嬰ヘ長調
ケンカをするとすっきりする。
身体を不規則に目一杯動かし、スポーツでは得られない爽快感を手にすることが出来る。
おれの所属している集団はあまり素行がよろしくなく、気に入らなければ殴り合い、気まぐれにからかい嘲笑し、仲間意識はなく、ただ和音さんという不思議な人に惹かれた者たちが集まってできた集団だ。
おれは強くない。軽く、いつもへらへらと調子がいいから普通にやっていけているが、たまに距離感を図り間違い仲間から殴られたりもする。しかし、たとえ殴られたとしても、おれにはこの集団にいる理由がある。
「いってえな、くそが!」
「うっせえよ死ね」
学校が終わる前に、集会場所として使っている廃倉庫にやって来たおれが真っ先に目にしたものは、仲間割れをするメンバーの姿だった。倉庫の中には入らず、ドアの小窓からその様子を眺める。
二人は罵り合いながら拳や足を振り回しているが、もうやり合ってから相当時間が経つのか、動きに精彩はない。顔や服の至る所に血が飛び、顔中痣だらけだった。
ふたりがやり合う様子をじっと見る。
おれがチームから抜けない理由、その一。それは、心がささくれて人を信じられないやつらのこういった仲違いが見られるから。
仲間意識がなく、自分勝手に振る舞う彼らは孤独だ。それを確認するとひどく安心する。寂しいのは、一人なのはおれだけじゃないんだと安心するのだ。
「……静?」
黙ってケンカを見ていたおれに後ろから声がかかる。低くもなく高くもない声は普通だが、穏やかさがにじみ出ている。オーケストラは詳しくないが、楽器に例えるなら間違いなく木管。聞いていると眠たくなる。振り向くと、ナオ君という最近入った子が不思議そうな顔でおれをみていた。
「ナオ君おつかれー」
「静も。そういや三日ぶりだね。風邪でも引いてたの?」
「補習! おれってば先生たちのアイドルだから、引っ張りだこで。学校にもっと来てーってうるせえの」
「……おつかれ。ねえ、なんで入んないの?」
「中でケンカしてるんだよ。聞こえねえ? バキって音」
そう言って身体をずらしナオ君が入れる隙間を作ると、ナオ君が身体を滑り込ませて来る。ここで気がついたが、みんなのアイドルナオ君はおれより身長が高い。驚愕の事実に目が眩んだ。
ナオ君はすごく良いやつで、自分勝手すぎるメンバーの唯一の清涼剤だ。顔は普通だから容姿では勝ったかも! と心の隅で勝ち誇っていたが、まさか身長で負けているとは思わなかった。身長はオトコのステータスだ。負けたくなかった。メンバーのほとんどにおれは負けているが、ナオ君には負けたくなかった! だって、ナオ君はグループのリーダーである和音さんにまで気に入られているのだ。みんなから慕われている和音さんは、おれが思うに孤高の人だ。
和音さんには人が集まって来る。しかし和音さんはどんなに人の群れの中心にいようとも心はどこか遠くにある。和音さんは精神的にたった独りで生きている。
親に捨てられ、預けられた親戚からも邪険にされているおれに、ひとりでも生きていけるのだという道を指し示してほしかった。それは今でも変わっていないが、ナオ君が現れてから誰にも興味を示さなかった和音さんがすこしだけ変わった。ナオ君を目で追い、彼のピンチを救い、たまに笑いかける。おれはそれがどうしようもなく羨ましい。
中の惨状を見たナオ君は「大変だ」と呟いて血相変えて倉庫内に入っていった。
ナオ君が入っていくのをおれは黙って見つめる。ナオ君が入って来たのがわかった二人は手を止めた。ナオ君が二人に向けて何か声をかける。二人はばつの悪そうな顔で頭をかき、不満げな表情を作るが、それはすぐに苦笑へと変わった。きっと必死な様子で自分たちを心配するナオ君にほだされ、心を掴まれたのだろう。くだらない。
自分でも今とても嫌な顔をしているのがわかる。汚い人間の顔だろう。きっと、外から自分を見ることが出来たら、こうはなりたくないと思うような表情だ。そんなことを考えていたら、ぽんと肩を叩かれた。
振り返って驚く。
「……和音さん」
「腹でも痛いの?」
「……は、はらっすか?」
「苦しそうな顔してたから」
「大丈夫です。すこし……そうですね、すこし気持ち悪くて。ありがとうございます」
おれが嘘をつくと、気付いたのか気付かないのか知らないが、和音さんがいつもの綺麗な顔を少しだけゆるめた。和音さんに気にかけてもらってすごく嬉しいが、きっと彼が倉庫の中に入っていったらケンカしていたふたりからナオ君が止めに入ったことを聞いて、さらにナオ君のことが好きになるのだろう。おれはその様子をただ見ていることしか出来ない。
