ひとりぼっち
和音さんの部屋に入った途端に全身の力が抜けた。
特別な人の家族はやはり特別だった。吐き気を催し、冷や汗が出るほどの緊張はしたことがなく、もう一生したくはない。嫌な出来事があって吐きそうになったことはあるがそれとは比べようもなかった。
「気分悪い?」
部屋の真ん中で息を吐くおれを追い越して和音さんがまたベッドに座る。おれははたから見れば具合悪そうに見えるかもしれないが、和音さんは彼が言ったように気分が悪そうだ。いつも無表情だが、いつもよりも少しだけ眉が酔っている。こんな些細な変化にさえ気付ける自分が少しこわい。
「緊張したから」
「嫌な気になったんじゃないの? 普通、親とか嫌でしょ」
「嫌ってわけじゃない。だって、和音さんのお父さんだし、緊張しないほうがおかしい」
「緊張する必要はないけど」
「そもそも先に挨拶するべきだったんだ」
おれの言葉に、和音さんが曖昧な表情を浮かべ、目を逸らした。どうしたのだろうか。戸惑っているというよりは、バツが悪そうな感じだ。だけど、聞くことはできなかった。
おれと和音さんの距離は以前よりずっと近くなったが、なんでも尋ねて嫌われたくないと思ってしまう。それが人の内部のことならばなおさらだ。何を思っているのか。何を考えているのかを聞くことは恐い。知覚できる情報とは異なり、心の中は口に出さないと外部に漏れることはないのだ。秘めているものを曝け出させるのは、とても勇気がいる。
しかし、おれは和音さんがおれに色々と聞いてくれたら良いのにと思っている。心の鍵は、持っている本人が開けない限り絶対に開かないが、おれはできないことと知りながらも和音さんにその鍵を渡したいと思っている。
(けど、知られたくないこともあるか……)
それに、和音さんが知りたくないことだってある。おれの和音さんに対してたまに覚える浅ましいほどの欲は知られたくないし和音さんも知りたくないだろう。
「……俺、今まで友達って作ったことなかったから、わかんないんだよ。家に上げることもなかったし、綾音とか上のやつらが連れて来る時は、隠れてたし」
和音さんがぽつりという。
まるで特別扱いみたいで、ものすごく嬉しいが、和音さんは伏し目がちに、言いにくそうに言葉にした。ひとりを自ら選んでいると思っていたが、違うのだろうか。
「小さいころって、どんな子だったの?」
思い切って尋ねる。おれにとってこれは人の奥底に迫る質問。誰にでも、過去のことを訊くのは憚られる。過去は、文字通り過ぎ去ったものだ。その人の今を形作った重大なもの。それを教えてというのはおれにとって勇気のいることだ。
なんとなく、今や未来を語るより、過去を語り合うほうが密な気がする。上手く行けば仲が深まるし、上手く行かなければその人との距離はぐんと離れる。
それでも、今のおれにこんな計算ができていたかといえば答えは否だ。思い切ったものの、半ば無意識に口が動いていた。
遠野さんが教えてくれた幼き日の和音さんは自ら人と距離を取っていたようだったが、和音さん自身はどう思っているのか。
和音さんは何かをたぐり寄せるように視線を彷徨わせた。表情は、無表情のまま変わらない。無垢な時代を思い出しているようには見えなかった。
「どんな子、か……」
なんて言えばいいだろう、と首をかしげる様に、おれに対しての嫌悪は見えず、ほっとした。和音さんは優しいし、おれを受け入れてくれているが、それに甘えることはどうしてもできない。
自覚するのは嫌だが、それはおそらく自分が和音さんのことを信じきれていないから。大好きで、信じたい、信じられると強く思っているが、何に対しても昔から最悪の想定ばかりをしてきたのだ。ふと、「和音さんに嫌われる」という最悪の想定をしてしまうことがあるし、今からまたひとりに戻ったときのことを考えて、保険を掛けておかなければという思いもある。
ただ、前みたいに言動ひとつひとつを分析して、返ってくる答えや反応を先読みしてから言葉を発することはなくなった。
自分の心さえも騙していた時期に比べたら、これは考えられないほどの進歩だ。
和音さんは、伏し目がちのマネキンのようにじっと考えていた。
自分の子供時代を、どんな気持ちで思い起こしているのだろうか。
「俺が子供の時は、そうだな、全く可愛げなかったよ。笑わないし、いじめられても泣きもしない。いつもひとりでいた」
淡々と、いつもの調子で和音さんが答えをくれる。
「いじめられたことあるの?」
和音さんの答えが意外で、重ねて尋ねた。好んで一人でいる和音さんは容易に思い浮かぶが、悪意に曝されているところが想像できない。
「そんなひどいもんじゃなかったけど。静は? ちゃんと子供らしかった?」
「おれ、学校じゃ大体ひとり。友達できねーの」
へらりと笑う。和音さんは何かを言おうとしたが、少しだけ苦い顔をして口を閉じた。
