長調
「いい? 静。まっすぐ帰ってくるんだよ」
和音さんが念を押す。
「和音さん、おれ」
「良い? 静。まっすぐだよ。何、迎えに行ってほしいの?」
「え?」
「良いよ、行くよ」
「な、なんで……」
朝からこの調子だった。和音さんはしばらく彼の家で暮らすように言ってくれている。正直に言うとすぐにでもお世話になりたい。しかし、迷惑だろう、とか、あとは自分の気持ちの問題に行き着いてはっきりとは答えられず、おれたちは家の玄関前でかれこれ10分位上押し問答をしている。
お金もないし、それよりずっといっしょにいたい。だけどずっと一緒にいたら多分やばい。
だって、大好きだって言えなくなった。
大好きだって言ってしまったらきっと気付かれてしまう。
自分でも気付かないようにしていたおれの気持ちに、気付かれてしまう。
「とにかく」
和音さんがおれに背を向ける。
「和音さんっ?」
おれはどうしたいのか。曖昧に断っていたはずなのに和音さんが諦めて離れてしまうとどうしようもなく慌ててしまう。
「これで行って。歩いたらもう間に合わないから」
和音さんが家の横から出してきたのは、ピンクのママチャリだった。
「母さんが昔使ってたやつ。あげないよ。返しに来てね」
そうして和音さんにママチャリを押し付けられた。
「じゃあ、俺学校行くから」
「珍しー言葉」
その時、和音さん以外の声がした。
振り返ると、玄関前にセーラー服に身を包んだおさげ頭の女の子が無愛想に立っている。清楚を具現化したような少女。きっと妹のまなちゃんだ。和音さんとは似ていないが、おそろしく可愛い顔をしている。女の子に興味はないから良かったが、そうではなかったらドキドキしたかもしれない。
「まな……」
「ていうかお兄ちゃんを朝に見たの久しぶりなんだけど」
「久しぶりだから」
「ふうん。早死するよ。きそくただしいせいかつしないと。ねえ、その子静君?」
「その子って、まなの方年下なのに」
「つまんないこというなあ、お兄ちゃんは。静君、今日も来るんでしょ?」
「え?」
まなちゃんがおれたちの横を通り過ぎるとき、至近距離でおれに尋ねた。
「まな、近いんだけど」
和音さんが俺とまなちゃんの間に割って入り、彼女の鼻をつまむ。まなちゃんは和音さんの手を力いっぱいに払い、彼を睨みつけた。
「お兄ちゃんサイテー! ていうか眼鏡し忘れてるだけだし、まじムカつく。……あ、眼鏡部屋だし。めんどいなあ。それじゃあね。いってらっしゃい」
まなちゃんがのろのろと矢継ぎ早に言い、また家の中へ消えた。
すこしゆっくりめに話す、そのテンポが和音さんと似ている。そういえばお母さんもおっとりとしていた気がする。もしかしたら和音さんの家は一家でゆっくりしゃべっているのだろうか。
「静、本当に遅刻だよ。じゃあ、俺行くから」
「あ!」
おれが何か返事をする前に和音さんは走りだして行ってしまった。呼んだって振り返ってもくれない。こんなことを考えている間にも和音さんの家の前は坂になっていて、すでに彼の姿はない。
残されたのは、おれとピンクのママチャリ。
「あ」
今気づいた。ちゃりんこのかごの中に、地味な色をした袋がある。
「……和音さん」
そっと開けると、銀色のお弁当箱があり、その上には『静の分』と書かれたメモが置いてある。和音さんの字は柔らかくほんの少しだけ丸かった。
お弁当箱も洗って返さなければいけないし、自転車も返さなければいけない。
倉庫で事足りる、ともうひとりの自分が突っ込むが、素知らぬふりをする。それに、そうだ。お弁当を作ってくれたのは多分和音さんのお母さんだから、お礼も言わないと。
自転車にまたがり、かごに持ってきたカバンを入れる。
見上げた空はうさんくさいほど青かった。坂の上だから見上げたら空しかない。雲ひとつない青空は手抜きの絵みたいで見応えがない。だけど、気分は最高だった。調でいえば超長調。ハ長調かもしれない。ピアノが弾きたい。ハ長調ってなにあるっけ。ぱっと結婚行進曲が浮かぶ。なにそれきもい!
頭の中でひと通り突っ込み、おれは学校に行くため和音さんとは異なる坂を下った。