなりすぎて見るも無残な姿になってしまった。こんなぐちゃぐちゃな自分、私は見たことがない。
私は元々格好良いタイプではないが、なんというか、だらしがないように思えた。それでもこんな私を一度三木に見てもらいたいと思い、先日誕生日に進藤からもらった過激な柄のパーカーに袖を通す。人でも殺してしまいそうな柄だと思った。こういうのをぱんくだかろっくというのだろう。
すっかりフードを被ってしまえば、髪の毛がないことには気付かれないだろう。もしかしたら私だということにすら誰も気付かないかもしれない。
私は深く考えもせずに部屋から出て一般生徒たちがいるフロアへと向った。三木の部屋は以前聞いてわかっている。
三木の部屋まで、誰にも声を掛けられることなく進んだ。ちらちらと見られるが、おそらく激烈なパーカーのせいだろう。
三木の部屋の前で、三木に電話をする。インターフォンを鳴らせば良いのだが、おそらく彼が私の姿を見たら居留守を使うだろう。
『坂上さん? どうしたの』
いつものそっけない態度で三木が出る。
「今あなたの部屋の前にいるのです」
言ってから、一般生徒のフロアに私のような上のフロアの生徒が来るのは問題だったろうかと思い至る。そういえば進藤や常磐は、迷惑が掛かるから一般生徒のフロアには行かないと言っていた。進藤に外から行く方法を教えてもらったことがあるが、私は運動神経が鈍いので命の危険がある。
『はあ? 急だね。待ってて』
怒られると身構えたが、三木はいつもの私に対するそっけない態度を崩さず、すぐにドアを開けてくれた。
「わっ」
その三木が奇抜なファッションで現れた私にぎょっとする。風呂あがりなのか、頬は上気し、髪の毛は濡れて額に前髪が掛かっていた。
「とりあえず、入っていいよ。あやしい」
「はい」
おじゃまします、と断り室内へと入る。あまり他の生徒の部屋に入ったことがなく、少しドキドキした。三木の部屋、ということも関係しているかもしれない。彼は特別だから。
三木と私とをうまく言い表す言葉はない。先輩後輩と呼ぶほど私に威厳はなく、三木も私に敬意を払うことはない。その価値もないのだが。そして友人と呼べるほど馴れ合える関係でもなく、知り合いというほど疎遠でもない。
覗き見仲間――敢えて探すならば、この言葉が一番しっくりくるかもしれない。
「俺の部屋行くかあ。最近、漫画とか整理したからすっきりしてるし」
私のことを振り返りもせず三木は進んでいく。懐かしい共有スペースを渡り、個々人に与えられた狭い部屋の中へと入らせてもらう。
三木の言ったとおり、部屋はすっきりとしていた。ただ、大きな本棚に空いた大量のスペースが不自然に思えた。
「集めてた本を全部実家に送ったんだよ。まあ、何冊かは残してるけど」
言われて、隅の方に立てかけられている本を手に取る。
「随分、難しそうな本を読んでいるのですね」
カバーもない文庫本が数冊。中にはびっしりと字が敷き詰められている。私も強制されてきたから勉強はできない方ではないが、自らこのような細かい字の本を読もうと思ったことはない。というか、読書自体あまりしない。
「BL。知ってる?」
「いえ……」
「ジャンルだよ。同性愛。鬱屈した青年が、これまた悩み深き男と駆け落ちする話。最後は死んじゃうけどね」
「こ、こんな厚いのを最後まで読んで、救いはないのですか……」
「でも、面白いんだよ。それに、ふたりとも満足して死んでくし」
「そうなのですね……」
「坂上さんも読む? なんて――」
「貸してください」
思わず言っていた。理由なんてない。反射だ。後付けするならば、三木の良いと思ったものを覗いてみたかった。これが理由だろう。
「挫折したら返して。すごく人を選ぶ本だと思うから。ジャンルも」
「進藤から竜宮ラブという漫画を借りたことがあります」
「へ? そうなの? 漫画版も良いよねー」
良いよね、と言った時の三木の表情が少し曇ったことに気がつく。
「三木君も、読んだことがあるのですね」
「うん。たぶんね、俺が恭弥に貸して、それを会長さんが読んで、漫画買ったんだよ思うよ。俺、小説貸したから」