なんとも言えない空気が流れる。冬の日の暗い曇り空みたいな、重いけれど落ち着く感覚。不快に感じる人が多いだろうが、いつも腹の中に雨雲を抱えていたおれにとっては、おかしな言い方をすれば、懐かしさを覚えるものだった。
普通の人には不快なこの空気を、軽い調子で吹き飛ばしてしまうことは簡単だろう。ひとりぼっちだなんて一緒だね、とかだから不良になっちゃったとか何とか言って場を繕えば良い。だけど、そうできなかった。
短い言葉だが、おれは今人には滅多に晒さない過去を話した。それを和音さんはおれの想像を遥かに超えるほど真剣な眼差しで聞いてくれたから。
それなのに最後に笑ってしまったのは、怖かったからか。
言葉は、音として発するのはいやになるくらい簡単なのに、責任は難度とは見合わず重大だ。
今まで、俺をどん底に突き落としたのも言葉なら、救い上げてくれたのも言葉だった。とりわけ、和音さんの発する言葉の意味は大きい。和音さんがくれるちょっとした言葉でもおれは天にも昇る心地になるのだ。
「仲良くなったのかな」
しばらくして、和音さんが口を開いた。
「学校一緒だったら」
わかんないね、と言って和音さんがベッドに仰向けに倒れ込んだ。なんとなく和音さんの傍に寄りたくなって、そっとベッドまで行き、目を閉じている和音さんの隣に腰掛ける。
和音さんが薄く目を開けおれを見た。そして、そっと微笑む。
「静が、バカだったら良かった」
「おれ、十分バカだよ。頭良かったら、もっとうまく生きてる」
「勉強できるじゃん。それを頭良いって言うんだよ」
和音さんが笑う。
「静が俺くらい頭悪かったら俺のとこにしか通えないから、学校一緒だった」
「おれも、和音さんと一緒が良かった」
「静の学校はレベルが高すぎる。異次元」
はは、と和音さんがおかしそうに笑った。目尻に皺が出来、よく冷たそうと表される精巧な作り物のような顔に血が通い、優しい人間の顔になる。滅多に見せないこの顔を、おれは独り占めしたいと思った。
「もし、小学校から一緒で、友達になってたら俺も頭良くなってたのかな」
さらに和音さんが続けた。
「仮定は嫌いなんだけど、最近よく考えるんだ。さっきは友だちになれるのかなって言ったけど、白状すると、友達にはなれるだろうって思う。自意識過剰かな」
まっすぐおれを見て言う和音さんに、俺は首を横に振った。
「和音さんが、仲良くしてくれるんだったら、おれはすぐに和音さんのこと好きになる」
和音さんが満足気に頷く。
「頭このままで、時間だけ戻れば良いのに」
和音さんは、小学校時代のおれを知らないのに、軽く言ってしまった。
当時、おれに味方はいなかった。子供たちは親から『あの子に近づかないように』と言われ、教師も黙認していた。だけど――
「和音さん」
「何?」
寝転んでいる和音さんを見下ろす。おれによって和音さんに影ができる。灰色の瞳は明るいところでみるよりも暗いところで見るほうがより魅力的だ。深く輝く瞳に吸い込まれたい。
「おれ、和音さんと遊びに行きたい」
もしかしたら、和音さんはおれと友達になってくれていたかもしれない。
「いいよ。どこ行く?」
バイトに行く前、和音さんを遊びに誘おうと思ったが、中々言い出せなかった言葉。ついに言えた。
言えたことの達成感と、すぐにいいよと言ってもらえた嬉しさがおれを襲う。
「どこでもいいんだ。とにかく、おれ和音さんと遊びに行きたい」
「すごい切羽詰まった顔してるんだけど」
和音さんが呆れたように笑う。
「そういえば、明後日花火大会だっけ。それ行こうよ」
「花火! 行く!」
「テンション高い」
和音さんが笑いながら起き上がる。
そして、体を折り曲げてベッドの下に手を突っ込んだ。床に何かおいているらしい。
「ねえ、なんか観ようよ」
「エロいの?」
「映画」
「だって和音さんベッドの下に隠してあるから」
和音さんが木箱を取り出しベッドの上に置く。開けられた木箱の中を覗きこむと、DVDが綺麗に並べられていた。しかも、50音順に。
「和音さんって、映画好きなの?」
「うん。知らなかった?」
和音さんがうっすらと口元に笑みを浮かべる。何も知らないね、と言われている気がした。
「おれ、和音さんのこと全然知らない」
今まで、どんな話をして来ただろう。
倉庫に人が集まってからはふたりで話すことがほとんどなくなったが、その前は?
(どうでもいい話かしてなかった)
天気の良し悪しだとか、誰それが強いとか弱いとか。
けれどそれでもおれは和音さんといられて楽しかったし満足していた。いつかなくなる幸福を憂えて落ち込んだりもしたが、おれは和音さんといる時間が大好きだったのだ。
でも今は和音さんのことを知りたいと思っている。
一緒にいられるだけで満足だったのにずいぶん贅沢になってしまった。
「知りたいの? 俺のこと」
なぜか自嘲の笑みを浮かべながら言う和音さんが妙に色っぽかった。