不協和音(嬰)
出て行こうと思ったことはなかった。
料理はひどいものだが優しい母親と、忙しく働き回る父親、しっかりした兄二人にのんきな弟、おっとりとした妹ひとり。裕福で結構あたたかな家庭で育った俺の唯一の不満と言えば、名前が「ね」で終わること。それがなんだか女の子のようで気に入らなかった。けど、弟の方が遥かに女の子っぽい名前だし、きっと一生懸命考えてくれたのだろうと思いそれほど気にしていなかった。
「和音、待って」
「待たない。出て行く。じゃあね」
「和音、女の子だと思ってたから女の子用の名前しか考えてなくて、男の子が出て来てびっくりしちゃって勢いで役所にいっちゃったの!」
「意味わかんない」
母親の制止を振り切り、白に飛び込む。
町はすっかり白くなり、さらに真っ白になるために、しんしんと降って来る雪を無抵抗で受け入れている。こんな寒い中上着も着ずに出て行って、きっと俺はどこかで野垂れ死ぬ。そうして気付けば良いのだ、適当に名付けなきゃ良かったって。
別に、出て行くほど腹が立つことではないと自分でも思う。けど、今日は全寮制の学校に行っている弟がピアノのレッスンのために帰って来ていて、夕方にケンカをして虫の居所が悪かった。
運動だけは得意な俺は、付いてこようとする母親を家に押し込んで裏山に向かった。山を抜ければ繁華街がある。チンピラにケンカを売ってストレスを解消しようと目論む。どうせ歩いていればあっちからケンカをふっかけてくれるのだ。そうしてすっきりしたら家に帰っていきなり飛び出して悪かったと謝ろう。
雪深い山を繁華街までの最短距離でひた走る。勉強ができない分体力だけはある。どこかが出来ない分どこかに必ず才能はあるのだと昔父親が言った。
走ること数十分、繁華街に辿り着いた俺は真冬だというのに汗だくで、それだけですっきりした気になったが、来てしまったからとりあえず歩くことにする。けばけばしいネオンが輝く繁華街は好きじゃない。ショッキングピンクは下品で、てらてら光るドレスを身にまとう女たちには不快感しかなく、我が物顔で闊歩する男共は滑稽だ。しかし、こういう大人には決してなるまいと思わせてくれるから、俺は荒んだ気分の時によくここに足を運ぶ。
大抵はケンカに発展するから俺も素行がよいとは言えないが、汚い大人にはなりたくない。
喧騒の町中を空っぽの心を携えて歩く。容姿だけは大人っぽい俺に、誰にでも股を開きそうな汚らわしい女たちが声をかけるのを無視して、強引に掴まれた腕を振りほどいて歩みを進める。
人に触られるのは大っ嫌いだし、それが汚いものならなおさらだ。言ってしまえば人の体温も嫌いだ。できることならみんな雪女にでもなってくれたら良いのに。そうしたら触れる気がする。
「お兄さんかーっこいいねえ! ちょっと寄ってかない?」
くだらないことを延々と考えている俺の前に、ちびっこがひとり飛び出して来た。俺よりは着込んでいるが真冬にしては薄着の彼は、鼻の頭を赤くしてにこにこと笑っている。
まさかケンカを売って来たのだろうかと思ったが、見るからに弱そうだし、俺とやりあったらきっと互いに嫌な思いをする。俺はケンカをするなら不利な状況の方が良い。強いやつを相手にする方が勝った時に達成感があるし、負けた時に得るものが多い。
ケンカにしてもどこかの店の呼び込みにしても彼に付いていくメリットはない。そう思いちびっ子を無視して通り過ぎようとしたら、彼は慌てたようにまた俺の前に立ちはだかった。
「ごめん! うざかった! おれ、鬱陶しい感じで近付いちゃった! あの、付いて来てくれるだけで良いから! カップラーメンが出来上がるくらいの速さで解放するから! だから一瞬で良いから来てくれない? あ、おれ、怪しいものじゃなくて、静ね。静かって書いて静って言うんだよ。ほら、これ 見て」
静がポケットから財布を取り出し、中に入っているカードを俺に手渡して来た。
とりあえず受け取って見てみると、それは桜桃中学2年3組早川静と書かれた学生証だった。何気なく見た裏には、俺の持っている学生証と同じような校則が並んでいる。