「それは、この本棚に残ることができなかったんですね」
「え、あ……」
三木が珍しく言葉に詰まった。大きな本棚には三冊しか本が残っていない。私には数えきれない量の本を実家に送ったということだ。その流れで行けば竜宮ラブを送ったのは自然に思える。一見すると彼が残したのは難しそうな内容のものばかりだし、私が貸してもらって楽しく読んだ竜宮ラブはもっとライトな、明るい話だった。
もしかしたら彼が実家に本を送ったのはポジティブな理由ではないのかもしれない。しかし、そんなことを詮索できるほど、私と彼の距離は近くなかった。
それを少し残念に思いながら、ベッドに座った三木に近づく。
「そういえば、用事あったの? つーかつっこみそびれたんだけど、何そのパーカー。恭弥がたまに着てるのに似てるんだけど」
「進藤からのプレゼントです」
「ああ。それも会長さんの趣味か。あの人、私服攻撃的だもんね。最近は落ち着いたらしいけど」
三木が納得したように破顔する。珍しかった。彼が私に朗らかに笑いかけることなど今までめったになかったのだから。様子がおかしい。私が来てしまったことが原因なのか、何か嫌なことがあったのか、それともさっきの私の本に関する質問が原因か。
何かあったのですか? と聞いてしまおうか。でも、答えてくれないだろう。
「坂上さん、なんでそんなにフード目深に被ってるわけ? 顔、見えないのってなんかさー」
言いながら、三木の手が私に伸びる。
「あ」
フードが後ろに払われた。
「え!?」
三木が目を丸くして驚く。
「はあ? え? さ、ええ!? どうしたの!?」
「いえ」
「もしかして、いじめ!? 頭おかしい奴らにっ」
「自分でやりました。これを見せに来ました」
「はあ!? まじ!?」
「まじです」
仰け反った三木が、おそるおそる近付いてくる。ベッド上、彼と私の距離は初めから近いが、三木はさらに至近距離から私を見た。やはり、綺麗な顔をしている。
「適当に切っても――」
三木がはっとしたように口を噤む。
「なんでもない……。ていうか、ちゃんと切らなきゃ。その髪で明日学校行くつもり?」
「いえ。ちゃんと明日整えに行きます。明日は学校を休みます」
「……初めから美容室でやろうよー」
「勢いでハサミを入れてしまったので」
「どうしたの? 坂上さんも鬱憤たまってたとか?」
「三木君も溜まっていたのですね」
「あ」
「やはり、私には言いたくないでしょうか」
ずるい聞き方だと思った。彼と私の距離は近いものではない。しかし、私は彼が「良い子」だということを知っている。そっけないけれど良い子の彼は私が傷つかないように、嘘でも本当でも、何かしら教えてくれるだろう。私は、このように考える自分の性格が悪いことをちゃんと知っている。
「……俺、知っての通り覗き見するくらい腐ってるんだけど」
「ええ。意外にも楽しいです」
「良かった……。けど、最近してないじゃんか」
「そう言われれば、そうです」
そう言われればなんて言ったが、最近「覗き見いく?」と声がかからなくて不安を覚えていた。
「興味がなくなったわけじゃないけど、現実も紙の上でも、人の幸せなところあんまり見たくねえの」
「そうだったのですね」
「本棚、幸せが詰まってるからさあ、目につくのもなんか嫌で、だから送ったんだ。俺の部屋に入れといてーって言って」
俺も切る髪あればよかったのに、と三木が笑った。その表情があまりにも寂しくて、私はなんとなく切ない気持ちになる。人の幸せを拒絶したくなる何かがあったのだろう。
「髪残ってんじゃんとか言わないでよ。俺、坊主は嫌だし」
「言いません。私は君のその髪の毛が好きです」
明るくて短くて、つんつんしていて、だけど上品で――。
「あ。でも、少し伸びたのも良かったです。綺麗で」
「綺麗じゃねえよ。痛んでる」
「三木君自身が綺麗だという意味です」
伝えると、三木が再びぎょっとする。変なことを言っただろうか。人付き合いが上手くないから、何を言うのが「普通」なのかよくわからない。
