早寝記録

素直な気持ち

 鳥居を家の前まで送り、遠野さんと遠野さんの家へと向かう。

 遠野さんはTシャツにジーンズというごく普通の格好で、ごく普通に迎えに来て、自然に鳥居に話し掛け、自然におれを車に乗せて走っていた。

 和音さんがどれほど可愛いのだろうか。
 和音さんが可愛いから、友達のおれにこんな親みたいなことまでしてくれるのだ。

「和音さんと、会いました?」

 思わず尋ねる。昨日から和音さんに会っていないから寂しかった。3週間ずっと和音さんといて、少し離れただけでも不安が募る。母親を求める赤ちゃんみたいにおれは和音さんを求めていた。

「会ってない。電話で、しばらく倉庫に泊まると連絡があった」
「……そうですか」

 半ば予想していたことだったが、どうしても気分が落ち込んだ。やはりあの怪我だし、和音さんは全部終わらせるまで帰らないつもりだ。説得できればいいのだけど、おれにはもうそんな資格はないだろう。だって、和音さんから逃げ出してしまったのだから。

「敬語じゃなくていい。なんか、むず痒い」
「……うん」
「素直だな」
「普通」
「和音くんから聞いてた話と随分違う」
「え?」

 助手席から運転している遠野さんを見ると、遠野さんもおれを見た。そして、口の端を吊り上げてにやりと笑う。

「無理やりテンション上げて、楽しくもないのにずっと笑ってる。俺にはできないから、頭のなか覗いてみたい」
「それ、和音さんが?」
「ああ。前に綾音に酔わされた時に言ってた。未成年が酔っ払うまで飲むなとしこたま怒りはしたが、和音くんから何かを聞きたす時は酒を使え。口が軽くなる」
「……酒癖悪いんだ」
「飲んだことねえのか?」

 遠野さんが不思議そうに尋ねてきた。

「酒は飲んだことない。脳みそ死ぬと思って。倉庫に誰か酒持ってきた時は、外に出てた」
「殴られた方が脳細胞死ぬんじゃねえの」
「……そうだけど、なんかやめられなかった。和音さんとふたりで大人数に向かってくのも、倉庫のやつらと他のところに殴りこみに行くのも、なんかよくわからない高揚感があって好きだったから」
「わからないでもない」
「遠野さんってすごい強いでしょ」
「弱かったら死んでるな」
「ヤクザ?」

 問うと、不意をつかれたようにきょとんとしたあと遠野さんが破顔する。目が糸のように細くなる、優しさを覚える表情だ。

「ヤクザじゃねえよ。関わりあうことも多いし、そっちに敵も多いけどな」
「じゃあ、なんなの? ……答えなくてもかまわないけど」
「別に、聞いても良いよ。まあ、なんなのかって聞かれて答えられる名前もねえんだけど。警察の手先みたいなもんかな」
「警察の手先……」
「それも、暇つぶしだけどな。友達に頼まれてやってるだけで、小遣い稼ぎにしかならねえ」

 じゃあ、どうしてあんなに金持ちなんだろう。
 質問が続いてしまったし、あまりにも不躾な質問に思え、そう、とだけ言って口を噤む。こういう時、教えてくれてありがとうとか、お礼は言うべきなのだろうか。

「遠慮しないで聞いて良い。和音くんたちが思ってるほど金持ってねえよ。代々の土地があって、そこ貸してるから入ってくるだけで、和音くんたちが思ってるようなもんじゃない」