「夜、十時以降は出歩かないこと。また、いかなる時もいかがわしい場所には立ち入らないこと。校則違反だよ、君。じゃあね、真面目に生きな」
「ま、待って! お願――」
「静」
学生証を静の胸に押し付けてもう帰ろうと思った時、静の後ろから見るからに柄の悪い男が現れた。男はおそらく高校生くらいだろう。目一杯粋がってる様子に、思わず小馬鹿にしたような笑みがこぼれる。まずい、と思った時にはもう遅く、俺はキレた男に胸ぐらを掴まれていた。
「真さん待って! その人薬きめちゃってて唐突に笑っちゃう状態なんだよ! 危ないから離した方がいいっすよ!」
いきり立った男を静が諌める。
「ああ? なんだよ静、てめえカモもつれて来れない上に嘘つくのかよ」
男の言葉に静がぐっとつまる。男の下卑た笑みが不快だ。俺の胸ぐらを掴む男の力も弱まり、男が俺ではなくて静で遊ぶことにしたのが何となくわかる。
静は必死に言い訳をしようとしているが、何を言っても男には届かないだろう。
「俺、完璧正常だけど。キまってるならその男の方だと思うよ」
感情が読み取れないと評判なのを良いことに、空気が読めない雰囲気を出して首を傾げる。
「静は俺を危ないやつだって思ったみたいだけど、いきなり掴みかかって来る方が危ないと思う」
男はさらに遊ぶ対象を変えたらしく、静に向けていた意識を俺に向けた。この隙に逃げれば良いのに、静はおろおろしながら、ひとりでああでもないこうでもないと慌てふためいている。
こんなやつがどうして俺に声をかけたのかと不思議に思った。バカなのか。バカなのだろう。俺も色々な意味でバカだが、静はその上を行く気がする。
男は俺の腕を掴むとどこかへ向かって歩き出した。気まぐれにバカを助けてやっても良い気がして、大人しく付いていく。男が俺の腕を掴んでいることがひどく不快だったが我慢する。
本当にこの隙に逃げれば良いのに、バカは俺たちの後ろから、やはり慌てたようにああでもないこうでもないと喚きながら付いて来るが、男にギロリと睨まれて黙り込んだ。
怖いんだったらさっさと逃げればいいのに。
やっぱりばかだ、と思った。
「強いから付いて行ったんですね! すごいキラキラしてました! 名前なんて言うんですか!?」
「……教えない」
「まじっすか! じゃあ勝手にキラキラさんって呼びます! 血出てるけど大丈夫ですかキラキラさん! あ、おれ最近廃ビルの地下倉庫を開発してそこに住んでるんですけど、もし良かったらキラキラ――」
「かずね」
「なんですかキラキラ――」
「だから、名前。和音だって」
「はあっ! ありがとうございます! おれなんかに名前等嬉しいですありがとうございます和音さん!」
バカの瞳がキラキラ輝く。
男に連れられて着いた所は、もう稼働していない汚い工場だった。中には柄の悪く育ちも悪そうな男が四人、これまた柄悪く座っていた。感じの悪い笑みから、俺を楽しくいたぶりたいのだろうということがわかったが、五人くらいなら一人で戦う術はある。
それに、俺の後ろでバカが何やら覚悟を決めたらしく、二人ならきっと勝てますよ! なんて大声で言ったものだから、俺はバカが殴られて死んでしまわないように気を配りながら不良たちを相手することになって骨が折れた。精神的な意味で。そんなわけだからバカも血まみれで、不本意なことに俺も血に塗れていたから、バカから「いやあ、お揃いっすね!」なんて有り難くない言葉をもらうことができた。
「和音さん、おれ救急箱あるんで手当てしましょうよ!」
「……お願い」
このまま帰ったら母親が心配するだろうと思い、バカの提案にのると、バカの顔が輝いた。
「救急箱地下にあるんです! さあ、行きま――」
「それならいい」
自分でもキツい言い方になったのがわかった。でも、それで静が大人しくなったからまあいいかと思い、繕わない。
静はとても傷ついた顔をした。俺如きに吐き捨てられて傷つくなんて、やはり静はバカだ。俺が優しい人間じゃないってことはこの短い期間でわかるだろうに、何をこんなに傷ついているんだ。
