今(終)
だいぶ怪我も良くなり、体のあちこちに出来ていた変色も消えつつあるころ、俺は変わらず海部のあとを付いて歩いていた。
それほど広い背中ではない。背もそんなに高くない。平均的。筋肉はついていないわけじゃないけど、力がある方でもない。
ケンカはしない。
力のケンカも口喧嘩もあまりしない。口調は偉そうだけど、とてもやさしい人だ。
何よりも頼りになる。
引かれたら嫌だな、と思うことはあるけれど、海部は絶対に俺のことを裏切らないと自信を持って言える。なぜだかわからないが、こんな確信があるのだ。
先輩は憧れているだけじゃないかといった。
憧れならば失望した時に終わるともいった。
俺は海部に憧れているけど、ただただ格好良いだけの海部が好きなんじゃない。
俺は優しい海部が好きだ。
海部がなんか突然変異でもして彼から優しさが消えたらどうかわからないけど、海部が優しいなら俺は彼がどんなに格好悪くてもずっと好きでいられる。
ということは、永遠に好きでいられるということ!
首藤先輩が海部にテストという名のどんな試練を課すかなんてわからないけど、どうせろくなもんじゃない。
あ! しまった。ろくなもんじゃないからやばいんだ。
一週間ほどが経っても先輩は何かをしてくる気配がないが、一応海部に知らせておこう。
「海部!」
そう思い、前を行く海部に伝えようと立ち止まり思い切り名を呼ぶ。
「なんだよ」
「首藤先輩が――」
海部を狙ってる、と言おうとしたところで、何者かがすごい勢いで俺たちに向かって突っ込んできた。
「うわっ」
「すいませーん!」
イガグリアタマの彼がとてつもなく大きな石につまずき、海部に向かって倒れこむ。
普通気づくよ! 目、ついてるんなら! と思った刹那、手を伸ばした海部をすり抜けるようにしていがぐりが地面に倒れ込んだ。
「あ、ありがとうございましたぁ!」
すごいリスタートだ。
いがぐりは転んだ途端立ち上がり校舎の脇へと猛スピードで駆けていった。
「なんだよ、あい――」
怪訝そうな海部の声が途中で途切れる。
いがぐりの消えた校舎脇を呆然と見ていた俺は、彼の異変に気が付き海部に目を移した。
海部が自分の胸元を凝視している。海部の周りだけ時間が止まったかのようにまったく動きがなかった。
海部の視線の先をたどる。
「ああっ!」
そこには、大きく色鮮やかな芋虫がいた。
海部の白いシャツに、まるでブローチのようにちょこんと張り付いている。キモい!
虫が大嫌いだという海部にとってこれは地獄!
俺は猛然と走りだした。
「消えろ!」
芋虫を払い落とす。割と重い! しかし草の茂みに芋虫は消えていった。
「だ、大丈夫、海部」
返事はない。
「もう、芋虫いないよ」
海部の顔からは血の気が引いていた。
血の気がないと人間も作り物のように見えるんだな、なんてのん気に思いながら海部の頬をぺちぺちと叩く。
「海部、大丈夫だよ」
4度めに、少しだけ強く頬を張ってようやく海部が俺の方を向いた。彼の目はちゃんと俺を捉えている。
「わ、悪い」
蚊の鳴くような小さな声。蚊の鳴くような、という比喩も彼は嫌うのだろうか。
「良いよ、行こ」
「ああ」
なんとか歩き出した海部の歩みは遅い。
目は土に向き、何かを探しているように見えた。彼の眉間には皺がある。
「探したら見たくないもの見えちゃうよ。上見たら? 俺、危なくないように引っ張るよ」
こう言って海部の手を持った俺の言葉を受けて、海部が素直に空を見上げる。
「あ……」
そして何事かをつぶやく。
俺も気になり海部の見上げた方向を向く。
(まさか……)
海部が見上げた先には屋上があった。
そして、その屋上は無人ではなかった。フェンスに憎たらしく体を預け、ひどく愉しげに俺たちを見下ろしている人の姿がある。
「首藤先輩……!」
首藤先輩は俺たちの視線に気づくと、ひらひらと手を振ってフェンスの向こうへと行ってしまった。
今の海部の姿は格好良いものではない。
虫に怯え、上を向いて歩いているから。
けど、都合良すぎやしないか。
「海部、首藤先輩に虫が苦手って言ったことある?」
「ねーよ。わざわざ弱み知らせてどうすんの」
「そっか」
てっきり今の出来事は首藤先輩が仕組んだことかと思ったが、海部の虫嫌いを知らないならば今の作戦は子ども騙し過ぎる。あんなのでびびるのは虫嫌いの女の子くらいだ。
「ただ、バレちまったことはある」
しかし次に海部から出てきたのは俺の安堵を覆すものだった。
「バレちゃったって、いつ? どのくらい苦手だと思われてるの?」
尋ねると、海部が苦々しい顔をして話し始めた。
