口から臓物
恐怖とは、失敗したくない思いから生まれるのだろう。自分の言動で未来が壊れることを予想する時におれは恐怖を感じる。
おれの望んでいる未来はなんだ。おれの望んでいる未来はただひとつ、和音さんと共にあること!
「は、早川静です」
気合を入れて出した言葉は、しかし蚊の鳴くほどの小さなものになってしまった。
毛穴という毛穴から汗が噴き出している気がしているのと同時に、全身が氷のように冷えているとも感じられる。そして心臓はおれではない何か強大な力のもと鎖で雁字搦めにされてしまった。
つまり、緊張している。
「ご挨拶もなしに居座ってしまい大変申し訳ございません」
かすっと声が出た。
おれの隣では和音さんがひどく驚いた、いや、あっけに取られたようにおれを凝視している。
おれと和音さんが並んで立つその向かい側に座った和音さんのお父さん━━おれにとっての先生━━は、おれが見ているものが都合のいい幻想でなく実体だとしたら怒った風もなく微笑んでいる。
さっき和音さんの部屋に来たのは和音さんのお兄さんだった。彼が、和音さんのお父さんがおれたちを呼んでいると伝えに来てくれたのだ。
和音さんは面倒くさそうに立ち上がり、おれに付いてくるように促した。正直、心の準備をする時間が欲しかったが、和音さんはおれが付いてきているのかさえ気にせずにすいすいと進んでいってしまった。
そうしておれは先生の自室へと足を踏み入れたのだった。先生の自室はあまり広くない。和音さんの部屋と同じくらいかもしれないが、ドアと窓以外の壁には本棚がそびえ立っており、狭さ以上の圧迫感を感じた。
「かまわないよ」
仏の声が落ちる。
なんとか心を落ち着かせ先生の顔に意識を戻すと、やはり先生は穏やかな表情でおれを見ている。
「うち、ひとり増えても困らずやっていけるから」
にこにこと、先生が言う。
「あの、でも、礼儀をわきまえてなかったから、おれ……」
「いいんじゃないかな? 僕も挨拶忘れること多いし、それに静君がいる時仕事してたし」
すれ違いの生活だね、と先生が楽しそうに言った。
(なんか……想像と違う)
穏やかで、のんびりした人だ。患者として先生と関わっていたときも優しそうな人だと思っていたが、もう少し厳しそうに見えていたのだ。
「それに、和音が連れてきたんでしょ?」
「そう。住まわせようと思って」
和音さんが、先生を見つめたままぶっきらぼうな口調で答えた。
「静は遠慮してたけど」
ね、と和音さんがおれに向き合う。おれは、一応頷いた。
和音さんは、おれの事情を家族に伝えていない。そもそも和音さんだって詳しいことは知らないのだ。おれは和音さんになにも言っていないから。
親がいないこととあまり家に帰りたくないことは言っているけど、詳しいことは説明していない。隠したいとかではなく、自ら言うべきことでもないし、知ったって和音さんに得はない。聞かれたらもちろん事実を話すけれど、おれはそれが同情を引き起こすのではないかと恐れる。
不幸自慢は醜い。
和音さんは今おれをかばってくれている。いなよ、と言ってくれていたことは確かだけれど、おれは自由にどこにでも行くことができた。最終的に和音さんの申し出を受けたのはおれだ。おれが選択したんだ。
だから、これを伝えようとした時だった。
「静くん」
にこやかに笑う先生の瞳に真剣な光が宿った。
「はい」
先生はおれをまっすぐ見ていた。ここまで真摯な眼差しを受けることはあまりなく、逃げ出したくなったが必死で先生の目を受け止める。
「君はここにいなさい」
「え……?」
まさかの言葉。許可でも申し出でもなく、やんわりとした命令形。
「もちろん強制はしないけれど、君は居場所を選ぶことが出来る。選択肢の中にここも加えて欲しい」
「ど……どうしてですか? なんで、こんなこと……」
遠野さんの話では和音さんは家でおれの話題を出してくれているようだったし、それがとても珍しいことだと聞いた。だけど、普通ここまでの言葉を掛けてくれるものなのだろうか。第一、進藤家にはまなちゃんがいる。女の子を持つ親として不安にならないのだろうか。
ただの風変わりな人と位置づけるには不可解なことが多すぎる。先生は、何か理由があっておれにいてもいいと言ってくれているのだ。
「春に、君が入院した時にそう思った」
先生はこれだけ言った。その瞬間に思い浮かぶのはひどく怒られた記憶と、聞いてしまった彼らの本心。彼らの願いとは裏腹に死に損なってしまったおれは、あれから「家」に帰らずにほぼ倉庫で寝泊まりしている。
言葉を出せないおれに変わって口を開いたのは和音さんだった。
「卒業したら、ちゃんと出てく」
「……和音もかい?」
先生に問われ、和音さんがおれを見た。
――じゃあ、ボロいアパートを俺が借りたとして、家賃半分払ってって言ったら来る?
和音さんがおれにくれた言葉。
和音さんは本当に、言ってくれるのだろうか。
それならどうして言ってくれるのか。
(もしかして……)
わからない。わからないけど、和音さんはおれを必要としてくれてる?
――静がいなくなっても困らないけど、静がいなくなるのは嫌なんだ
3ヶ月前にもらった言葉。おれの宝物。いなくなるのは嫌だと言ってくれて、おれがどれだけ救われたか、和音さんは知らないだろう。
(必要としてるんじゃない。……和音さん、おれと一緒にいたいと思ってくれてるんだ……)
それならば、必要とされるよりもずっとずっと嬉しい。
和音さんの目を見て小さく頷いてみると、和音さんが目を少し細めた。微笑んだのだ。気をつけてみないとわからないほどの小さな笑みだったが、和音さんの笑顔によっておれの体の中が熱で満たされた。この時、おれは和音さんが好きなんだとしみじみと思った。
嬉しい。本当に、おれに幸せをくれるのは和音さんだけだ。
おれは、和音さん以外にも優しい人や良い人がいることを知っている。ナオくんは良い子だし、3年になってから友達になった春はいつもおれの心配をしてくれている。だけど、おれを嬉しくさせたり、幸せにするのは和音さんしかいない。
今だっておれは嬉しくてしかたがないのだ。しかし、今は舞い上がる気持ちを抑えて先生に言わなければならないことがあった。もしかしたら誤解されているかもしれない。はっきりと言葉で言われていない以上自ら言うのは自意識過剰に思われる可能性もあるが、誤解の危険性がある以上正さなければいけない。
もしも先生が入院時におれの親戚たちと会って色々とやりとりをしたとしたらおれを可哀想だと思ったかもしれない。事実、同情しておれに優しい言葉をくれるのだろう。
「……おれが入院した時、あの人達が先生に何言ったかわからないけど、おれ、あの人たちのこと気にしてないから先生も気にしないでほしい。……です」
「わかったよ」
先生がまた柔和な笑みを浮かべ、頷いた。
「それでも君はここにいなさい」
そして、やんわりとした命令をくれる。おれは、すぐにでも頷きたかったが、言葉を濁し、礼をした。
好意をそのまま受け取ることが怖かった。おれに投資したって、見返りなんて何もないから。