30メートル
冷静に考えてみた。
勢いじゃなく、低いテンションのまま、冷静におれの気持ちに問いかけるとある答えが見えてくる。
(おれ、やっぱり和音さんのこと好きなのか)
好きなのはあたり前。依存しているのも認める。
でも、それとは別の感情もある。それは恋愛感情。本来は女に抱くあれ。
おれは和音さんから離れたくないが、もしも和音さんに彼女ができて結婚するようなことがあれば、おれは自ら離れるだろう。
和音さんという人間は好きだ。恋愛感情を抜きにしても惚れている。
だけどそれ以上に恋のほうが強いから、和音さんに恋人ができたら耐えられなくなる。
そのあとのことはわからない。
一番は、人知れず死にたいけれど。
でも、こんなことを本気で思っても、おれはきっと世知辛い世の中を憂いながらずっと生きていくんだと思う。一人ぼっちで、死にたいなあと考えながら、死ぬまで生きていくのだ。
今まで、自虐ばかりして来た。
おれなんか、と卑下して自分を偽って、和音さんに嫌われないために何も望まなかった。好きになってもらう努力は何もせず、嫌われないようにばかり考えてきた。
だから和音さんはおれを拒絶して、おれを守ってくれようとしたんだ。
和音さんとおれは近いようでとても遠い。
おれがもっと心のままに和音さんにぶつかって行ってたら、和音さんのあの優しい拒絶はなかったように思う。
距離が遠いから、和音さんはおれが傷つかないようにしてくれる。
距離が近かったら、傷つくかもしれない所におれも連れて行ってくれたはずだ。
おれが傷を負っても乗り越えられると思ってもらえていたのなら、おれと和音さんは今も一緒にいるだろう。
自業自得。
先に距離を置いたのは紛れも無いおれ自身。よそよそしく敬語を使って後ずさり、へらへら笑って場を濁してばかりいた。
『嫌いになった?』
和音さんが電話で最後におれに言った言葉が、水底から浮かび上がるように蘇った。
温度のない声。
きっと、和音さんはひどく暗い表情でこの言葉を口にした。
こんなことを言われて、ばいばい、と電話を切られて、おれはどうしてすぐに掛け直さなかったのだろう。何も言わずにただ謝罪だけをして口を噤んだ。従順を盾にまた逃げたのだ。
うざがられても電話をかけ直して、出てくれないならいるだろう倉庫に走れば良かった。ひとりでいる和音さんのところに行けば良かったんだ。
おれはいつも待ってるだけで、自分から和音さんのために何か行動を起こしたことはない。
本心がわからないなら、聞きに行けばいい。突っぱねられても食い下がらずに、本当に大切なら心の奥に掛かっている鍵を開けようと努力しなければならない。
今思えば、和音さんはおれのために努力してくれた。
おれのことを考えていつも行動してくれた。わかりにくいこともたくさんあったけど、何もしなかったおれとは違う。
おれは和音さんとずっと一緒にいたいがために自分と和音さんの心を殺した。
そう考えたら一刻も早く和音さんに会いに行きたくなった。どうして電話をもらってから1週間も何も考えず生きてこれたのか、一週間の自分を殴りつけたくなった。
悠長に講習を受けている場合ではない。
机に広げている勉強道具を鞄に詰め込んで静かに席を立つ。
「は、早川?」
静かにではあったが急に立ち上がったおれにみんなが注目している。教壇に立つ教師も驚いたようにおれを見た。
「心臓が痛いので帰ります」
「え? だ、大丈夫か。顔、青いけど」
「大丈夫です、すみません」
真剣に言って、教室から出る。心臓が痛いのは本当。原因は病気じゃないけれど。
講習の真っ最中だから廊下に人影はない。通り過ぎる教室からは無音か、扉越しに教師のくぐもった声が聞こえてくるばかり。階段に差し掛かったところでようやく高校生らしい無邪気な声が聞こえてきた。部活に来た下級生たちだろう。
自分の階を過ぎ、ようやく早足で先へと急ぐ。走りながら、少し考えて徒歩で倉庫に向かうことに決めた。
玄関で靴を履き替え、外に飛び出す。朝は晴れていたのに、いつの間にか空は今にも雨が降り出しそうなほど重々しい雲で覆われていた。ひどい湿気だ。天気予報は確か終日曇りだったが、それは嘘になるかもしれない。黒く悲しい雲の下、おれはかつての居場所だった繁華街へと走った。
異変を感じたのは繁華街に至る手前の街。普段の癖で、人通りの少ない道を通ってきたが、どうもずっと後ろから人の気配が抜けない。それは、学校を出て少し経った頃から覚えていたものだ。立ち止まり、振り返る。30メートルほど後ろをガラの悪い高校生くらいの男が3人歩いていた。試しにまた走ってみる。杞憂だったら良いが、おれ自身には価値など無いから、後をつけられるとしたら倉庫がらみに他ならない。
くねくねと住宅街を適当に進んでいき、広い道路に出たところでまた振り返ると、やはり30メートルほど離れたところにさっきの三人組がいた。
どうしようか。
撒くことはできそうだけど、どうしておれをつけているのか知ったほうがいい気もする。適当な高校生をつけて金をたかるのが目的だとしたらそれで良いが、もし倉庫や和音さんの関係でおれの後をつけ、拉致の機会を伺っているのだとしたら撒かないで捕まった方が後々良い。
鞄から遠野さんに買ってもらった電話を取り出して、遠野さんの番号を表示し暗記する。その後電話をリセットした。鳥居の番号は覚えていないが、どうせ夜に掛かってくるだろうし、掛かって来なければまた聞き直せば良い。簡単に考えて、電話を鞄に戻す。
住宅街を抜けると、先に目的地だった繁華街が小さく見えたが、道を逸れ、よくケンカに使われる廃倉庫群へと行き先を変える。
早足で向かい、5分後に到着した。
小さな倉庫が並ぶ倉庫群の中に使われなくなったコンテナが打ち捨てられているこの場所は、不良が溜まりやすく特に夜になると賑わい出す。今の時間はまだ誰もおらず、おれは鞄から電話だけを取り出してポケットへ仕舞い、鞄を入ってすぐの所にあった倉庫へと投げ入れた。
勉強道具とかは一応大事だし、破かれでもしたら困る。参考書は高いのだ。
鞄を置いた倉庫とは別の倉庫の入り口の前に座り、あの3人組が来るのを待つ。全ておれの思い過ごしで、ただ自意識過剰だっただけならそれが一番良い。
しかし、なかなかそう上手くはいかないものだ。
特に、おれは今までも嫌だなあと思った方向に物事が進むことが多い。
でも別に運が悪いとかそういうことを思っているわけではなく、おれの運は和音さんと出会って仲良くなったことに全てを尽くしたのだと思う。
それなのに遠野さんとか鳥居とか、最近勉強に全てを捧げてる春とかとも出会うことが出来て、不運ではなく寧ろ幸運だ。
ふと、視界に無駄に高級そうなスニーカーの先が入った。
見上げると、あの3人組が立っていた。
30メートルは運の良さについて考えられるほどの距離らしい。