「嫌な思いをさせてしまったらすみません」
「……べ、別に良いよ。そういうのは、しゅ、主観だし。でも、俺も最近成長期きてるんだよ」
三木が恥じらうように俯く。随分と可愛らしい反応だと思ったが、今度こそ本当に嫌がられてしまいそうで伝えることは避ける。
しかし他に言葉を見つけられず、無意識に肩に手を伸ばすが何もない。ふと、困ったときは髪の毛をいじってしまう癖を思い出した。しかし、いつも触っていた場所にはもう何もない。
そうだ、私は自分で長かった髪を切り落としてここにいるのだ。三木の反応を見たいがために奇妙なパーカーを羽織り、ここに来た。
なぜ三木に見せたいと思ったのか、その理由は自分でもわからない。しかし、物心ついた時から長かった髪の毛を切り落としたことで、わずかにだが、私は変われるような気がする。今までだったら、言葉に詰まっても敢えて他の言葉を探さず、探してもすぐに諦めていた。
それ以前に私は人が嫌いで、自ら近付いたり言葉を掛けることなどなかった。
だけど三木には近付きたい。三木を悩ませる何かを取り除き、出来ることなら笑ってもらいたい。人を笑わせたいと思ったのは、初めての経験だった。
私は変わるのだ。
本来の私は行方不明になってもう戻らないと思っていたが、それこそが幻想だ。私はどこへも行っておらず、今ここにいる、人付き合いが下手で冷たい自分しか存在しない。
私は夢を見ていた。本来の自分は、今の自分よりも良いと思っていたかったのだ。
「……私は、覗き見することが楽しいと思いました」
「は? なに、いきなり……」
「それが減り、身勝手にも寂しいと感じるようになりました」
「……うん」
「良ければ、覗き見でなくても、たまにでも良いので、一緒にいてください」
勇気を出して言った。
私はかつて恨まれていた。彼の大切にしている木戸にひどいことをしたからだ。その罪は消えず、私と彼とが付き合い続ける限りいつまでも付きまとう。
それを受け入れながら、それでも彼の傍にいたいと思うことは果たして罪だろうか。
三木はきょとんという表情で私を見ている。その姿は、やはり可愛らしい。彼は成長期が来ていると言ったし、確かに初めて会った時と比べ大きくなったが、可愛らしく感じる。凪いだ海のような胸が軋み、温かくなるような変化がある。
「……本もなくなったし、暇になったから」
三木が呟く。
「良いのですか?」
「良いですよ。……あんたが良いなら」
「私がお願いしているんです。一緒にいてほしいと思ったので」
そう言うと、三木は首が取れるのではないかと心配になるほど深くうつむいてしまった。
2
私はただそこにいるだけで良かった。
私の家は少々特殊で、地元では知らない者はいないようだった。
「何をしているのかわからないが、とにかく昔からお金持ち」
こう思われているらしい。確かに私や父、祖父の生まれるずっと前からお金は持っていたようだが、父や祖父を見ているとお金を得るのは決して楽そうではなかった。しかしながら綺麗と形容される容姿だけが取り柄の私に期待する者はただのひとりもおらず、口を噤み、じっとしていることを求められていた。私は飾られて眺められるだけのお人形で、期待されているのは兄と弟だった。
面倒くさがりの私はそれをどうとも思っていなかったが、褒められもせず、次第に叱られもしなくなったことは、少し寂しかった。
小学校卒業後、私は親元を離れ、中高一貫の学校に通うことになった。裕福な家の子供達が集うそこで人脈を作るように命じられたが、やはり父も祖父も私には何の期待もしていないようだった。「お前には難しいだろうが」と少しも笑っていない笑顔で言われたのを覚えている。そういえば、最後に人から名前を呼ばれたのはいつだろう。家では「お前」、学校では名字で呼ばれている。記憶を辿ってみても名を呼ばれた記憶が蘇ることはなく、心の中で自分の名を唱えてみたがなんだかしっくりこない。
どうやら名前というものは他人から呼ばれ続けなければ段々と朽ちていくらしい。
