早寝記録

恋人的

「音、立てないでよ」

 和音さんが声を潜める。
 おれたちは無言のまま繁華街を抜け、和音さんの家の裏手にやってきていた。裏から回って玄関に近づき、綾音とその彼氏を観察するという作戦だ。忍び足で進む。
 あと少しで玄関が見えると言う時だった。

「……何をしてるんです」

 頭上から声が掛かり上を見ると、呆れ顔の遠野さんが窓から顔を出していた。
 おれの前を行く和音さんも驚いたように遠野さんを見上げている。

「……綾音ってまだいる?」
「5分程前に帰りました。今連絡すればまだ間に合うと思いますが」
「しない。俺、綾音に旅行中って嘘ついてるから」
「ああ、綾音が悔しがっていましたよ」
「ふーん」

 和音さんは満足そうだ。
 それからちゃんと玄関から和音さんと一緒に家の中に入ると、遠野さんが出迎えてくれた。
 真顔だが、眉間に一筋の皺があるのは見間違いだろうか。

「おかえりなさい、和音くん。一週間ぶりですね」
「そうだね。一週間ぶりに来た」

 遠野さんの嫌味などどこ吹く風で、和音さんは何事もないかのように靴を脱いでいるが、何か感じるところがあったのか、和音さんが少し動きを止めて、上から威圧感を放っている遠野さんをちらりと見上げた。

「……別に怒んなくてもいいじゃん。夏休みだし。ちゃんと連絡もしてたよ」
「『生きてる』って四文字じゃないですか」
「連絡するだけいいじゃん」

 和音さんの物言いに、遠野さんのこめかみに筋が浮かぶ。

「……怒ってんの?」
「怒ってはいませんよ。ひとこと文句を言いたくなっただけです」
「怒ってんじゃん」
「私が言える立場ではないが、帰ってこない時は連絡しなさい」
「したよ」
「生きてる。だけではだめです。ちゃんと場所を教えなさい」

 おれからは和音さんの表情は見えないが、和音さんは無言で遠野さんを見上げている。

「心配するからです」

 和音さんから何かを受け取ったのか、遠野さんが言った。

「……悪かったよ」
「よろしい」

 遠野さんはひとつ大きく頷いて、廊下を歩いて行った。和音さんが不満気に顔を歪めて振り返り、おれに入るよう促す。お邪魔します、と言っておれは再び進藤家の敷居をまたいだ。

 約10日ぶりに和音さんの部屋へと入ったおれを襲ったのは懐かしさだった。なんだか帰ってきた気がする。厚かましい感情に戸惑う。

「遠野さん鬱陶しいとこあるんだよね」
「いつも怒られてるの?」
「まあね。昔から俺を怒るのは大体遠野さん。この歳になってもああやって怒られる。あの人俺のこと子供だと思ってるんだよ」

 和音さんが勢い良くベッドに座る。

「和音さんのこと可愛くて仕方ないんだよ」

 背負っていたバッグを部屋の隅へ置き、おれも和音さんの隣へと腰を下ろした。
 和音さんのことを語る遠野さんは、和音さんをうらやましいと思うほど幸せそうな顔で話す。
 おれに言われた和音さんは苦虫を噛み潰したような顔をしたが、ついに観念したように目を閉じた。

「うざいなあ」

 今回だって連絡してたのに、と不満気に呟く和音さんは、ケンカはするけれど多分不良ではない。ケンカをするのは不良だと言われたらそれまでだが、和音さんはおれのように腐っていない。心配は掛けているが家族を大切にしているし、話を聞くに遠野さん以外に反抗もしないようだ。
 おれの信仰フィルターは、和音さんを唯一無二の不良にしていた。

「でも、みんな喜んでたね」
「倉庫の?」
「うん。和音さんがずっといる! って言ってさ」
「それまでも顔は出してたんだけど。静が学校行ってる間とか」
「けど放課後はおれとずっと一緒にいてくれてたから」
「いてくれてた? 俺が無理やり連れてきてたんじゃん」

 和音さんがため息を吐いてそのまま後方に倒れた。和音さんの髪の毛がベッドの上に乱れ落ちる。和音さんから立ち上る清々しい色気がおれをおかしくする。
 和音さんを見ないように、おれは窓の外へと視線を移した。電線の上に、カラスが1羽飛んでくるのが見える。黒の毛は野生に似つかわしくない輝きを放ち、俺は今日会えなかった綾音を思い出した。

