さみしい
和音さんからの拒絶を受けても、心は死んだように平穏だった。
今までも和音さん以外で気持ちがあまり動かなかったから、和音さんがいなくなっておれの心は平坦になった。きっと、これがおれにとって普通のこと。
遠野さんのご飯を食べて美味しいとか、湯船に浸かって気持ちいいとか、鳥居と話して楽しいとか、あとに残らない刹那的な感情はちゃんとあるから別に病気というわけでもないと思う。
それに、和音さんは終わるまでと言ったから、終わったらまた会ってくれるだろう。
だけど、そう考えた時、おれの死んだような平穏な心は揺れる。胸のあたりがじりじりと痛み出し、おかしな感じになってしまう。
やはり病気かもしれない。
時間が経つのは早かった。和音さんと和音さんの家で過ごした日々はおれが今まで生きてきたくらい時間が経つのがゆっくり感じられたのに、和音さんと最後に電話で話してからもう1週間が経とうとしている。
『邪魔だから』
和音さんに言われた言葉が音声付きで蘇った。和音さんの真意は、多分悪いものではない。和音さんほどおれのことを考えてくれる人他にはいないから何か理由があって言ったのだと思う。だけど、小さい頃から「いらない」「邪魔」と言われ続けてきたおれにとってそれは悪魔の言葉で、和音さんの真意を測る前に考えることに対して拒否反応が出たのも確かだ。拒否反応が出て、そのことについて考えられないからおれの心は平穏なのだろう。
遠野さんは甘やかすタイプではない。おれに何かあったのは気付いているみたいだけれど、干渉してくるわけではない。
和音さんのことが心配だという気持ちはもちろんある。けど、和音さんが負けてぼろぼろになるとしたらスサノオ以外に考えられない。スサノオに挨拶に行くのはこの街の不良にとって大ニュースだから、おそらくスサノオに行く日程がわかった段階で鳥居の耳にも入るだろう。そうしたら鳥居は教えてくれる。
スサノオに行くとわかったら、おれは多分嫌われるのを覚悟でその場に行く。
遠野さんの家に住み着いて2週間、すっかり馴染んだ通学路を夏休み直前に稼いだ金で買った自転車で走る。遠野さんの家から学校まで自転車で40分とちょっとだけ掛かるが、走っていると無心になれるからこの長さがありがたかった。
学校に着いて早々教室に鳥居が来た。
「静、ちょっと来て!」
「何? でも、もう時間ないよ」
「昨日から電話してんのに全く出ねえお前が悪い」
え? と思って卵を見ると、マナーモードになっていた。
「ごめん、マナーに」
「どうでもいいよ!」
鳥居はそう言って強引におれを引っ張って教室から出た。いつもとは違う鳥居の様子に教室がざわつくが鳥居は全く気づいていないようだった。
もしかして和音さんに何かあったのかもしれないと不安に襲われる。
廊下でおれたちの姿を認めた生徒たちが何事かと怪訝そうな顔でおれたちを目で追っていた。
鳥居は、使われていない中央棟の空き教室に入り、イスに座った。
「早く静も座って」
チャイムが鳴る。
「静最近進藤君と会ってる?」
イスに座って早々鳥居が正面からおれを見据えて聞いてきた。
「1週間声も聞いてない。なんでんなこと聞くの」
「進藤君、今やばいんだって。初め挨拶はジョンソンと俺らんとこ、あとスサノオだけって話だったのに、小さいとこから中くらいのとこまで、全部に狙われてんだよ。で、一週間くらい前から一つ一つ相手してるんだって」
「え……」
「俺も勉強ばっかで桃の電話とかも無視してたんだけど、昨日間違って取っちゃって、久し振りにたまり場行ったんだよ。そこで進藤くんの話聞いて、実際見に行ってみたんだけど、もうぜんぜん違う人だった。なんか、見ててぼうっとした雰囲気のある人だと思ってたけど、今それ一切ないの。ただのイケメン……って、俺の主観はどうでも良いんだけど、どんなに殴られても表情一つ変えずに向かってくるから頭おかしくなったんじゃねえかって言われてる。強さ半端ねえし」
「……和音さんが」
「そうだよ、お前の好きな和音さんが!」
「そうなんだ」
「って、静、なんでそんなに無関心なわけ?」
鳥居が眉間にシワを寄せおれの腕を掴む。
「進藤くんに惚れてんじゃねえのかよ。……嘘だったの?」
躊躇いがちに鳥居が嘘か尋ねた。わずかに傷ついた表情に、前に鳥居が振られたという話をしてくれたことを思い出す。
「惚れてるよ。けど、今和音さんを心配……したり、したら嫌われるから」
「嫌われる?」
「この話したくない」
穏やかだった水面に石を投げ入れられたように心が波打った。和音さんに嫌われたくなくて殺していた感情が息を吹き返す。
あの時の、全く感情が読めない和音さんの声をもう思い出したくない。怖くて、悲しくなるから。
「和音さんは、ちゃんと考えて行動してる。おれは、それを邪魔しちゃいけない。おれがいたら邪魔になるから。邪魔したら嫌われる」
したくないと言いながらも自ら語る自分を滑稽に思った。