 遠野さんはおれの心が読めるのだろうか。内心思っていた疑問を全て答えてくれる。すごい。

「心のなか読んでるとか、んなことできねえから」

 また遠野さんがおれの心を読む。

「いちいち驚いた顔してんじゃねえよ」
「おれ、そんな顔」
「してた。すっげーしてたよ」

 遠野さんが笑う。いたたまれなくなり、窓の外に目を移した。車は、郊外へと抜けたところだった。もう少しで、遠野さんの住む高級住宅街へと入るはずだ。

 おれは和音さんの家の場所同様、今日行けば遠野さんの家の位置も覚えてしまうだろう。だけど、おれにはちゃんとした居場所がない。「自分の家」だと胸を張って言える場所はまだどこにもない。
 今までを考えても、親戚の家を転々と渡り歩いてきたが家だと思える場所は一つもなかった。母親と住んでいた時は、きっと家だと思っていただろうけれど随分と昔のことだし物心も付かない内に捨てられたから覚えていない。親戚たちはあの女におれが似ていると言って嫌な顔をするからこんな顔をしているのだとは思うが、もう覚えていなかった。見捨てられはしたが、会ってみたい気がする。もしかしたら許してくれるかも、という淡い期待をおれは持っているのかもしれない。生きているのか死んでいるのかもわからないのだけれど。

「静、覚えたか?」

 遠野さんの言葉にはっとした。どうやら、また考え込んでいたらしい。景色に意識をやると、もう遠野さんのマンションに着いていた。

「……多分、わかった、気が、する」
「なんだよ、それ」
「なんか、ぼうっとしてた」
「だろうな」

 降りるぞ、と遠野さんに促され車から降りた。駐車場からマンションまでの距離も無駄に長く、駐車場を見ると高級車ばかりずらりと並んでいる。チープな錆びついた車は一台もなかった。

 駐車場から、素敵な街灯に囲まれた石畳のこれまた素敵な道を遠野さんと並んで玄関へと向かう。やはり、おれは場違いな気がしている。制服を着ているし、下品な赤髪からも卒業したけれど育ちの悪さというものはおそらくにじみ出てしまう。

 ここでは他の人に会いたくない。遠野さんが、変なガキを連れてると思われてしまうから。そう思った矢先、マンションの方から愉しげな声が聞こえ足元に落としていた目線を上げると金を持っていそうな親子が歩いてきており、無意識に遠野さんの後ろへと隠れた。

「どうした、静?」
「話し掛けないで」

 小さな声で言う。

 親子とすれ違ったが、おれと彼らの目が合うことはなかった。

「知ってるのか?」

 親子が駐車場に消え、おれたちが玄関に入った時、遠野さんが不思議そうに尋ねてきた。

「知らないよ」
「隠れたじゃねえか」
「変な奴連れてるって思われるから」
「変な奴?」
「おれ、ああいう人たちからよく警戒されるから。物盗るんじゃねえかって」
「へえ」

 遠野さんの声のトーンが下がる。

「別に、自虐してるわけじゃなくて、ほんとのこと言っただけ。ここ、いい家庭じゃないと住めないっぽいし、おれ見た人きっとおれのこと嫌だって思うから、なんか」

 言いながら、これじゃただの自虐だと思った。こんなことを言われたら否定するか慰めるしかない。でも、もう口に出してしまったし、遠野さんに聞かせてしまったから、撤回することは出来ない。

「ごめんなさい」

 だから謝ると、遠野さんが顔を顰めた。
 また人に嫌な思いをさせてしまった。こうしちゃいけないと思うことをおれはいつもやり、後悔してしまう。
 みんな、おれなんて見捨ててしまえばいいのに。いっそ見捨てられてまた独りになった方がおれも楽かもしれない。
 再び最低なことを考えてしまい、また後悔する。

「これからお上品になれば良いだろ」

 俯いたおれに優しい言葉を掛けて、遠野さんがおれの腕を引っ張って行く。

「別に俺はお前を連れて近所に挨拶回りしたって良いんだ。菓子折りでも持って」

 なんで、おれの周りの人はみんな優しいんだろう。和音さんも遠野さんも、それから鳥居もおれにとって都合の良すぎることばっかり言ってくれるししてくれる。
 そしておれは、その優しさをどうしてそのまま受け取れないのだろう。