「全然無理矢理じゃない。おれ、和音さんの近くすごい好き」
「ふうん」
「けど、家族いるし、遠慮しますって、そりゃ」
「遠慮、ねえ」

 腕にひやりとした感触に驚いて見ると、和音さんの白い手がおれの腕を掴んでいる。

「どどどどうしたの」
「別に。だめ?」
「だめじゃないけど」

 Tシャツの裾からのぞく二の腕に胸が高鳴る。

「なんでか、静には触りたくなるんだよね」
「どうぞどうぞいくらでも!」

 そう? と言って和音さんがもう一方の手も伸ばしてくる。その手の行き先がおれの首だということに気づき、和音さんに向かって屈んでみると、和音さんが綺麗に微笑んだ。

「願ってもないって言ってたけど、どういう意味なの?」

 おれの首の後ろに手を添えて和音さんが訊いてくる。心臓の脈動が激しい。額に汗が浮かぶが、流しちゃダメだと自分を叱咤する。もしこの汗が額から頬を滑り空中へと落ちたらその先には和音さんの顔がある。おれの汚い汗で和音さんを汚しちゃいけない。ひどく興奮するが、ああ、なんだおれは変態か!

「か、和音さんなんなんですか、さっきまで慌ててたじゃないですか!」

 おもいっきり敬語になったが人間は慌ててる時はきっと敬語になる。

「冷静になったんだよ。で、俺最近静に触ること減ったなって思って」
「たた、確かに前までは、そうだ、和音さんおれの尻を撫でたりしてた!」
「手持ち無沙汰だったから」
「意味分かんないって!」

 和音さんは、体勢を変えないまま思案するように視線を斜め下に下げた。伏目がちな目がまた憂いを帯びていて素晴らしい。

「どこまでできんのかなって思ってたんだ」
「ど、どこまでとは?」
「……静が怒る境界線?」

 おれの目をみてふっと笑う和音さんは、おそらく答えをはぐらかしたのだろう。

「どこまでも怒んないよ」

 和音さんに引き寄せられ、おれもベッドに倒れ込む。図らずもベッドの上で和音さんに覆いかぶさるようになってしまったが、限界を突破したのかおれは冷静だった。冷静に興奮していた。

「願ってもない静は、どうすんの」

 おれの下の和音さんが笑う。いやに厭らしい笑み。なんかはしたない和音さんに動悸が激しくなる。酔っ払ってるのか? そう思ってしまうほど和音さんは色っぽかった。

(わかった!)

 よく笑うからだ。一週間倉庫にいた時の和音さんは前の格好良い和音さんだった。みんなに囲まれて、なんだか格好良いような雰囲気だった。和音さん和音さんとみんなが寄って行くと、和音さんは無口になる。みんなの話を聞くが、ほとんど口を挟まない。ここ一週間おれは和音さんの笑顔をあまり見ていない。大勢でいる時の和音さんはクールだから。

 だけどふたりになって和音さんはよくしゃべるようになった。そして、感情が表情に乗る。
 今の和音さんの空気がエロいのではなく、和音さんの控えめな笑顔が色っぽいんだ。

「ね、願ってもない静は、何もしません」

 できることならちゅーしたい!

「か、和音さんが付き合ってほしいときに、何かします」

 もう、どきどきしすぎて吐きそうだった。やけに大人っぽく笑う和音さんを見ているのが危険で、おれはベッドに顔を沈ませた。しかし失敗だった! おれが伏したそこには和音さんの首筋があったから! やばい! どうしよう! いい匂い!

「くすぐったい」

 はは、と和音さんが小さく笑う。

「まあ、いいや。なんかしたくなったら言ってよ」
「え」

 和音さんは今なんて言った? どういう意味?

「えっ」

 そのまんまの意味?
 もっとちゃんと聞きたくて、質問を整理しようとした。

「和音ー」

 が、それは空気を読まない来訪者によって止められてしまった。というか、この体勢を見られたらまずい。ここに来るということは和音さんの家族だから余計まずい。
 慌てて体を離してベッドから下りたのと声をかけてきた人物が部屋に入ってきたのはほぼ同時だった。