「……新入生オリエンテーションの日だよ。前生徒会は補佐も入れて5人だし、俺たち高校からの外部入学組も5人だった。それぞれ別々に学校案内されてたんだ。忌々しいことに俺についたのは首藤だった」
「呼び捨て。海部、首藤先輩地獄耳だよ」
「いいよ、別に俺怖くねーから」
ふん、と海部が鼻を鳴らす。
「で、意味分かんねーことにあの人使ってねー倉庫とかまで紹介すんだよ」
「使ってない倉庫」
「きっと使うことになるからウフッとか言ってさ」
「……へえ」
「忘れもしねー旧校舎の体育館第三倉庫でのことだ」
海部の眉間にこれでもかというほどシワが刻まれた。そのシワに彼の憤りが現れている。
「開けた瞬間、垂れ下がってきたんだ……!」
「ま、まさか……」
「クモだよ」
蜘蛛といえば虫の中の虫。キングオブ虫。苦手な人が最も多い昆虫のひとつだろう。
「俺は……気がついたら……」
海部の足が止まる。脇にたらされた拳は固く握られプルプルと震える。いつのまにか俺が掴んだ手と手はしっかりと繋がれていて、その繋がった手から彼の憤りが伝わってきた。そして、海部は苦虫を噛み潰すように言った。
「気がついたら、首藤に抱きついてたんだよ……」
「わあ」
「優しく抱きとめられて、ああ、思い出したくもねえクソ忌々しい! んであいつほら使う時が来たとか言ってきったねえマットに押し倒しやがって……! くそ!」
「先輩変態だからなあ」
「ドアには依然として蜘蛛がぶら下がってる。俺の上には男が乗っかってる」
「ホラーだね」
「ホラーだったぜまじで」
海部がため息を吐く。もうだいぶ興奮は落ち着いたようだった。
「……先輩、海部を狙ってる」
「はあ? なんっ」
「多分芋虫を用意したのも先輩」
「……そういう狙いかよ」
「多分これからあの手この手で海部を陥れてくると思う」
「まじかよ。なんで……」
がしがしと頭をかき、海部が歩みを再開させる。
手は繋がれたままだ。こんな姿を見られたら、また俺と海部が付き合ってると噂されるかもしれない。これに、海部は気付いているかな。
「首藤さあ、最近なんか俺に突っかかってくるんだよ。お前が怪我して帰ってきたあたりから、用もねえのにやたら突っかかってくんの。まじうぜえ」
海部がため息をつく。心底面倒くさいと思っているらしく、不機嫌そうに目は細められ、口が少し尖っている。そんな表情でさえ海部がすると様になっている。
最近、海部は前より俺に弱いところを見せてくれる。苦手なものやふとした愚痴を聞かせてくれることが増えた。
それまで俺は海部を格好良くて頼りになる、と一言で表していたけど、今はヒトコトでは表せられない。海部を想う感情は、言葉で表すには難しすぎるのだ。ただひたすら好きだと思う。
「って、鏡、聞いてる?」
「あ、ごめんね。聞いてなかった」
「まじかよ……」
海部が呆れたように俺を見て握る手のちからを強めた。そういえば、少し前まで、話を聞いていなかった時に素直にこうやって言えなかったのを思い出す。呆れられて、失望されるのが怖かったから。
「そういえば、最近、なあ鏡って言わないね」
「なあ、鏡? ああ、よく言ってたもんな、俺」
「うん。あれ、好きだった」
「そうかよ」
海部が笑う。彼の後ろにいて俺たちを照らす太陽にも負けない眩しい笑顔だ。それを見て、心臓が激しく鳴り響く。どきどきした。抱きつきたい衝動を抑え、太陽に目が眩んだふりをして下を向く。
「俺も、好きだった。何言ってもそうだねって言ってくれるから、自信無くなりそうな時とか、不安な時によく聞いてた」
「そうだったの?」
「ああ」
「どうして最近は言わないの?」
過去形で語る海部に不安を覚え、恐る恐る尋ねる。
「今よりもっとダメ男になりそうだからだよ」
「ダメ男になっても、俺、絶対に肯定するよ」
「そうかよ」
真剣に言うと、海部が楽しそうに声を上げて笑った。太陽が見えなくなる。海部がまぶしすぎて、目に入らない。
ああ、ダメだ。
口が、勝手に動く。
思いが、音になる。
「海部」
「何?」
「好きだよ」
海部の目をまっすぐに見て告白する。
海部は余程驚いたのか、はっと息を呑んでそのまま止まってしまったが、彼の耳が真っ赤に染まったのを俺は見た。
その瞬間、嬉しい言葉とともに息もできないほど強く抱きしめられた。
海部の胸に顔が埋まる。海部の鼓動は笑ってしまうほど激しくて、言葉よりも饒舌だった。
また、「なあ、鏡?」って言ってほしいな。
「なあ、鏡?」と問われたら、俺は地の果てでも地獄でも、どこにだってついていくのに。