陽炎
勉強とは違って、人を相手にした時に生まれる選択肢は、選んでみないと正解かどうかわからない。
勉強と同じで傾向から対策を考えることはできるけど、人間ほど曖昧なものはない。
思考という靄は絶えず形を変え、まるで地鏡のように人あるいは自分を惑わす。
おれだってそうだ。朝と今とじゃ全然違う考えを持っている。
たとえば朝通学中にこういう状況に陥ったら、和音さんに迷惑を掛けるかもしれないと怯えていただろう。
抵抗はした。
3人組の目的を知ることがおれの目的だったから、おれをつけた目的さえわかればあとは逃げるだけだった。しかし、3人組がまずしたことはたかりでも脅しでもなくおれを拘束することだった。
まさかひとこともなしにいきなり腹を蹴られるとは思わず、おれはなす術なくすぐに捕まり薄汚い廃倉庫の床に転がされた。
どこからか錆びた鉄の匂いがする。血ではない。
人4人が入って狭く感じるということは8畳もないかもしれない。だけど寄って集って殴るには丁度いい広さだ。
蹴られて拘束されたという状況。にやにやしている男たち。
しかし、あまり危機感は覚えていなかった。痛みさえ我慢できれば自分の体は道具になる。
「お金ならおれ持ってないよ」
凹凸のないコンクリート製の倉庫の中に、おれの声が響く。男たちの下品な笑い声がかぶさり、不快な不協和音が生まれた。
「和音、お前のことすげえ気に入ってるんだって?」
「は?」
一番頭の良さそうなひょろ長い男が爬虫類のような目を細めた。
「俺たち、和音に今辞められちゃ困るんだよ」
「なんで?」
「お前には関係ない」
「おれを捕まえても和音さんやめるよ。これは変わらない」
は、と3人が笑った。
「腑抜けになったって言われてる」
爬虫類ではなく、顔は少しぽっちゃりしている大柄な男がガラガラの声を出した。
「ケンカふっかけられても面倒くさいって言って逃げたり、公園で鳩見て喜んだり、本屋で料理本見たり。そういう時、和音の近くにはずっとお前がいた」
「挙句、遅刻魔だったのに早起きして学校に送迎って、なんかもうホモ? できてんじゃねえのって俺達の間では有名」
爬虫類がぐっとおれに顔を近づけてくる。
細い目、白い肌、狡猾そうに吊り上がった唇。生理的に受け付けない。
「飽きただけだって、ケンカに。和音さんはもともと平和な人だから」
嘘を吐いた。
「まあ、どうでもいいよ。俺達は和音が今辞めなかったらそれで良い」
「いっ」
いきなり前髪を鷲掴みにされ、引っ張りあげられる。禿げたくないのもあり自ら膝立ちになると、今度は床に叩きつけられ踏みつけられた。
「ってえ……」
後ろ手に縛られているから受け身も取れず、衝撃をもろに受けて一瞬目の前がチカチカした。痛みは耐えられないものではない。
どうやらリーダー格らしい爬虫類がおれの前に立って見下ろしてきた。にやにやとした笑みを消し、覚悟を決めたような非情な表情。
「良いか。今から俺達はお前を殴る。蹴る。犯す」
「……は?」
「全部終わったら和音にお前の状況を知らせる。どうせ腑抜けたから辞めるなんて言い出したんだろ。大事にしてる奴がリンチされたりレイプされて、黙っていられねえはずだ」
秋までで良いんだ、と爬虫類が小さく呟いたのを聞く。
秋まで?
そしてリンチはわかるがもうひとつの単語。
(意味わかんねえ……)
足がおれの腹目掛けて振り下ろされる。
途絶える思考。おれは考えるのを放棄して亀のように体を丸め衝撃に備えた。