こんなに綺麗で不思議な魅力のある和音さんに好かれて落ちないやつはいない。和音さんなら老若男女問わず落とすことができるだろう。もし和音さんが男のナオ君を好きになったとしたら、いつかきっと和音さんとナオ君は付き合うことになる。
そうなったら和音さんは孤高の人じゃなくなる。おれが独りで生きていくための指針がなくなる。羅針盤の壊れた船の末路のごとく、おれも海の底に沈むのだ。
「静?」
「……あ、すみません!」
和音さんが窺うようにおれの顔を覗き込んで来る。おれがドアの前を占領していたから、和音さんは中に入ることが出来ないのだろう。さっと脇に避けるが、和音さんは中に入ろうとしない。
不思議に思って見上げると、和音さんはわずかに眉根を寄せていた。気に障ったのかと焦ったが、和音さんがおれのおでこに冷えた手のひらを当てたことで焦りがまた別のものへと変化した。
「熱ないね」
「熱、な、ないっす!」
「あ、そう。顔色悪いし、いつものうざさがないしで変だから、熱でもあるのかと思ったけど」
「健康体っす!」
「さっき気持ち悪いって言ってたくせに」
「はい! それは嘘っす!」
「嘘ついたのか」
「すみませえええん!」
「別にいいけど」
「ゆ、許してくれる和音さん大好き!」
いつもの調子をなんとか思い出して思いっきり抱きつくと、和音さんは冷たい身体でしっかりと受け止めてくれる。
「和音さんつめてー。おれであったまって!」
「静も冷えてるよ」
3月の風は冷たく、ひと吹きでおれたちを凍えさせる。地下通路にもその冷えた風が入り込み、薄暗い地下をさらに寂しいものへと変えていた。服は冷たいけれど、和音さんはあたたかい。
「……和音さんあったけー」
「俺も人間だからね。……静」
「なんですかー」
「静なんていなくても俺、困らないよ」
「な、何!? いきなりひどいんだけど! ブロークン! おれのハートブロークン! マイハートイズブロークンバイユー! おけーい?」
「……練習しなくていいの?」
和音さんの問いかけに顔を上げる。くっついているから和音さんの綺麗な顔がすぐそばに見えた。和音さんはいつものように無表情だが、少し困惑しているように感じられる。
「練習? 何の?」
「……発表会出るんでしょ。月光の三楽章? それ聴いてみたけど速いじゃん。大丈夫なの?」
和音さんが平坦な調子で言うが、おれには壮大な大合唱に聴こえた。なんなんだ、なんなんですか和音さん。心配してくれてるんですか和音さん。
「和音さん大好き!」
「うざ……」
和音さんに回す腕に力を込める。ケンカばっかりのくせにスキンシップの激しいチームで良かった。でなければ一番強くて偉い人にこんなふうに抱きつけない。
和音さんは孤高の人だ。みんなの中心にいても心はいつもどこか遠くを見ている。独りで生きていく指針をおれに示してほしかった。だからおれは殴られてもここに残っていた。
だけど、和音さんから独りで生きていく勇気をもらう何十倍も今の言葉に救われる。
不器用な気遣いがどうしようもないくらい嬉しかった。
吹きすさぶ風が音楽を奏でている。おれは都合のいい男だ。和音さんは孤高の人だからナオ君と仲良くするのは許せないくせに、自分が良くされるとバカみたいに喜ぶ。嬰ヘ長調。複雑な歓喜! 風が奏でる音楽に舟歌の調べを感じ、和音さんの肩に頬をぐりぐりとすりつける。
そうして、されるがままの和音さんから離れ、おれは倉庫に背を向けた。
「静、帰るの?」
「練習しに行こうかなって! 家じゃあないけど!」
「あ、そう。じゃあね」
「バイバイっす和音さん!」
ひらひらと手を振る和音さんの脇をすり抜けて、地上に出るための階段へと向かう。
ここ3日、常に不協和音を聴いているような気持ち悪さがおれに付きまとっていたが、今聴こえるのは協和音。
ふと傘受けを見ると、なくなったはずのおれの名前入りビニール傘が、がら空きの傘受けにぽつんと入っている。それを取ると、二つに折られたメモ紙がはらりと落ちた。コンクリートに落ちたそれを取り上げ見てみると、『もしかして俺らのせいで風邪でも引いた? ごめんね! 今度ラーメンおごる 瑞樹』と書かれている。謝るくらいなら盗るなと思ったが、何せ今日は気分がいい。メモをポケットに入れ、傘を持ち階段をかけ上がる。
和音さんによって温められた体温が見る見るうちに奪われていく。
直に暖かな春が来る。
おれに温めてくれる人はいないけど、夏が過ぎ、秋を越え、冬を迎える頃には、ともに温め合える人が出来ていれば良いなあなんてことを、ぼんやりと思う。