早寝記録

不協和音

 今日は夕方から雨が降るらしい。

 おれには趣味がふたつある。
 その趣味に大切なものは手。どちらの趣味にも大事だが、かたや壊すために使いかたや生み出すために使う。なんというアンビバレンス! アンビバレンス? なんだこれ。
 今おれはその相反する趣味を両立するために悩んでいる。

「ピアノの発表会……?」
「やっぱダメっすか」

 おれの入っている不良集団のリーダー――和音さんが怪訝そうに眉を寄せておれを見た。

「そうなんです! 昔の先生に誘われて、どうですか? って。それがちょうどカモメのジョンソンとの衝突の日なんですよ!」

 和音さんとおれは同い年だけど、和音さんは落ち着き払ってるし、大人の雰囲気があるしおれより背も大きいし、何より尊敬する人だからどうしても敬語になってしまう。おれはグループの中でも下っ端だから、同い年の和音さん相手に敬語なのを気にする奴はいないし、それどころか年下にまでタメ口をきかれたりする。そんなおれがみんなの憧れの的和音さんに向かって、同じ年ってだけで敬意を捨ててどうする!

「……いつどこで何弾くの?」
「えっ。まさか和音さんも音楽に興味が」
「ないけど」
「そうですかそうですか! 二重奏とかしてみたかったけど仕方ないっすね。いつというのはカモメのジョンソンとの衝突の日である4月10日でございまして、ど こでというのは市民会館小ホール! 何弾くのかはベートーベンの月光第三楽章です。おれ得意なのが月の光とか愛の夢とかすごい流れるような優しい感じの曲 が多いんすけど、実際は、まあ、好きなんですけどアルペジオよりも和音が好きなんです! ベートーベンは和音的な意味でもう大好きで、頑張れば性的な意味でも高まるんじゃないかっていうほど」
「静!」
「うお! 何? おお、凛じゃん」

 おれの音楽に対する愛情あふれる演説をでかい声で遮られ、なんだなんだと振り向くと、凛という生意気な下っ端があきれた様子でおれを見ていた。こいつもおれにタメ語を使う不愉快な後輩のうちの一人だ。

「今日も綺麗な顔してんね、凛」
「そりゃどうも……。まあ、和音さんの足元にも及ばないけどね。って静話長いんだけど。俺和音さんに用があってずっと待ってた。タイム計ってたけどピアノの発表会に至るまでの世間話に十二分もかかってる。本題は発表会に出ていいかダメかなんだから、本題からびしっと入ってよ」
「世間話は大切だよー」
「時と場合を考えて! ほんとう俺これから瑞樹さんとラーメン食いに行くのにこんなとこで時間食っちゃって。食いたいのは時間じゃなくてラーメンなんだよ」
「うは! つまんね」
「ほっといて」

 凛と戯れつつも少し脇に寄る。そんなおれの行動に凛は眉を顰めた。

「何」
「凛から先どうぞ」
「別に、急かしたいだけで割り込もうと思ったわけじゃない」
「だっておれ和音さんにもうすこし語りてえし!」
「迷惑じゃん!」

 失礼なことを言うやつだな、と思ったが、もしかして本当におれはうざいのだろうかとはっとして、和音さんを見ると、彼はつまらなそうにおれたちを眺め、別に迷惑じゃないけど……と呟いた。
 けどが気になったが受け入れてくれる和音さん大好き! とおれはあふれんばかりの嬉しさそのままに和音さんに体当たりをした。和音さんはしっかりと受け止めてくれて、それにも嬉しくなる。

「もう! おれが女だったら絶対和音さんと結婚する! 優しいもの! 大好き和音さん!」
「うっわ、静気持ち悪ッ」
「ああでもだめだ和音さんおれが女だったらきっと目も当ててくれないなれてもセフレがおちだ! でも妄想すると叶わぬ恋に体だけをささげて満たされるおれ! 何て健気なの! 最後は和音さんのピンチに颯爽と出てきて和音さんを庇って死ぬオチでお願い」
「意味わかんね」

 凛のつっこみやらあきれ返った声が聞こえるが、気にしない。
 おれはなんとなく和音さんの首に腕を回しぎゅっと抱き着く。触れた部分から、人の温かさを感じた。和音さんはというと、気にする様子もなくおれのケツに手を置いた。なんとなく手つきがやらしいが、おれたちのグループはスキンシップが激しいからこれも普通なのだ。
 だって、和音さんにはどうやら好きな人がいるらしいし、そのために今はだれとも遊ばず夜な夜なひとりで悲しく抜いてるらしい。純愛! 素敵! うらやましい!