だから、俺が責任を感じる必要はない――多分。
いたたまれなさを感じ、立ち上がる。静を残して工場から出ると、彼はちょこちょこと俺の後をついて来た。足を止めずに夜空を仰ぐと、さっきまで降っていた雪はすっかり止み、星が申し訳程度に浮かんでいる。街灯や、夜に輝きを増す店の光で空も明るくしてしまっているから、星が見えないのだ。繁華街のたくさんあるダメな所のひとつだろう。
工場の敷地内から出て、家へ帰るために裏山へと向かう。さっきまで聞こえていた、静が雪を踏む音も途絶えた。悲しい顔をして諦めたのだろうか。気にならないわけではなかったが、優しくする義理はない。
ふと、パーカーのポケットの中に突っ込んでいた電話の存在を思い出した。ジッパーを開けてそれを手に取ると、弟からメールが入っていた。
『今日帰ってこないの? グレたのか? 和音がグレて不協和音wなんちってwうはwくだらねえwww』
俺は家に向けていた足を反対方向に変えた。15メートルほど先に、さっきのバカがまだ突っ立っているのが見える。そして、彼の方を向いた俺を見て、静は嬉しそうに顔を綻ばせた。
違う。俺はお前とい一緒に地下に行くつもりはない。振り返ったのは家に帰るのをやめたから。今帰ったら弟をぶん殴ってしまいそうだから、とりあえず頭を冷やそうとするため。
しかし、バカは何を勘違いしたのか、頬と鼻の頭を真っ赤にして笑顔で走り寄って来る。
「和音さん! やっぱ倉庫行く? 本当に結構快適なんですよ! あったかいし」
「……そんなつもりじゃないんだけど」
「え!? 何々、じゃあどんなつもりで振り返ったの!? あ! ホテル? 行っちゃいますか? 近くに男おっけーのとこありますよ! おれ和音さんになら喜んでほっ」
バカなことを言うバカの口を片手で塞ぐ。アホなことをバカ高いテンションで言いながら、独りになりたくないと縋りつくような目がうざったい。うざったいけど、バカを見ていると胸がわずかに痛む。
ここでバカを置いてどこかに行っても、今日は悪いことをしたと考えてしまってぐっすり眠れなくなる気がした。気が付きたくなかったのに、そんな気がしてしまう。安眠を妨げられるのは堪え難いからそれは避けたい。
「……本当にあったかいの?」
そんな考えが言い訳じみていることに悔しく思いながら静に問うと、てっきり笑うと思っていたバカは口を一文字に結び、顔を歪めた。自惚れだったかと思ったが、次の瞬間彼の目から涙が溢れて驚いた。恥ずかしくなったのか、静は「なんだか優しい! 和音さん大好き!」と叫んでぶつかって来た。思わず受け止めると背中に手が回される。蹴られた所が痛んだが、静がもっと痛そうに見えたから黙って抱きつかれておく。
人に触れられることは大嫌いだ。
それが親でも兄弟でも触られるのは嫌だ。人の体温も嫌いだ。生暖かさに吐き気がする。それなのに、今はなぜだか許せる気がしている。静の体温が心地いいなんて、こんなのおかしい。きっと今夜は寒すぎるから嫌じゃないのだ。絶対そうだと思い込む。
連れられていった地下倉庫は、静がひとりでいるには広く、寒かった。暖かくねえじゃんと思ったが、静があまりにも嬉しそうに笑うから何も言い出せず、寒いと思いながら手当を受けた。
その後静と一緒に入ったベッドは、人間二人を受け止めるには窮屈で、触れ合っていないのに温かさを感じる程小さい。普通なら気持ち悪くなって吐いてしまうほどの距離に静がいる。彼はこちらを向いて目を瞑っていた。俺が静とは反対側を向けば良いだけなのに、俺は出会って間もない彼と向かい合うようにして横になっている。そして、同じ年とは思えないほど幼い寝顔を見つめているのだ。
抱きついてきた時の静の温かさを思い出す。手当をしてくれた手は冷たかったが、熱を持った体にはそれが気持ち良かった。
「ありえない……」
人の体温を受け入れる日は一生来ないと思っていた。
「嘘だ……」
人が傍にいて安心するなんて、俺にとっては夢のまた夢だった。
段々と瞼が重くなって来た。思考に靄が掛かる。
静はもう寝たのだろうか。
なんとなく、気になった。