早寝記録

幸福論「ぬるま湯」

 物騒な言葉を放ち立ち上がった和音さんを引き止めて、二人で倉庫の壁に背中を預けて座る。
 和音さんはおれの隣で膝に顔をうずめて一人の世界に入ってしまった。
 雨脚は段々と弱まってきたようで、ともすれば恐怖を駆り立てるような脅迫じみた雨音は聞こえなくなっていた。

(止んだら外に出ようって言おう)

 ポケットから卵を取り出して起動する。着信が一件。和音さんと遠野さんの番号ではないから多分鳥居だろう。後からかけ直そうかとも思ったが、おれが和音さんに会おうと思ったきっかけはあいつだ。それに、朝鳥居と話したあとでなんの知らせもなしに学校を出てきたからもしかしたら心配してくれているかもしれない。

 電話を操作し、鳥居を呼び出す。ちらりと和音さんが隙間からおれを見たのがわかる。

『静! 静!?』
「そうだけど……」

 ワンコール目で出た鳥居はなぜかというかやはりというかひどく慌てていた。

『進藤君が、怪我してんのに急に倉庫飛び出したって話聞いて、俺、なんかあったんじゃって、それで、今お前のヤクザを探しにいこうと、で、GPS機能でっ』
「大丈夫だよ。大丈夫。大丈夫じゃなかったら電話なんて掛けれねーじゃん」
『……そ、そっか。そうだよね。……静、進藤君と一緒?』
「そう。なんか捕まったけど和音さん来てくれた」
『そっかあ。良かったー』

 和音さんがにょきっと顔を上げ、珍しそうにおれを見ている。
 目やその縁が赤く、本気で泣いていたことがわかる。もしおれがモラルと節度のないそこらへんの不良だったら、迷わず襲いかかって物陰に引きずり込もうとするだろう。いや、ここはある意味物陰に近いから引きずり込まなくていいのか。和音さんはもう引きずり込まれている。

「じゃあね、また明日」

 そんなことを考えながら電話を切ると、和音さんの視線が卵に移った。

「友達?」
「うん。鬼が島のやつ」
「この前、校門のとこで会った」
「そうそう。心配性らしく、なんか和音さんのことも心配してた」
「俺のこと?」

 和音さんが怪訝そうに眉を顰める。

「そう。頭おかしくなったんじゃないかって。来る者拒まずでぶっ飛ばしてるから」
「頭はおかしいと思うけど」
「なんで、夏の引退にこだわるの?」
 
 聞いてもいいかと付け足せば、和音さんが小さく首肯する。

「静が家に来てから、街中で絡まれてもうざいっつって相手にしなかった。ひとりの時でも面倒くさくて、回避してた」
「そうだね。楽しかった」
「小さいとことか中くらいのとこが結託して、秋に俺達のところを潰す計画を立ててる。俺が腑抜けてるからぶっつぶせると思われてるんだ」
「……え?」
「代わり映えのない日常に嫌気がさしてるやつらがいるんだよ。天下統一じゃないけど、そういうのをしたいバカがいるんだ。だけど、そのバカたちにとって大事なのは俺がいるチーム。俺がいなくなった後の新しいのをぶっ潰したって、狡い奴らって思われるだけで得はなくなる。ナオとか今のみんなだったら、何ヶ月か時間があればまとまって強くなるし、それを考えたら抜けるのは今しかない。それに、挨拶回りをしてる最中は俺に手を出せてもチームには手を出せないし。狡いこと、桃原も要も嫌いだし、何より俺がスサノオに行かないうちにチームに手を出したら、獲物を横取りされたって間宮がキレる」

 膝を抱えて和音さんが言う。

「考えるの苦手だから余程静のあたま借りようかと思ったけど、俺なりに考えたらこうなった」
「……瑞樹とかには何も相談しなかったの?」
「止められるのわかってたから。それに、今の建前」
「建前?」
「うん」