名前を失ったら私はどうなるのだろう。考えてみても想像がつかない。だけどどうなるのか、他人事のように興味を抱いた。
生きた実感のない日々がただ過ぎていき、いつの間にか親元を離れてから4年の月日が流れていた。やはり4年間ただの一度も名を呼ばれることはなかった。
名はすでに自分のものではなく、ふわふわと宙に浮かび始めていた。私はそれを眺めるだけで手を伸ばそうともしなかった。
そんな私に転機が訪れたのは高等部2年生になってすぐのことだ。この経験から、私は自分が真に最低な人間だと知ることができたのだが、ある時、一学年下に時期外れの転校生がやってきたのだ。高等部に転校生が来ることは非常に珍しく、彼の学校説明や施設案内は生徒会が行うことになった。この時私は顔だけが評価され副会長になっていたのだった。
結論から言えば、彼は私と友達になってくれた。そして、私と仲良くしたばかりに虐められ、素直で優しかった彼は疑念の塊へと変わってしまった。近くにいたくせに友人ができ有頂天になっていた私は彼の変化から目を逸らし続け、そればかりか、彼の暴走を阻止しようとする生徒の邪魔までするようになってしまった。
しかも、面倒くさがりで生徒会の仕事も嫌々やっていた私は、残った者のことなど一切考えず、いや、迷惑をかけることをどうとも思わずに生徒会室に顔を出さなくなった。結果的に責任感の強い会長――進藤ひとりが生徒会に残った。
悪は滅びる運命にある。私は退治された。転校生はカウンセリングが功を奏して毒気が抜け、現在は穏やかに生活しているようだ。校内で見かけても、互いに目も合わせなくなった。
かつての私はただの置物だった。役に立たないが、邪魔にもならない。けれど、今の私は役立たずの置物にすらなれない大きな廃棄物。理解していたが、廃棄物らしい立ち振る舞いがわからず、元来最低で面倒くさがりの私は廃棄物らしい立ち振る舞いを諦め、せめてもの罪の償いとして、今までおろそかにしていた生徒会の仕事をきちんと行うことにしたのだった。
「ちょっと、坂上さんってば」
腕を掴まれはっとして顔を上げると、困惑したような、呆れたような顔の三木と目が合った。
「すみません……ぼうっとしていました」
「だろうね」
今も彼は私の隣にいる。考えに耽り何も言えていない私を怪訝そうに眺めている。なんて言おうか。先ほど話しかけてくれてからややしばらく間が空いてしまった。
三木が「変なの」と言って溜め息を吐く。
「ごめんなさい」
「別に、謝んなくて良いよ。顔上げたらあんたが止まってたから、びっくりした」
「……すみません」
「なんか本当に人間っぽくなかった」
「人間?」
「調子悪いの? 表情を変えずにじっとしていると人形みたいだ」
三木が私をじっと見つめている。彼の瞳を拡大してみると、きっと私の姿が映っているのだろう。三木の瞳の中に自分がいることがどことなく不思議だ。彼は今日の私を人形みたいだと形容したが、彼の瞳に映された私は人間だ。彼の瞳に映ると、豊かな感情を持たない私でも、れっきとした人間になれる気がする。
「なんとなく、昔のことを思い出していたのです。考えようとしたわけではないのですが」
「昔のこと?」
三木が不思議そうに首を傾げた。
「家にいた頃のことや、」
それと、みんなに迷惑をかけていた、最近のこと。
「……春からのことなど」
進藤や木戸、その他大勢の人たちに迷惑をかけた時のことだ。三木とこうして話すようになったきっかけでもあるが、私が彼に嫌われたきっかけでもある。
「家ではどんな感じなの?」
しかし三木は気にする様子なく、尋ねて来た。
「このままです」
「このまま? しゃべり方は? 俺、あんたが敬語じゃないとこ聞いてみたい。さすがに家族には敬語使わないでしょ」
答えに窮した私に何を思ったのか、三木の顔が曇る。
「……家族にも敬語? あんたんち、みんな丁寧なの?」
「私は、出来が悪いので」
「出来? 頭悪くねえじゃん」
「うっかりしているので、普段から話し方を変えないようにしていました。外と対した時に粗相がないように」
