夜の底
目を閉じると、夢のような現実が夜の底に消えてしまう気がして怖くなった。
(だめだ、寝れない)
さっきから目を閉じては開けてを繰り返している。
すぐ近くに和音さんの綺麗な顔がある。
今夜の闇は深く、至近距離にある和音さんの顔がかろうじてみえる程度だった。この世におれと和音さんしかいないような錯覚に陥るが、寂しくも不安でもない。
おれはきっと和音さんとふたりだけの何もない世界に行ったとしてもごく普通にそれを受け入れるだろう。満足するかもしれない。
和音さん、大好き。
最近言えなくなったこの言葉。
無意識に小さな溜息がこぼれた。
(寝れなくてもいいや)
今日はずっと和音さんを見ていよう。和音さんならば何時間でも見ていられる。危ないやつだ、と自分でも思う。けど、好きなのだから仕方ない。
胸が熱く、息苦しい。鼓動はゆっくりだけど大きく鳴り響いている。
自分の鼓動を数えながら、目を閉じている和音さんを見つめる。本当に綺麗だ。格好良いのに粗忽さは一切無く、綺麗なのに女性っぽくない。男性だとわかるのに綺麗。
その時、ふいに和音さんの目が開いた。
(やば)
じっと見ていたことに後ろめたさを感じ、目が合った瞬間ぎゅっと目を瞑る。ぎゅっと瞑り過ぎて眼前に小宇宙が広がった。
「見てたの?」
「見てないっす!」
「嘘だ」
空気で和音さんが笑ったのがわかった。
「嘘じゃない!」
「じゃあ、俺が思い上がってるだけか」
「嘘です! 和音さんは思い上がってないっす!」
思わず目を開ける。和音さんはまっすぐにおれの目を見ていた。
その目はひどく優しげで、おれは言ってはならないことを言ってしまいそうになる。
さみしいです、と心が言う。思いは声に出さない限り伝わらない。これがありがたかった。
ふと、今置かれている状況が鮮明になる。
おれは今、和音さんの家の和音さんの部屋で一緒のベッドに横になっている。家についた時、和音さんのお母さんが出てきてくれた。深夜なのに、にこにこと出迎えてくれて、静くん、ゆっくりしていってね、と言ってくれた。
初めて会ったのにおれの名前を知っていたのは、和音さんがおれのことを話したことがあるのかな、とすこしどきどきした。
和音さんは、おれのことをどう思っているのだろう。
きっと、嫌いではないはずだ。今日だって家に呼んでくれたし、おれのために倉庫にピアノを用意してくれたこともある。結構好き、といってくれたことだってあるのだ。
知りたい気持ちと、知りたくない気持ちが胸の中でせめぎ合う。
もう一度結構好きと言って欲しいけど、おれが持つ彼への気持ちは途方もない大きさで、しかも和音さんのものとは種類が違う。
後悔してないですか? と聞いてしまいそうだ。
おれを連れてきて、後悔してない? 優しそうなお母さんにも会ってしまったし、図々しくも和音さんのベッドに入ってしまっている。迷惑じゃないですか?
否定して欲しい。迷惑じゃないよ、と言って欲しい。
聞いたら絶対に和音さんは否定してくれる。けど、聞いたら同情されてしまう。
さっきも考えたじゃないか。
和音さんは優しいから絶対に否定出来ない。本心は嫌だったとしても言えないし、言ったらおれが「可哀想」になって和音さんが悪者になってしまうって。
可哀想だなんて絶対に思われちゃダメだ。
わかっているのに、和音さんにおれの存在を認めて欲しくて、おれは気付いたら口を開いていた。
「和音さん」
「何?」
「俺、ほんとにここで寝ちゃっていいの?」
「良いってば」
和音さんが少し呆れ気味に吐き捨てる。すぐに聞いてしまったことを後悔した。
でも、和音さんの口調はやさしくなくて、それが救いだった。
「寝ようよ。俺、もう眠い」
ゆっくりと言って、和音さんがおれの方に手を伸ばした。彼の表情は硬い。和音さんの手は、何もつかむことなくおれの顔の前へと落ちる。ゆるく開けられた手のひらは上を向いていて、まるで手招かれているようだった。
どうしよう。
和音さんの手に触れたい。
だけど、恐い。
和音さんの意図がわからないから、もし彼の手を取って迷惑そうな顔をされたら立ち直れない気がする。
和音さんの手から彼の瞳に目を移す。目が合った時、硬かった表情は緩み、わずかに目が細められた。
心臓が喚いていた。恐い。嫌われたくない。でも、近づきたい。
緊張しながら伸ばされた和音さんの手へ両手を添える。拒否されないのをいいことに、そこに頬を寄せてみた。和音さんの親指がゆっくりと頬を滑る。撫でるように行ったり来たりを繰り返す。
気持ちいい……。
目を閉じると、さっきまで冴えていたのが嘘のように急激な眠気に襲われる。
心臓が段々と落ち着きを取り戻していき、次にやって来たのは安堵だった。
夜の底に消えてしまいそうな夢のような現実は、今たしかにここにある。そんな気がしたが、この現実は夢だろうか。
だとしたら随分残酷な夢だ。
強烈な眠気に意識が侵食されていくが、夢と現実が混ざり合ったところで、おれは一生懸命寝まいと努力していた。
こんな幸せはない。少しでも長く彼の手に触れていたい。そうは思うのに、瞼はしっかりと閉じたまま、開いてくれなかった。
和音さん大好き!
直後に見た夢で、おれは勢いよく和音さんに抱きついた。