居場所
もう居たくなくて帰ろうと思って席を立ち、外に出るための長い階段を登り切ったところで我に返った。
どこに帰るっていうの?
現実にため息が落ちた。
リュックには勉強道具とすっからかんの財布と携帯、一応の身分証明書だけが入っている。そろそろお金が尽きるからどこかで適当にバイトしないと、家と呼ぶには残酷すぎるあの忌々しいところに行って、親戚と呼ぶには鬼畜すぎる人たちに頭を下げなければならなくなる。
和音さんと仲良くなる前は結構際どいことでも平気でやれた。3日くらいあれば一ヶ月暮らせるだけのお金を得ることも簡単だった。
足元のざらざらとしたコンクリートを見つめる。
けど、もうやりたくない。自分のために危ないことはしたくない。和音さんのためになるならおれはどんなことでもするけれど。
なんとなく、こう思えることは幸せなことだと思った。
和音さんに会いたいな。
ふと思う。
いつも思っているが、今はいつもより欲求が強い。和音さんを思い浮かべながら、彼とは対極な、人の欲望渦巻く繁華街をぷらぷらと歩く。適当に時間を潰して適当に倉庫に戻ろう。
そう思ったら段々と鬱々した気分が育っていく。
だって、倉庫はもう自分のものという気はせず、すっかり「みんなの倉庫」になってしまっている。最近は落ち着ける場所がない。どこにいても心が休まることはない。
ただ――
いや、いいや。これは考えちゃダメだ。
「あれ?」
鬱ぎ込みそうな気分を無理やりあげようと落としていた視線も上げたら、人ごみに紛れているから少し見えにくいけど、いつも会いたい人がそこにいた。ウインドブレーカーを着て目深に被った帽子に髪の毛を入れているけど、確かに和音さんだ。
「和音さん?」
人ごみをかき分けて近づき、横から声を掛けると和音さんが振り返った。
呼んだら振り返ってくれる。人から見れば些細な事でもおれにとってはこれ以上の幸福はなくて、鬱鬱としていた気分は一気に吹っ飛んだ。
「……何してんの?」
「ヒマだから散歩してました」
俺の答えに和音さんが怪訝そうに眉をひそめた。
「倉庫使えないのか」
そうして言葉をおれに突き刺した。
普段だったら普通に受け入れられる言葉なのに、この短い文章の中ですべてを見透かされた気がして答えに詰まる。
そうですよ、とへらへら笑えば良かったが、もう後の祭り、引き返せない。
和音さんの言葉を聞いた瞬間、さっきまで付いて回っていた孤独がまたおれの前に顔を出したのだ。
一瞬の間に倉庫に充満する楽しい空気やみんなの笑顔、笑い声が体中を駆け巡り嘘っぱちの笑顔さえ作ることができなかった。
また、ぐだぐだしてしまっている、と思った時だった。
「か、和音さん!?」
気が付いたら和音さんに手を取られ、引っ張られていた。思考さえままならないのに、おれの足は嬉々として和音さんについていっている。
「和音さん」
「暇ならおいでよ」
和音さんが短く言う。
どこに? わからない。けど、どこでもいい。
「和音さん」
「何?」
けばけばしい繁華街を走るような歩みで通り抜ける。すれ違う人みんながおれと和音さんに好奇の眼差しを送っている。ホモだと思われてるんだろう。おれはいいけど、和音さんがそう思われるのはダメだ。和音さんは普通なのに。普通に素晴らしいのに!
