早寝記録

 考えなければいい。
 考えなければ何事も気づいたら終わっている。考えていないのだから、過ぎ去った後も思い出そうとしてもぼんやりとしか思い出せず、そのうち妙な、夢のような記憶だけを残して消えていく。

 一人になった廃倉庫には夏に似合わないじめじめとした空気が漂っている。
 この街の不良たちはよく嫌がらせ目的で男を抱く。嫌がらせ方法としておれもそれは認識していたが、よく考えれば、いや、よく考えなくても嫌な町だ。

 バカ3人組がいなくなってどのくらい経つだろうか。卵をポケットから取りたいが、後ろ手に縛られているから取れないし、身を捩ったりしながらなんとか尻のところまでズボンを上げたけど、前のファスナーが上げられないからちょっと変態くさい。

 バカ3人は和音さんを呼ぶと言っていたし、和音さんなら来てくれる。だけど、できるなら拘束を解いて何くわぬ顔でおれから和音さんに会いに行きたい。こんなのおれは慣れてるから、和音さんに大丈夫だよと言って安心させたい。

 使われてるのはどこから持ってきたのか、普段あまり目にすることのない何の変哲もない縄だ。ナイフじゃなくても何か鋭利な角などがあれば拘束くらい自分で解ける。だけど室内には何も無いし、あいつらは壁に太い釘をさしてそれとおれの首を縄で結んだからこの倉庫から出ることもできない。

「無理だ」

 諦めて、壁に背を預ける。ずっと鳴いていたであろう蝉の声にようやく気がつく。ジー、ジー、と、規則的に思える蝉の声が気づいた途端うるさく感じた。それでも気晴らしと暇つぶしに蝉の鳴き声に耳を傾けてみた。ミーンミーンとかよく表現されるけれど、この近くにいる蝉は違う種類らしい。

(全ッ然気晴らしになんねえ……)

 気晴らしどころか、どんどん気分は落ち込んでいく。
 どこから間違えたかなんて考えたくないのに考えてしまう。あの3人組を撒かなかった時? それとも、講習を抜けた時? 和音さんの電話を切った時? 和音さんに背を向けた時? それとも……。

 この先は本当に考えたくなかった。
 だけど、やはりどんなに思考を止めようとしても考えてしまう。多分、間違えたのは――。

 その時、ちょうどおれの止まらない思考を遮るようにして倉庫に光が差した。突然の眩しさに思わず目をつぶる。

「静……」

 聞きたくてたまらなかった声。低くも高くもない、木管楽器のような優しい音。以前、ナオ君にも同じことを思ったのを思い出す。あの子も、聞いていて安心するような声をしていた。しばらく聞いてないけれど、具体的に思い出せない代わりに少しだけ穏やかな気持ちになった。

 目を開けると、和音さんがずぶ濡れで立っていた。昼過ぎはすごく曇っていたから雨が降ったのかと思ったが、そういえば蝉が鳴いている。和音さんは随分と情けない顔をしていた。

「和音さん濡れてる。晴れてるんじゃないの? セミ鳴いてるし」
「……汚れたから、水かぶってきた」
「そうなんだ」

 和音さんはおれの首に回されている縄を認めるとさらに顔を顰め、倉庫の扉を締めて鍵を掛けた。

「今、取るから」

 和音さんが小さく言って近づいてくる。蚊の鳴くような頼りない声。外で鳴いているちっぽけな蝉の方が何倍も生気がある。彼らはあと余命いくばくかだが、果たしてそれを認識しているのだろうか。認識しているのならば、死にたくないと泣き喚いているのかもしれない。直接聞いて確かめることなんて誰にもできないのだから、こんな馬鹿げた想像をしてみても良いだろう。

 おれの目の前まで来た和音さんが床に膝をつく。髪の毛や顔から服から水が滴り落ち、愛想のないグレーの床を湿らせた。

 和音さんは黙ったままポケットから折りたたみナイフを取り出し、おれの首に当てた。正確には、おれの首に巻かれた縄に。不快ではない緊張が走る。高揚感と言い換えても良いかもしれない。今おれは和音さんに命を握られている。それをおれはなぜか幸せだと感じた。