 春から変われたと思っていた。
 倉庫にピアノがやって来た日から、おれは変われたと思っていたのにそんなことは全くない。自分の気持ちを見ないで、嘘で自分を塗り固めて生きていたあの頃のほうが、どこまでも後ろ向きでうじうじうざったい今よりももしかしたら良かったかもしれない。

 2階なのに、遠野さんはエレベータに乗った。すぐに2階に着く。
 マンションというよりも高級なホテルの廊下みたいな造りで、淡い橙の光がフロア内を包んでいる。遠野さんの部屋はエレベーターを降りて右側の一番奥にある。ドアに付いているセンサーに遠野さんが手をかざすと、鍵の開く音がした。

「手、怪我したらどうすんの?」
「鍵もあるんだよ、普通に」
「そうなんだ」

 遠野さんがおれを部屋の中に押し込み、自分も入る。ドアを閉めると、勝手に鍵が掛かり、玄関と廊下に灯りが点く。昨日は気が付かなかったが、いちいちすごい。遠野さんが靴を脱ぎ、傘立ての隣にある小さめのダンボールくらいの大きさをした木製の箱に靴を投げ入れると、電子音がして靴が底に消えた。

「お前も入れろ。消毒消臭して横にある靴箱に出てくるから」
「すごい……」
「楽な生活には金をかけるんだ、俺は」

 遠野さんに倣い、おれも箱に靴を入れる。心なしか、靴が底に消えた後遠野さんのよりも大きな電子音が聞こえている。汚れているのだろうか。そりゃそうか。

「模様替えしたんだ」

 遠野さんはそう言うと、またおれを引っ張る。そして、玄関の正面にある部屋のドアを開けた。入ったことのない部屋。昨日入ったのはその隣のリビングと、リビングから行ける寝室。
 ドアの向こうには、部屋があった。あたり前だけどおれはその光景に言葉を失った。

「物置にしてたけど、片付けてみた」

 遠野さんが言う。部屋の中には遠野さんに似合わないシングルベッドと、勉強机が置かれていた。それしかないけれど、一目見ておれのために用意してくれた部屋だということがわかった。

「貯金も溜まってきたし、安いベッドと机買ってきたんだよ」

 ぽん、と頭を叩かれた。
 もちろん、おれなんかのためにこんな……という気持ちがある。どうしてここまでしてくれるんだろうという疑問もある。同情されてるのかな、という失礼な考えもある。
 だけど、一番大きな気持ちは嬉しい、という素直な感情だった。

「いらねえとか言うなよ。折角買ったんだ。頼んでねえ、とか可愛くねえ事言うなよ。殴っちまう」
「おれ、ここにいて良いの?」
「良くなきゃ買わねえよ」

 がしがしと頭をかき混ぜられる。

「同情?」
「どうだろうな。でも、気に入ったんだよ。偉そうな姉3人に囲まれて育ったから、今にも折れそうな弟が欲しかったところだったんだ」
「何それ……」
「気に入ったんだ。これだけじゃダメか?」
「……ダメじゃない。おれも、遠野さんのこと、父親がいたらこんな感じかなって、思ってた」
「おい、それはやめろ」

 強く叩かれた。脳細胞がいくらか死ぬ。

「同情とか裏があるとかなんか変だとか思ったら掛かって来ていい。あと、金の心配もしなくていい。ひとりや2人増えても全く困らない」
「すごいね。おれ、ひとりでも精一杯なのに」
「ガキと一緒にすんなよ」

 遠野さんは、おれに荷物を置くように言って部屋から出て行った。
 いろんな複雑な思いや疑問はある。甘えちゃいけないという考えもある。あつかましいし、都合が良すぎるって。

 だけど、初めてなのだ。こうやって、自分の部屋が与えられたのは。

 おれは、このまま遠野さんに甘えてしまうだろうな、ということを自覚していた。