「……考える時は? 頭の中もそのまんま?」
「いえ。頭の中はきちんとしていません。……それに、気をつけていても、口を衝いて出た言葉が崩れることはあります」
「別に、砕けるのがいいってわけじゃねえけど、とっさに出る言葉が楽なしゃべり方なんじゃねえの?」
「会話をする機会が少ないので、無理をしているわけではありませんよ」
「会長さんと仲良いじゃん。友達でしょ」
「私でも少しは彼に対して申し訳ないと思っているのです。進藤は……優しいので、以前と変わらず接してくれていますが、友達というのは進藤と橘とか、あなたと木戸など、ああいった関係のことを言うのだと思います」
それぞれの顔が頭に浮かぶ。みな、良い人たちだ。
「友達だと思うけどなあ」
三木が首をかしげる。進藤は嫌味なく普通に話しかけてくれるが、友達だと思うのは申し訳ないと思っている。私は彼にそれほどの迷惑をかけたのだから。
それに、私は面白いことも言えないしまだ普通がわからないから、一人でいることを楽に思う部分もある。他人に迷惑をかけていない時、私は安心するのだ。
それで良いと思っているのに、三木に一緒にいたいと言う自分は矛盾しているし、夏に宮田くんが私のことを友達だと言ってくれた時嬉しがる自分がいた。
「……宮田くんが」
「宮田さん? 恭弥の風紀の先輩の?」
「ええ。水泳大会で一緒になり、友人だと言ってくれました。私は面白いことも言えず、普通の会話すらできず……今も友人だと思ってくれいるのかわかりませんが」
言ったそばから後悔する。彼は今でも私のことを友人だと思ってくれているだろう。三木に告げたことは宮田くんに対する侮辱だが、もう口に出してしまった。
三木が黙り込む。
ここは三木の部屋だ。私は勝手に来た客人なのに、彼の空間が私のせいで翳ってしまった。私はまたか、と思った。言葉を口から出して相手に届いた時、相手がどのような反応をするか考えられない。結果、このように失敗してしまう。
「すみません」
「なんで謝るんだよ……」
「不快でしたでしょう」
「不快? 別に」
「よろしければ教えて下さい。私は大変に鈍いようではっきりと言われなければ分からないのです」
「だから、不快じゃねえって。ただ……少し考えただけだよ。会長さんと仲よさそうに見えるし、その」
三木が言いにくそうに口ごもる。
「とにかく、あんた多分自分が思ってるよりもとっつきにくくないよ」
彼が掛けてくれた言葉に私は何も返せなかった。気を遣わせてしまった。
「変わってはいるけど。あんたみたいのを天然って言うこと、俺知ってるよ」
そうして三木が控えめに笑った。彼はすぐに笑みを引っ込めて、なんだか照れくさそうにして、私の頭あたりをまじまじと眺めた。
「それにしてもさ、思い切ったね」
「ほとんど無意識ですよ」
「それでも、もしかしてこれはおしゃれなのかも……? って思わせられるのがすごいな……」
「わかりませんが……今の私の状態が良いとはいえないことは確実だと思っています」
「俺は長いのよりもこっちのほうが好きだ」
「……女の人みたいで、似合っていませんでしたか?」
「似合ってるとかじゃなく、単に好みの問題じゃねえの? ほら、俺短いの好きだし」
そう言って三木が自分の頭を指さした。彼は普通に会話することも難しい私を受け入れてくれている。それが嬉しかった。許可無く髪の毛を短くしたことがわかれば家族は一様に顔を顰めるだろう。きっと呆れられ、何をしているのだと叱責される。自分自身、やらかしてしまったと、どこか後ろめたい気持ちになっていた。
「そういってもらえて、ありがたいです。すごく。……戻りますね。あまり長くいると迷惑でしょう」
「別に? まだいりゃいいじゃん。せっかく来たんだし。あんたさあ、自分の部屋からほぼ出ないで引きこもってるんでしょ」
「行くところもありませんし……。今日は戻ります。後片付けもありますし」
「後片付け?」
「髪の毛が散乱しています」
「ああ。大変そう。手伝う?」
「えっ?」
思いもよらない提案に、とっさに遠慮することができなかった。