「それならなおさら進藤君のこと見に行きなよ。俺も付いてくから」
「……っていうかさ、どうして鳥居そんなに一生懸命なの? おれ、今まで友達ってあんまりいたことないからわかんねえけど、こんなに心配してくれるもんなの?」
そんなつもりなかったのに、ひどく冷めた声だった。
今までの人間不信が凝縮されたような嫌な感じ。
だって、普通だったらこんなのおれを陥れるための罠だ。こういうふうに気にかけてもらえるような人間じゃない。
でも、おれにはきっと罠を掛けられる価値もない。罠に嵌められる人にはそれ相応の価値があるのだ。
(それに、鳥居は良い奴だ……)
罠かもしれないとか、色々と疑おうとしてもどうしてもそんな気になれなかった。
遠野さんだって同じだ。
――おれに良くしてくれるのはもしかしたら和音さんから頼まれたのかもしれないし、本当はいやいややってるのかも。だって遠野さんは和音さんのことが可愛くて仕方ないから。
そう思おうとしたこともあったが、できなかった。遠野さんもおれにとって本当の恩人で、とても良い人。多分裏なんてない。
ふたりともどうしても悪く思えない。
だけど、これを自覚する度和音さんから逃げ出してしまったことが重くのしかかる。ふたりのことは意識して拒絶しようとしてもできないのに、おれがただひとり信じたい和音さんには背を向けることができた。
おれのアイデンティティは和音さんで形成されていたも同然なのに、それが粉々に砕け散ったようだった。
「無理やり化学教えてもらってるからってのもある。俺だって悪いとは思ってんだよ」
不満気に鳥居がそっぽを向く。
「昼休みに勉強するのも放課後図書館行くのも、嫌じゃないから別に良い」
さっき嫌な感じのことを言ってしまったことをなくしたくて、いつもなら言わないことを言ってみるとそっぽを向いていた鳥居がこっちを向いた。少し驚いているようにみえる。
「……和音さんのこと好きなのに、おれは和音さんから逃げたんだよ。だから会えない。和音さんにも全部終わるまで会わないって言われてる」
なぜいきなり鳥居にこんな告白をしたかは自分でもわかりかねている。罪滅ぼしのためか、誰かに吐き出したかったのか。でも、きっとおれは誰かに吐き出したかったんだと思う。
「なんで逃げたの?」
「さみしーから助けて欲しいよーって、情けねえこと言いそうになったからじゃねえの。自分でもわかんねえけど」
「そっか」
「……言いそうになったけど、言えなかったんだよ」
「どういうこと?」
「国語が得意でもわかんない?」
「……文系的な俺個人の考え、言っちゃう?」
「言っちゃって言っちゃってー」
「なに投げ遣りになってんの」
鳥居がからからと笑った。なんとなく鳥居の泣きぼくろを見て、目を伏せる。気分が上がらないと視線も上げられないものなのかな。それとも、明るく振る舞える鳥居に後ろめたさを感じているのだろうか。おれも、前はこんな感じだった。テンションが高くてうざいとかよく言われてた。今はうじうじして、ネガティブで、テンションが低くてうざったい。自分でも思うくらい。
「まあ、なんか難しい考え方の静くんに俺の文系的講義をしてやるか」
「お願い」
「何かをしそうになった時の躊躇っていうのは、無意識下で絶対に後悔したくないって思った時にしてしまうものですね」
「……って言うと?」
「静が進藤くんに惚れてるってこと」
「はあ?」
偉そうに鳥居が言い切った。
「好きな奴に弱いとこを見せたくないのが男だと思う。情けないとこって見せたくないものでしょ。だからためらったんだよ。文系的に考えてないけど」
「そういうもん?」
「そういうもんだよ。俺だって自分より大人で強い奴の事好きだったけど弱みとか見せたくなかったし。俺のことは好きでもなんでもないから弱みとか話せるんだよ」
それはちょっと違う。
「好きだよ。おれ、鳥居のこと」
言うと、鳥居が真顔で止まった。
「う、うっそー」
その後、顔をひくつかせる。鳥居のことを知らない人だったら絶対に嫌われていると勘違いするだろう。
「何、引いてんの」
「まさか。慣れてなくて、んなこと言われんの。……ねえ、まじで言ってる?」
「まじだよ。いいやつじゃん、鳥居」
「……からかってねえ?」
「からかってねえって。何? 好きってあれだよ、なんつうの、その……」
友達として、というのがなんだか恥ずかしく、口ごもる。
「待って、何もいわなくていいから。わかってるから。まあさあ、そういうわけだって。好き……あの、惚れたって意味の好きなやつ相手には弱みとか情けないとこ見せたくないって、俺は思うよ」
だから逃げたんだ。と鳥居は続けた。
好きだから逃げてしまった。本当のところはわからないが、おれは鳥居の言葉を信じることにした。おれは和音さんのことを好きなのは絶対だ。
昔から、唯一変わっていないこと。それは和音さんを好きなこと。
これだけは自信があった。