不協和音
静に殴られる夢を見た。
俺は水たまりに背中から倒れこみ、断罪するように空から落ちてくる雨に体を貫かれた。
秩序のない落下によって生じた雨音が耳を打つ。
身を裂かれるような痛みに目が覚めた。
雨音は聞こえない。
でも、それはそうだ。ここは地下倉庫の中。地上からは離れているし、俺が寝ているのはその中でも奥にある部屋だからたとえ本当に雨が降っていたってここまで音は届かない。
暗闇の中全身汗だくで起き上がり、電話で時刻を確認するとまだ午後9時。子供だって寝ていないような時間にいつから眠っていたのだろうかと疑問に思った。
今日は何をしていたっけ。
日中はろくでもなかった。時間は覚えていないが、倉庫に戻ってから体中痛くて我慢できなくて痛みを忘れたくて睡眠薬を飲んだのは覚えてる。そうだ。なんだかどうでも良くなって普通よりも多く飲んだら、気持ち悪くなったんだった。そこからの記憶がないからすぐに意識がなくなったのだろう。多分それが原因で怪我をしたところだけでなく頭ががんがん痛むし、怠いし、少し気持ち悪い。少しだけ多く飲んだだけなのに、やはり薬は身を滅ぼす道具らしい。
ベッドから手を伸ばし、床に放り投げていた水の入ったペットボトルを取り上げ口に含む。殴られて切れたところに染みたが、冷たい水が体の中に入っていくのは気持ちの良いものだ。
薬が入っているから、横になればまたすぐに眠られるだろう。けれど、今は寝たくなかった。さっき見た夢の続きを見そうで、情けない話怖くて眠りたくない。どんな夢かは忘れたけれど、良い夢じゃなかった。
起きた直後は覚えていたけれど、ちょっと考え事をした途端夢はモヤの中に消えてしまってどんなに探ろうとしても何も出てこない。でも、静が出てきた気はしている。静が出てきたならもう一度寝て続きを見たいと思いそうなものなのに、俺はまだあの日のことを引きずっているのだろうか。
カモメのジョンソンに引退を認めてもらった日。
静が俺に背を向けた日。
本物の静の顔も見ず声すら聞かなくなってどのくらい経つっけ。
曖昧にぼかしたって、本当は答えがわかっていた。最近は毎日カレンダーに気を取られるようになったから。静と一緒に花火を見に行った日の日付が目につくのだ。あの時は本当に幸せだった。いろいろ考えて俺は今毎日のように人を殴っているけれど、この決断が正しかったのかはまだわからない。
何かを考えると後悔ばかりしてしまうから深くは考えないようにしているが、暗闇の中こうしてひとりで膝を抱えている今が幸せになるための正しい道だとは思えなかった。どこもかしこも痛む。打撲の痛みはまだ我慢できるけれど、裂傷の痛みは好きじゃない。
前まではこれほど痛みに弱くなかったと思う。こんな、泣きそうなほど痛いと感じたことなかった。
「痛え……」
言葉にしてみると、さらに痛みが増した気がした。
頭ががんがんする。
痛いのに眠い。
ひとりは寂しい。
静に会いたい。
でも、全部終わる前に静と話すことになったら、俺は静にひどいことを言わなければならない。
だから、静が俺から逃げてくれて良かったのだ。
その時、電話が鳴った。枕元に置いてある電話を手にして一瞬息が止まる。
ディスプレイには静の名前。遠野さんが静に買ってやった電話の番号が表示されていた。
声を聞きたい。
でも――
微妙な気持ちでディスプレイの名前を眺める。俺はこの電話に出るが、今の感情は決して出しちゃいけない。会いたかったとか、声を聞けて嬉しいとか、絶対に言っちゃいけない。今だけ感情を殺せと自分に命令する。この先穏やかな世界で静と一緒にいるためだ。
もしかしたらこの電話で静は俺のことを嫌いになるかもしれないけれど、そうなったらそうなったで仕方がない……。
ずっと会いたくて話したくて仕方なかったのに、嫌だなと思いつつ電話に出る。
通話の操作をする手が少しだけ震えた。
「もしもし」
我ながら冷たい声。
『……和音さん』
緊張したような静の声が電話口から聞こえた。最近静は大好きだと叫んでぶつかってこなくなったが、それでもあまり寂しくはなかった。きっと本当の静はテンションが低くて、ちょっと暗い。無理やり上げて騒いでる姿も好きだったけど、世の中をひどく冷めた目で見つめている静も本当の自分を取り繕っていない感じがして俺は好きだ。
「静、電話持ったの?」
『うん』
「そう」
静は何も言わない。自分からかけてきたくせに、話す言葉を今探しているようだ。けど、その方が都合が良いと、俺から話を切り出した。
「何で掛けてきたの」
よく感情がこもっていないと言われる人間味の無い口調で言うと、静が電話の向こうで息を呑んだ。
切った口の中が痛い。
「まあ、良いや。俺も一つ言いたいことがあったから」
頭が痛い。体も痛いし、顔も痛い。心がどこにあるかはわからないけれど、左の胸辺りがなんだかひどく切なく痛む。
『何……?』
「俺、全部終わるまで静とは会わない。電話もしない。倉庫にも来ないで」
『……どうして』
逃げたくせに、と一瞬だけ思う。倉庫前の階段を駆け上がる静の後ろ姿が浮かんで消える。逃げられてショックだった。思っていることを話してくれなくて残念だった。俺には人から信用される価値がないことを自分でも知っていたけれど、改めて知らされたのだ。誰にも信用されなくてもいいけど、静にだけは信用されたかった。出会ってから今までの自分の態度を棚に上げて、俺は傷ついたのだ。
だけどあの時は何よりも静を追えない自分に腹が立った。
「静が邪魔だから」
大事で、好きだと思っているなら、動かない足も動くと思ったのに。それなのに俺は静が遠ざかっていくのをただ見ているだけしか出来なかったのだ。足が動かなかった。立ち上がることさえできなかった。
「あれから俺考えたんだけど、はっきり言うけど、この前みたいのは困る。挨拶回りはひとりって決まってるのに。折角勝ったって全部台無しになったらどうすんの」
『……ごめんなさい』
「嫌いになった? それでも仕方ないけど。それじゃあね、ばいばい」
一息に言って、電話を切る。
「クソ」
自分のせいなのに、やり場のない怒りを覚え、正面の壁に向かって思い切り電話を投げた。ひどい音とともに電話が床に落ちる。壊れただろうなと他人ごとのように思い、横になって薄い布団を被った。
静に会いたい。
声を聞きたい。
緊張したような声じゃなく、ショックを受けたような震える声でもなく、テンションが高くても良い、暗いトーンでもいい。また和音さん大好きと言って欲しい。
だけど今はそんなこと望めない。
さっさと全部終わらせよう。引退をしなければいけなくなったのは自分のせい。
倉庫に人を集めたのは、静が騒がしいのが好きだと思ったから。
そんな理由のためだけにみんなを集めてしまった。碌に管理もしないでただみんなの好意だけを受けてここまでやってきた。
だからせめて最後くらいはひとりで倉庫のために戦わないと。
静のために集めた倉庫の奴らを守るために、静に嫌われたらとんだ笑い者だけど、バカな俺には他にどうすれば良いのかわからない。
「寝よ……」
痛みは消えない。
だるさだけでも軽減させようと、まだ9時そこそこだけど眠ることにした。明日も暴力が待っている。
不安は常に恨み深い悪霊のように俺につきまとっている。今はその不安が杞憂であることを祈るしかない。
俺はいつも間違えるから。