「いいのですか?」
それどころか、ほとんど無意識に出た言葉は来てほしいと願う、私の本心。
「いいですよ」
申し訳ないことをしたと後悔したばかりなのに、もっと一緒にいたいと思ってしまった。
3
「これが坂上さんの部屋……。なんつーか、物ないね」
坂上さんの部屋はすっきりとしていた。必要最低限のものしか置かれておらず、生活感がない。人間らしく生活しているところを想像するよりも、学校を出てからのこの人は実は本物のお人形で、部屋に入った瞬間動きを止めるのだ――このような想像の方がしっくりくる。
坂上さんは「現場はこちらです」と、まるで事件が起こったかのように案内してくれた。
「事件現場」は寝室だった。
部屋に明かりが灯り、何よりも目を引いたのは綺麗に整えられているベッドでも散乱した髪の毛でもなく、無残に散った髪の毛の前に立つ大きな姿見だった。
「ここでやりました」
間違いなく彼の持つ空間の中で一番目立つものだ。シンプルすぎる部屋の中で、その鏡だけが唯一時代を感じさせる。生気のない坂上さんより人間らしささえあるような気がした。
「椅子はないので、ベッドにでも腰掛けてください」
「うん」
俺は姿見から目を逸らしながら彼の言う通りベッドに座った。普段ここで寝ているのか、と思ったら少しだけ緊張した。
そのうちに坂上さんが箒とちりとりを持って戻ってきた。
「ほうき?」
「意外かもしれませんが、片付けはあまり苦ではありません。……これらで大きめの物を集めてから掃除機を掛けて拭き掃除をするのが一番綺麗になる気がします」
「よく持ってたね。箒とチリトリなんて、実家にもねえかも」
シンプルで現代的な部屋に似合わない昔ながらの箒とちりとり。どちらも鏡と同様使い古されているように見えた。
「……父に、お前は綺麗に掃除をすると褒められたことがあります」
「へえ?」
「今、急に思い出しました。……だから持ってきたのかもしれない……」
ぽつりと落とされた言葉はおそらく俺に向けられたものではなかった。しかし、今日のこの人はいつにもまして消えてしまいそうな儚さをまとっているから、たとえ独り言だとしてもすべてをうざったく拾ってしまいたい。
「褒められたから? かわいいとこあるね、坂上さんも」
「私は何をやっても期待外れのことしかできず、褒められることがありませんから」
箒とちりとりを持ったまんま、坂上さんが目を伏せた。さっき昔のことを思い出したと言った時と同じ表情。感情が抜け落ちたような見ていて不安になる類のもの。坂上さんよりも人間っぽい姿見に取り込まれてしまいそうな危うさを感じた。そんなこと起こりえないのに、鏡の中に消えてしまうんじゃないかと思った。
何を言おうか逡巡している間に坂上さんに人間らしい表情が戻った。
「整えてもらえませんか」
そして、彼は言った。そんなことできるわけない。こう言うはずだった。
「……下手だよ俺。自分の前髪しかやったことねえし」
「かまいませんよ」
4
美しい人の髪にハサミを入れる。わずかに力を込めるだけで癖のない亜麻色の髪の毛が宙を舞う。
髪の毛も生きている。体の一部だと考えると、俺の今の行為はこの人の一部分を殺すものだ。
彼が俺の部屋にやってきた時、肩の下まで伸ばされていた髪の毛はすでにあごのあたりまで雑に切られていた。
人が人の髪を切るところを間近で見たことはあったが、実際にしたことはないし知識もない。それでも彼は俺にやってほしいと言った。できないくせに少しだけなら……と了承した俺も大概おかしい。友達がやっていたのを思い出しながら。見よう見まねでハサミを入れていく。
「適当でいいですよ」
あまりの慎重さに思うところがあるのか、前から声が飛んでくる。
「適当はだめでしょ」
「思い切りおかしくしてくださっても構いません」
「かまいなよ。明日、笑われるよ」
「明日……」
ぼそりと坂上さんが呟いた。「明日?」とまた耳ざとく拾ってみる。
「明日なんて、来なければ良いのに、と思ったのです」
「ほら、やっぱり」