「あ、和音さん、俺の用事なんですけど、ナオくんが鬼ヶ島の奴らに殴られたらしくみんな怒ってるんで、明日ちょっと鬼退治してきてもいいですか」

 おれがケツを撫でられたり感動している隙を見計らい、凛が和音さんに問いかけた。問いかけるというよりは決定事項を告げるような感じで。

「好きにやっていいよ」

 和音さんが考えるそぶりも見せず、反射的に頷く。
 きっと「ナオくん」という単語のせいだ。
 凛がお礼を言ってぱたぱたと走り去る。小さくなっていく凛の背中を見ている和音さんに、おれはなんとなく聞いてみたくなった。

「ねえ、和音さん」
「何?」
「おれ、この前スサノオのやつらにぼこられたんですけど。一週間入院したやつ、覚えてますか?」
「何それ、情けなさすぎ……」
「報復してくんねえの?」
「なんでしなきゃいけないの?」

 和音さんの手が下着を超えて直に肌に触れてきたから、自分から抱きついたくせにおれは和音さんの肩を押して彼から離れた。体を満たしていたあたたかさが消える。

「いっくらおれのことが好きだからってこんなとこで盛っちゃやーよ!」
「盛ってないよ」
「何? じゃあ何? なぜにおれの尻をなで回す!? 俺のケツを痛めつけたいだけ!? 痔!? 痔にしたいの!? ここまでテンション上げといてなんなんですけど、おれすっげーうざいっすね」
「気づくだけ良いと思う」
「うわ! 邪険にしない和音さん大好き!」

 おれはまたうざったくけらけらと笑って和音さんの上から降りた。
 あまり和音さんに近付きすぎると同じチーム内でも敵認定を受けてしまうから、ほどほどの所で離れた方が良いのだ。みんなから適当だと思われているおれはこういう身の振り方の部分でしっかりと考えないと「適当」にやっていくことは出来ない。
 適当には適切という意味もある。ピアノでもそうだ。アレンジは曲の理解と確固たる基礎がなければ出来ない。アレンジが適当の産物だとは言わないが、適当は適切であり適当なのだ。

「ねえ、発表会――」
「いいよ。静がいなくても困んないから」
「えー。それなんか傷つくんですけどー」
「あ、そう」
「あ、そうって。和音さん最低! 好き!」
「ありがと」

 そう言った和音さんにさよならもそこそこに背を向ける。もう帰ろう。なんか唐突にテンションが下がってきた。帰るときに通ったみんなが集まっているテーブルには、頭に包帯を巻いていつものようにメンバーに取り囲まれているナオくんもいた。

「静帰んの?」
「帰るよー。ナオ君お大事に!」

 声をかけて来るやつらに愛想を振りまきながら、足は止めずに地下倉庫から出る。扉をくぐると、耳に不快な雨の音が飛び込んで来た。地上に出るための長い長い階段をなんとなく見上げる。
 ――いいなあ、和音さんに大事にされて。
 雨の音と一緒に、おかしな考えがおれの中に入ってきた。

「は?」

 あほな声が出る。

「ばっかじゃねえの……」

 自分を貶める言葉を声に出すと、一層惨めになった。和音さんは好きだけど、ナオ君は羨ましいけど、別に切羽詰まったものなんかじゃない。例えるなら、幸せになれますようにと神社で拝むような、漠然としたささいな憧憬。
 もういい加減に帰ろうと、自嘲の笑みを零し傘受けから自分の傘を――取ろうとしたが、誰かが持っていってしまったようで、おれの名前入り百円傘は跡形も無く姿を消していた。

「瑞樹と凛か……」

 俺は後輩にも同い年にもなめられているから犯人は掃いて捨てるほど思いついたが、なぜか瑞樹と凛がおれの傘で気持ち悪く相合傘をしている光景が鮮明に浮かんだ。

「俺の傘で相合傘しておまけにラーメン食うとか、なんという幸せ」

 くだらねえ、と心の中か声に出していたかわからないが、とりあえず悪態をついて雨の中に飛び出した。
 いつもは結構雨音が好きなのに、今日は騒音にしか聞こえない。
 ついでに和音さんの顔とナオくんの顔、憎たらしい凛と瑞樹の顔が頭の中でぐるぐるぐるぐる回っている。みんなに大切にされているくせに、ぽっと出のくせに、誰にも関心が無かった和音さんにまで大事にされて、ナオくんは幸せ者だ。凛と瑞樹だって、瑞樹なんてナオくんのことが好きだったくせにすぐに凛に乗り換えて、今はそんなことも忘れてらぶらぶらぶらぶうざったい。
 それよりなにより和音さんには人に執着してほしくない。
 自分自身考えたくもなかった各々への不満が湧きいでる。どんどんと腹には薄くて黒くて重たい雲がたまっていく。でも違う。おれは誰もうらやましくなんかないし、好きじゃない。

(全部、どうでもいいことじゃん)

 そう思い込み、適当に流す。腹に溜まっていっているのは雲だから流れるのはお手のものだろう。
 くだらない洒落を考えている間にも、不快な音は耳に突き刺さっている。それは、耳の奥の奥へと入り込んで来る。頭の中に雨が降る。
 いつもは嫌いじゃない雨音がこんなにも気に障るのは、きっとしばらくピアノを弾いていないから。発表会のために練習し出せば、音に乗って心の曇りは流れていく。天気になる。テンションだって上がるだろう。
 そう、今日の雨が不快なのは雨音が不協和音を奏でているから。
 気持ちがすこしだけ沈んでいるのも雨音が不協和音を奏でているから。

 それ以外に、理由は無い。