けどダメだ。何がダメってこの熱さがダメだ。和音さんに握られている手もだけど全身隈なく熱い。余裕で体温四十度超してる。病院に行ったらインフルエンザを疑われて鼻から検査キットをぶっ刺される! いや、それは良い。
和音さんがホモに見られちゃうのを防がないといけない。これが今のおれの最大の任務だ。
「か、和音さんって」
「だから何だよ」
和音さんが足を止めずに言う。少し苛立たせてしまったようだ。けど、言葉のトガリとは裏腹にその表情は不思議そうなものへと変化した。
「顔赤くない?」
夜だし暗いからバレないと思っていたのに、あっけなくバレている。でも、だって、しょうがない。
「だって、和音さん手繋いでるんだもん普通に! そりゃカアっとなるって!」
ああ、駄目だ。
「離さないで欲しいけどさ」
本音を言ってしまった。否定されるのが怖かったけど、本当に離してほしくなくて、ずっと手を繋いでいて欲しくて、繋いでいる手に力と想いを込める。
「意味わかんない」
和音さんは呆れたように言ったが、繋いだ手が離されることも力が緩められることもなかった。良かった。
その内に駆け足気味だった歩く速度がゆるやかなものへと変わった。
和音さんをホモだと思われないようにしないといけないおれの任務はあっけなく崩れ去る。
ごめんなさいと心の中で謝った。
繁華街を抜けると一気に人はいなくなり、荘厳な山々が現れる。月が出ていた。
「静、俺の家初めてだもんね」
コンクリート上に落ちている木枝を踏み鳴らしながら和音さんが穏やかに言う。
家に連れて行ってくれるのか、とまるで他人事のように思った。
「倉庫があったから」
連れて行ってくれるなら行きたいけど、行って良いのだろうか。
和音さんは家族におれを会わせても平気なのだろうか。和音さんみたいにおれはちゃんとしていない。
でも、聞いたって和音さんは優しいから絶対に大丈夫だと言う。
『可哀想な子だね、早川君って』
昔言われた非情な同情の言葉が丁寧にも音声と映像付きで蘇る。
過去への強制タイムスリップは止まらず様々な言葉が凶器として突き刺さってくる。
最後に致命傷の言葉が飛んできた。
『あんたが同情を引こうとするから私達が悪者になるのよ』
ざわついていた心が一気に色をなくす。
そうだ。聞いちゃいけない。
和音さんにおれなんか連れてって良いの? なんて聞けば、断りたくても断れないし、断ったとしたらおれが「可哀想」になって和音さんが悪者になってしまう。
可哀想だなんて絶対に思われちゃダメなんだ。誰にも。
「和音さーん」
だから、いつもみたいにヘラヘラと笑おう。そうすればおれは可哀想なんかじゃなくなる。笑う時は簡単だ。どんな時でも隣に和音さんがいると思えば笑えるし、今は実際にいるんだから笑うのなんて簡単だ。
ただ、最近になって幸せだと笑えないという事に気づいたから意識的に笑顔を作る。
「何?」
和音さんはちゃんと返事をしてくれる。
「絶対ホモだと思われました」
「誰に?」
「みんなに」
「嫌?」
「嫌じゃないです」
和音さんには迷惑がかかるけど、おれは嫌じゃない。むしろ和音さんを独占できてる錯覚に陥って悲しい幸福さえ感じられる。
けど、やっぱり和音さんは嫌なのか彼の表情が曇る。
「和音さん?」
申し訳なくなり繋いだ手を離そうと思った時、握られた手に力が込められた。思ってもみなかったことに心臓が跳ねる。
和音さんを見上げると、おれの視線に気付いた和音さんがわずかに微笑んでくれた。
それから、和音さんは何も言わなかった。おれも何も言わなかった。間をつなぐための意味のない会話はきっとここには必要ない。
和音さんの体温だけを感じながら月明かりの道を歩くのはとても幸せで、おれはこのまま死んでしまいたくなった。
和音さんと仲良くなる前はお金のために結構際どいことでも平気でやれた。3日くらいあれば一ヶ月暮らせるだけのお金を得ることも簡単だった。
だけど、それはもうできない。
おれはまっとうに生きていきたい。
そのためには、倉庫を捨てて他人よりも遠いおじさんとおばさんの家に戻る他はないだろう。
このまま死んでしまうのが、多分おれにとって一番の幸福だ。
和音さんと手を繋いで歩いている。
泣きたいくらい幸せだった。