「そうではありません。……この夜が、なんとなく終わってほしくないのです」
意図がわからず、また、この人がまとっている雰囲気も手伝って適当な言葉すら返すことができない。
間を繋ぐようにハサミを持つ手に力を入れる。
この人の一部分を俺は今確かに殺した。
ちょきちょきと、文字に起こすと間抜けな音を立てながら慎重に切っていく。
項が見えるようになった。透き通るような白さとはこういう時に使うのだろう。男のものとは思えないほどきめ細やかな肌。首も細い。坂上さんは女には見えないが、男とも呼びたくない。本当に見た目だけは誰よりも綺麗な人だ。坂上さんを好きだという男がいてもきっと誰も不思議に思わない。
彼は恵まれた容姿を持っている。それなのに、俺の前に座っている美しい人はちっとも幸せそうじゃない。
「ねえ」
「何ですか?」
「あんたもうすぐ3年だけど、進路ってもう決めてんの?」
「大学には行かせたいようですのでその通りにしますよ」
「決めてるんじゃなくて決まってんのか」
「働きたくないのでいいのです」
「俺も働きたくねえ」
「……どうやって生きていくかいずれは考えなければいけませんが、今は全く考えられません」
「親の会社は?」
「兄と弟で十分です」
「でも楽じゃねえ? なんにも考えなくていいし」
「帰りたくないのです」
静かな、断固とした決意を含んだ声。初めて聞くものだった。
自分でも驚いたのか、前からふふ、と小さな笑い声が聞こえた。
「三木君は?」
「俺んちだまってても金入ってくる感じだから、楽なもんだよ」
「ご兄弟はいるのですか?」
「妹がいるよ。百合好きな」
「ゆり?」
「そう。あとで調べてみて」
はい、と坂上さんは素直に頷いた。後一年ちょっとでこの人ともお別れか。友達とも呼べない何か。この人の未来を知る権利を俺は持っていない。
ここらへんではっきりさせたほうが良いのだろうか。闇討ち未遂から始まった、俺とこの人の関係性について。
考えにも満たない想いを巡らせているうちに、最後のハサミを入れ終わった。床も、坂上さんも俺も、切り落とされた彼の髪の毛だらけになっている。
「終わったのですか?」
坂上さんが振り向き、上目遣いで訊いてくる。
「終わったよ」
「そうですか」
前を向いた坂上さんが目を伏せたのが、姿見を通してわかった。
「今何考えてんの?」
目を開けた坂上さんが自分の姿を姿見で確認する。
「上手ですね、と」
「敬語外してみて。……頭の中ではきちんとしてないんでしょ」
思いつきで言ってみた。やってくれるかわからないし、家のことを思い出させてしまうことに繋がり、負担になるかもしれない。けれど逆に、なんらかの救いになるかもしれない。
「きちんとしてないまんま声に出せばいいんだよ」
「しばらく家には帰れないな」
口元だけで坂上さんが笑った。
「こう思っていました」
彼は俺のことをちらりと見て、やけに大人っぽく微笑んだ。
5
「着物を着る機会が結構多くて、皆が集まる場に行く時には髪の毛を上げて、少し、分からない程度に化粧をするんです」
幼い頃からずっと人前では敬語を使っていた。家族の前でもそうだ。母は優しかったが、厳しい祖父や父から叱責を受けていても、一度もかばってくれたことがなかった。母は穏やかで、いつも優しく「ちゃんとしないとだめよ」と言うのだった。とっさに敬語が外れることはあっても、意識して外すのは難しい。
「……目立ちそう」
「それが役目ですよ。幼い頃は嫌でたまらず、皆が私をじろじろと眺めるのは女の子のような髪型のせいだと思い、祖父に短くしたいと懇願したことがありました」
「どうなったの?」
「一蹴されました。私は出来が悪いので」
女の子みたいだから切りたい。なんで僕だけこんな格好をさせられるんですか、と祖父に言ったことがある。小学生の高学年頃だったろうか。