 ぶつぶつと音を立て縄が千切れていく。倒錯的な思考を排除しようと水に濡れた和音さんのきれいな顔を眺める。ふと、あることに気付く。

「疲れてるの? 和音さん、目、赤いね」
「……別に」

 和音さんは縄を後ろに捨てると、おれの横に回り、腕を解放してくれた。パンツや制服のズボンをきちんと整えながら聞いてみる。

「来てくれてありがとう。バカ3人が教えに行ったの?」
「……又聞き」
「ああ、そうなんだ」
「っていうか」

 和音さんが赤い目でおれを睨む。水が滴る前髪から覗く目は妙に色っぽい。

「なんでそんな普通なの」
「え? だって、大丈夫だから」
「大丈夫じゃないじゃん」

 和音さんの視線が血やその他不潔なもので汚れた床に向けられる。

「大丈夫だよ、おれ」

 はは、と笑ってみる。だって本当に平気だ。和音さんが来てくれた。うれしい。殴られるのも、言ってしまえば男に突っ込まれるのも慣れてる。最近はなかったけど、それでも平気。大丈夫。蝉も鳴いてるし、物事もちゃんと冷静に考えられるし、夏が来たし、和音さんも来たし、話してくれるし、これから多分秋も来るし、あと、なんだっけ。

「大丈夫……だよ」

 さっきより、少し言葉に詰まったがちゃんと言うと、和音さんの表情がこわばった。

「大丈夫じゃねえじゃん!」

 和音さんらしからぬ突然の大声に体がビクつく。

「は、はは。なんだ、和音さんも大きな声出るんだ」
「出るよ!」

 律儀に答えてくれた和音さんの手がおれに向かって伸ばされたが、言葉の勢いとは逆に存外弱々しく伸ばされた手はおれに届く前に降ろされ、たよりなく開いていた手が拒絶を表すような拳に変わる。和音さんが「ごめん」と謝り、俯いた。

 伸ばされた手がおれに届いたら良かったのに。

 和音さんが床に落とした手の隣に、光の筋があった。薄汚い小さな廃材置き場。建物の老朽化でできた壁の隙間から一筋の光が差しているのだ。建物の汚さとの対比からか、細くか弱い光が穢れのない美しいものに見えた。

「なんで謝んの?」
「うるさい」

 俯いた和音さんの表情は見えない。

「和音さん、おれ、大丈夫だよ」
「大丈夫じゃない……」

 和音さんの小さな呟き。わずかに声が震えている。
 今度はおれが手を伸ばし、和音さんの肩に触れると、和音さんがびくっと体を震わせた。濡れたせいか、夏なのに驚くほど和音さんの肩は冷たかった。

「おれ、大丈夫」

 やはり俯いている和音さんの顔は男にしては長い髪の毛で隠されて見えない。痛む体を和音さんの方に伸ばして顔を覗きこむと、ふいと逸らされた。
 一瞬見えた和音さんの顔は今にも泣き出しそうに歪んでいて、胸がつまる。

 少し迷い、和音さんの肩に置いたままどうすることも出来なかった手に力を込めて、和音さんを引き寄せてみると、思いの外簡単に和音さんがおれの腕の中に来た。脱力し、もうどうでも良いといったように収まっている。
 じわじわと制服が湿っていくが、普段は不快に思うはずのそれも和音さんにもたらされたものだと思うと愛おしかった。

「和音さん、大丈夫?」

 尋ねると、答えの代わりか和音さんの手がおれの背中を掴む。でも、大丈夫なのか大丈夫じゃないのかその行動からはおれのコミュニケーション能力の問題から読み取ることは出来ない。だけど、和音さんは大丈夫じゃないと思った。

 時折震える和音さんの肩が、意識的に回された手よりも明確に答えを示している。

「和音さん」

 この前遠野さんがしてくれたように、和音さんの背中に腕を回し、ゆっくりとさする。こうされると安心するから。

「ごめん、静……」

 やっとのことで絞り出したような和音さんの声は、とぎれとぎれで、震えていた。