 和音さんがちらちらと横目でおれを窺ってくる。そして、再び膝に顔を埋める。

「もう、ケンカに気持ちが向かない。静と一緒の、ぬるま湯みたいな生活が、楽しい」

 そして、おれにとって衝撃的な発言をした。
 ケンカに気持ちが向かない? 和音さんが?
 それでもって――

「先なんてわからないから、今辞めようって思った」
「先……」
「生きてると、いつ死ぬかわからない。もしかしたら明日死ぬかもしれない。だから一日でも早く引退しようって思った。一日でも長く静とぬるま湯の生活をしたいから」
「できるかなあ」

 和音さんの考えが嬉しくて、そして少しおかしくて笑いながら言うと、和音さんが不満気な顔になった。

「だって、和音さんが引退したって絡まれそうだし、それに引退したら、女がすっげー寄って来そうだよ。不良って少し怖がられてる今でさえすごいのに」
「女はいらないって言う」
「そうしたら男が寄って来るよ。本当、和音さんはなんでか人を惹きつけるから。まるでホイホイ」
「ホイホイ……」

 へへ、と笑う。ホイホイ、とまた言って和音さんが黙った。綺麗な顔。女には見えないけれど、和音さんはよく「綺麗」と形容される。そもそも、和音さんを男とか女とか性別なんかで区切るのが間違いなのだ。和音さんに言い寄る男だってほとんどがノンケだし、性別なんてものは和音さんの前では意味を成さないただの記号。本人は本当に迷惑そうだから、多分顔が良いことによる恩恵なんて受けていないのだろうけど。

「男もいらないっていうよ」

 おれが冗談のように言ったことに対して、和音さんは申し訳ないほど真剣な面差しで答えた。
 雨の音はしない。いつのまにか止んだのか、今は夕方と夜との境目のような静けさの中に、屋根などから雨粒が落ちて跳ね返る音しか聞こえない。慣れたはずの錆びた匂いがどこからかしてくる。

「俺、静しか欲しくない」

 息が止まった。和音さんの真っ直ぐな視線に射抜かれて死んでしまいそうだ。だけど、和音さんは思っていたよりもずっとずっと天然だった。これも、純粋な友達に対しての言葉かもしれない。

「それ、告白みたいに聞こえる」

 そう思って言ってみると、和音さんの眉が寄った。

「そうだよ。好きって意味。何、他にどういうふうに聞こえんの?」

 少し苛立ったように和音さんが言う。

「……き、聞こえないけど」
「だったら、聞くな」

 そう言って和音さんはふいと顔を逸らした。そして、また顔を膝に埋める。
 好き。

(好き)

 好き。すき。スキ。

「好き?」
「好きだよ……」

 無意識に出た声に、返事が来る。おれはさっきの和音さんから放たれた視線によってその生涯を終えたのか、何も考えられなくなっていた。

 まあ、でも、そうか。
 「好き」は好きか。そうか。

「和音さん、おれのこと好きなのか」
「だから、そう言ってる」

 和音さんが勢い良く顔を上げ、そのまま止まった。

「何?」
「静、顔、変」
「変? そう?」
「うん。おたふくみたいになってるよ」
「そう」

 思わずにやけてしまっていたらしく、その顔があまりにも変なのか和音さんもようやく笑ってくれた。
 だけど、自分を覆っている自己否定の殻から少し抜けだして思い返してみると、和音さんは誰よりもおれを大切にしてくれた。おれがよそよそしくなった時も、また馴れ馴れしくなってからも、ずっとまっすぐ見ていてくれた。
 ずっとおれを守ってきてくれた自己否定の殻が壊れていくようだった。

「和音さんって、おれのことすごい好きなんだ」

 隣に座っている和音さんの服を掴み、身を寄せると、やわらかな手つきで抱き寄せられた。

 そうだよ、と丁寧に返してくれる和音さんのことがおれは好きだ。