その日はお金持ちたちが集まる大規模なパーティーのような催しが開かれていた。私はいつものように飾られて、二足歩行が得意なお人形のように祖父や父の後を歩いていた。周りの大人達は私が身につけている装飾品を褒めた。髪飾りやイヤリング、着物に付けられた様々な飾りは私の家の会社で作ったものだ。私がおりこうなお人形になることで、結果的に装飾品が目立つ。大人たちが私を見つけた時の、なんとも言えない視線が気持ち悪かった。
今でもそのような催しがあった際は家から呼び出しがかかる。私は飾り付けられ、黙って彼らの後を歩き、浴びせられる異様な視線たちから目をそらす。
いつまで必要とされるのか。私は答えを知っている。私が大人になり彼らの言う「美しさ」が失われるまで。
必要とされなくなったら私は何を思うのだろう。安堵するのか寂しくなるのか。
「けど見てみたいな」
脳天気に三木が言う。
「絶対すっげー綺麗だろ。こんな素人がざっくざく切った髪型でもちっとも変じゃないんだからさあ」
自分の感情に驚いた。綺麗と言われて悪い気がしなかったから。
「……きちんとしてないまんま声に出せばいいんだよ。今俺に綺麗だって言われて嫌だって思ったんじゃねえの? 今までの話聞いてると、じろじろ見てくるやつら嫌いみたいだし。俺、今更あんたに何言われたって別に……」
三木が言葉を切る。
「嫌いにはなんねえし」
さっき彼は私の敬語ではないところを聞いてみたいと言った。単なる興味には違いなかったのだろうが、今はそれだけではないように思える。自分のことを断片的にではあるが彼に伝えた結果、彼は私を哀れんだのかもしれない。私が同情を誘うようなことを言ってしまったのだろう。人付き合いとは難しい。私には無理だと諦めればいいものを、私はわがままだから、三木と一緒にいたいという欲を手放せずに不要な言葉を吐き出している。
少し努力して、三木の希望に沿ってみよう。
「少し髪の毛が伸びたら、見せてあげ……る」
「わっすっげー不自然!」
三木が声を上げて笑う。つられて私も笑った。
「三木君に綺麗だと言われても、嫌な気持ちにはならなかった」
「そう?」
「嫌いにはならないと言われて、すごく嬉しい」
「俺に? あんたほんと友達いないねー」
「私は、……いや、僕? は、」
はは、と笑えた。
「僕!」
「中学生に上がる頃、私と言えと直されました。僕なんていう人も少ないけれど、自分には自然だったから、ここまで変えられるのかと腹が立ちましたよ」
「けど、従ったわけ?」
「面倒だったから。けれど私と呼ぶようになり、その頃から敬語も普通に使えるようになりました。……やはり、このような話し方の方が自然です」
「いいんじゃねえの? 無理してねえなら」
これが坂上さんだもんな、と言って三木があくびをした。
お礼の言葉を口に出す前に、意識して一度呼吸をした。すると、いつもより少しだけ深く呼吸ができた。いつもより少しだけ体が軽い感じがした。
私はただそこにいるだけでよかった。
これからもそうだ。口を噤み、じっとしていることを求められてきた事実が今の私を形成している。変われば良いな、とたまに夢想することはあるが、私の心の在りようが変わることはない。常に意識の片隅には自分は不要なのだという思いがある。目に見えないそれを私は自分の中で重さのあるものとして感じていた。水が体にまとわりついているような息苦しさと不快感があった。
私の後ろにいる三木が「よいしょ」と大儀そうな声を上げて立ち上がった。
「掃除して寝よう。俺、眠くなってきた」
「ええ。そうですね」
「で、明日髪切るのついてくよ。別にいいでしょ。なんかおいしいもの食べよう」
「明日は平日ですよ」
「たまには良いって。あんた、落ち込んでそうだし」
「優しいのですね」
「恩着せがましいでしょ」
三木が笑って箒を手に取る。床に散らばった髪の毛を掃きながら「たまにやると楽しいかも」と言ってまた笑った。
集めた髪の毛をたどたどしくチリトリに入れる姿を目に焼き付けようとして、彼の姿が少しぼやけていることに気付く。
「……掃除機を取ってきます」
こう告げて姿見のある寝室から出る。
明日はきっと良い日になるのに、今日だって明けてほしくないくらい長い夜であってほしいのに、なんとなく泣きたくなった。