早寝記録

夏休み初日

 風が吹いていた。夏らしくない、少しひんやりとした風だ。

 途中遭難しかけるというアクシデントはあったが、墓掃除は滞り無く終わった。結構金も手に入れたし、しばらくはこれで生活できるとほくほくしながら和音さんと再会した矢先、和音さんに海へと連れて行かれた。

 尻の下のテトラポットはひんやりとしていて、おれはその冷たさを感じながら隣に座る和音さんの横顔を盗み見る。

 和音さんは地平線の彼方に消えゆこうとしている貨物船をじっと眺めていた。妙に騒がしいカモメの啼く声が耳に残る。

「あと2年したら……」

 和音さんの横顔を見ながら、小さな声で話しかける。風に吹かれながら海の彼方を見つめる和音さんはまるで芸術品のようで、少し話し掛けづらい。

「2年?」

 和音さんがふとおれに目線をくれる。さっきはかなりショックを受けていたが、だいぶ気を持ち直してくれたのか、その瞳に悲観の色は見られない。

「うん。そうしたらおれハタチになるから、パスポートも自由に取れるし、今より金だってある。……さすがに、せ、世界まわれるほど余裕あるかはわかんないけど」
「あるでしょ。海外旅行とか、日本の端行くより安いのもあるし、こつこつバイトすれば行けるよ」
「やっぱ生活費とか結構かかるし」
「……家来れば?」

 少し間を置いて和音さんが訊いてくる。畏れ多い、などとはもう思わないようにする。これまでのおれならば反射的に遠慮の言葉を叫んでいた。けれど、和音さんは本気で言ってくれている。だからおれも本気で返さなければ。

 ふと、和音さんがおっとりしているのは、真剣に考えてからなんでも言っているからではないかと思い至った。

「すげえ嬉しいけど、やっぱ、和音さんの親に養って貰うのは違うと思うから、行けないよ」

 和音さんが瞬きを一つする。表情は変わらないし肯定も否定もしない。

「おれ、自分のことなのによくわかんないけど、多分自立したいんだと思う」

 その上で和音さんがそばにいてくれたら他に何もいらない。

「一人暮らしってこと?」
「……誰かの世話になりたくないってこと」
「同棲とかなら良いの?」
「どっ……。ま、まあ、そうですね」

 あ、敬語になった、と気付いたが和音さんは何も言わなかった。というより、和音さんはタメ口を強制したりしていない。だけど、いつから対等じゃなくなったんだろう、なんてあんな顔で言われたら誰だっておれと同じようにする。ぜったい。

(けど、あんな顔他の人に見せるのはヤダな)

 見せてるのだろうか。瑞樹とかは和音さんと高校が一緒だし、もしかしたらおれが知らない和音さんをたくさん知っているかもしれない。
 そう思うと胸のあたりにどんよりとした雲が生まれた。たまに生じるこの雲はやっかいなことに中々晴れてくれない。

「……男と男はなんて言うっけ。……普通に同居? ねえ、静、同居はどうなの?」
「それも、良い」
「じゃあ、ボロいアパートを俺が借りたとして、家賃半分払ってって言ったら来る?」

 和音さんはいつもよりも早口だった。表情もいつものような大人びているものではなく、幼いものだ。

「もしそんなことになったら、おれ幸せで倒れると思う」
「……倒れる」
「倒れる。熱出ると思うよ」

 和音さんは満足気に、少しだけ微笑んだ。

「俺、看病は結構得意」

 そんなことされたらもっと熱が上がるだろう。幸せな光景を想像し、おれは和音さんから海へと視線を移した。隣で、和音さんも海を見る気配を感じる。

「俺、静に一週間くらい付き合ってもらおうと思ったんだ」
「海外旅行?」
「そう。静は勉強あるだろうけど、一週間だけ付き合ってもらおうと思った」
「……別に、おれ一週間でも一ヶ月でもいくらでも――」
「俺、受験生のことは全くわかんないけど、綾音が、受験生は夏が勝負どころって言ってた」
「おれ、大学行かない」

 海を見ながら告白して、和音さんといる、と心のなかで付け加えた。

「行ったほうが良いよ」

 和音さんが穏やかに言う。

「頭が良いなら医者とかさ。俺バカだからありきたりなものしか出てこないけど。父さん見てると、結構もうかるみたいだよ。静も医者になってでかい病院作りなよ」
「……お金かかるし」
「それなら貯まるまで働けば? 俺、静が貯金できるような生活環境ととのえる」
「生活環境?」
「働いて、ボロアパート借りて、質素なごはん作る。静は働いてただただ貯金すれば良いよ。あ、でも自立したいんだっけ」

 和音さんがおれに今くれた言葉を考えるが、友達に言う以上の申し出だろう。余程尽くすタイプでない限り恋人にだってなかなか言わない。和音さんはお金持ちだから援助しようとしてくれるのだろうと思おうとしたが、和音さんは「働いて」と言った。

「なんで……」

 どうして? というのがまず一番はじめに沸き上がってきた感情だった。

「和音さんはどうしておれに良くしてくれるの」

 おれは何という答えを予想していたのだろうか。何を言ってほしいのだろうか。いつもならば人にものを尋ねるときにある程度予想するのだが、今回は予想も期待もない。本当に純粋な疑問があったのだ。

「なんでだろうね」

 和音さんが答える。

「ほんとのところ、よくわかってない。でも、ピアノからタガが外れた気がしてる」
「……ピアノ?」
「倉庫にあるでしょ? あれ。運びながら、なんでこんなことしてんだろうって思ってた」
「おれも、なんでおれのためにここまでしてくれるんだろうって思ったよ」

 おれのこの言葉を最後にしばらく沈黙が続いた。波の音の中で、汽笛が物憂げに鳴った。

「気に入られたかったのかな……」

 和音さんが何かを呟いた時、まるで邪魔するかのようにテトラポットに波が打ち付けられた。和音さんの声がかき消されてしまいそうで、おれは耳を澄ましたが、もう遅い。

「まあいいや」

 和音さんが立ち上がる。和音さんが何を言ったのか気になったが、なんとなく聞けなかった。何を言ったのか尋ねてもはぐらかされる気がしたのだ。

 空は夕焼けに染まっていた。来た時は青かった海が、今は橙色に輝いている。

「和音さん、これからどうすんの? ……倉庫行く?」

 ここからならば和音さんの家よりも倉庫の方が近い。それに、もう和音さんの家におじゃましてからもうじき一週間になる。いくらなんでも迷惑すぎる。それなら和音さんを誘って倉庫に行ったほうが気持ちが安らぐ。

 和音さんは海を眺めながら少し思案する素振りを見せ、最後にそうだねと言った。