下水
終身刑の島がある。
各国から集まってくる囚人たちは、年を取ったらそれぞれの国に戻されるらしい。みんな早くに死ぬから自国に戻った人の話を聞いたことはないけれど。
死ぬまでは生きようと反抗も何もせず自分の身だけを気にかけながら過ごしてきて三ヶ月。外の世界の数十倍数百倍時が経つのが遅く感じられる。人間危機的な状況に置かれるといつまでも時間が経たないように感じると聞いたことがあったが、まさにそれを痛感していた。
死の匂いは錆びた鉄の匂いだ。
入所した日から俺には下水掃除の労働が与えられている。下水と言ってもそう呼ばれているだけで、俺たちが水を綺麗にしているわけではない。この島にいる囚人に課される労働は達成感から遠く離れたところになければならないのだ。
大きな火鋏や熊手を持って下水ぎりぎりに寄り、流れてくる様々なゴミを眺める。
先のない塀の中では暴力が蔓延している。ヘドロやゴミに紛れて死体が流れてくることもあった。初めの頃は流れてくる死体を見て吐きそうになっていたが、今はもう慣れたものでヘドロにまみれたほかのゴミ同様処分できる。
今日もまた死体が流れてくる。俺は長い棒を使ってそれを水際まで引き寄せ、臭いに顔を歪ませながら抱え上げた。有害な何かを遮断するためのマスクや作業着は与えられているが、臭いがマスクの隙間から入ってきているのか、水が澱みきった下水特有の臭いをむんむんと感じる。
死体を引き上げた俺は、遠くにいる仲間にそれを知らせるため大きく腕を振った。
逃げ場がないこの地下道には基本的に見張りの看守がつかず、たまに俺たちの働きを見るための監視カメラが作動しているだけだが、澱みきった下水道で息を大きく吸い込んで叫ぶのは馬鹿げている。俺の合図で仲間が一人駆けつけた。
「一体か。どこのやつ?」
この男とはここに入ってから仲良くなった。こんな場所で誰かと仲良くなることなんてないと思っていたから素直に嬉しい。
彼は名をイヴァンと言う。同室者で、そっけない看守から国籍と一緒に紹介された。イヴァンなんてロシア人かと思った、が俺の第一声だったと思う。
言ってから過ちに気が付いた。このご時世で国籍の話、それも間違いなんて殺されても文句は言えない。しかし彼は俺の焦りとは裏腹に、腹を立てても尾を引くことはなく、一分後には機嫌も直っていた。
「多分東。中華圏じゃないかな」
俺がそう言うと彼は懐疑的な顔でお前と一緒に見える、と言った。お前とは俺のことで、肌の色とか髪の色とか薄い顔の作りとかでそう思ったのだろうが、俺にしてみれば不服以外の何ものでもない。それが態度に出たのか、彼は呆れたように小さく笑った。
「なんか売れそうなもの持ってるか?」
「さあね。引き上げてすぐ呼んだからまだ何も確認してない」
足元に転がる死体を眺める。人だと判別できる上に顔もわかるから死にたてだろう。仰向けになり何も見えない目で天井の一点を凝視しているそいつを蹴って反転させる。水を含んだ服はかなりの重量感がある。ぐちゃりと不快な音を立ててそれは転がった。
イヴァンが俺と同じように死んでるそいつの体を踏んでいく。何か持っていないか探るためだ。彼らはよく俺たちにとっていいものを持っている。彼の足が何かを探し当てたらしく目が輝いた。
「何?」
イヴァンが腰を落としてそいつの尻ポケットに手を突っ込んだ。幸いにも流されている間にポケットから出ることはなかったようだ。
「いいねえ。ほら」
イヴァンが俺の目の前に白くさらさらした粉の入った小瓶を見せてきた。中々の量。これならば高く捌ける。
彼は満足気な様子で作業着の前ポケットへとそれをしまい、また後でと手を振ってさっきまで作業していた場所に戻っていった。
俺は、俺たちに幸運をもたらした彼がちゃんと逝けるように死体専用の箱まで引き摺っていった。乾いた地面が彼が尻で歩いて行く道に沿って濡れていく。箱に詰められた彼はしっかりと似非僧侶によって供養される。似非僧侶も囚人だが、人種の坩堝であるここではいろいろな宗教の者がいるからきっとそれぞれにあった場所へといけるだろう。誰が何を信仰しているかはおかまいなく、見た目と雰囲気だけで弔われるから微妙なところだが。けれどそこらへんに投げ捨てられて朽ちるのを待つよりは余程いい。多分。俺は嫌だけど。
その日もくたくたになって房に戻った。まるで意味のない労働を延々とし続ける毎日は地獄だが、そういえば俺たちは罪を償うために来たのだ。地獄が正解だ。
「死んだらどこにいくのかな」
なんとなくイヴァンに尋ねてみる。彼は奥にあるおざなりなシャワーで体を洗っていた。
「知らねえよ」
ひとことでそっけなく返される。知らないのか。そうか。まあ、知らんよな。俺だってそうだけど彼だって死んだことがないのだから。
「誰にあれ売るの?」
また尋ねてみた。
「シャオ」
またひとことで返される。シャオか。そうか。まあ、聞かなくてもわかっていたけど。
今度は何を尋ねようかと考えていると早々と体を洗って戻って来たイヴァンに肩を掴まれた。
見上げると裸電球の下で髪から水滴を滴らせたイヴァンが眉根を寄せて俺を見下ろしている。
「何?」
いつもと違う様子に少し心細さを感じた。
「なんでクゼは質問ばっかりすんの」
「うざい? それならやめるけど」
平静を装い答えた。質問ばかりする理由はわかっている。イヴァンが答えてくれるのが嬉しいから。安心するから。だからうざいだろうな、ダメだろうなと思っていても質問が浮かぶ限りし続けてしまう。
こんなことをしていたらいずれ早い段階でイヴァンが俺に愛想を尽かすのはわかっている。それは嫌だしやめようと思うがやめられない。沈黙のままでいると、彼に話しかけたら、何かを尋ねたら答えを返してくれるのか気になって仕方がなくなるのだ。頭の中がそんな考えでいっぱいになって不安が育ち、その不安は俺を蝕んであの汚い下水の中に身を投げてしまいたくなる。
「うざくねえけど、なんか気になるんだよ。理由あるなら教えて」
「別にない」
「俺、どんな理由でも別になんとも思わないけど嘘吐いたら嫌いになる」
「嫌いにならないでよ」
反射的に言ってしまった俺を見てイヴァンがふと笑った。こんなに穏やかな顔で笑えるのならイヴァンはきっと冤罪だ。こんな優しい犯罪者は彼しか知らない。それどころかこんな優しい人間は彼しか知らない。情というものを俺は伝説上の何かだと思っていた。
「質問したら答えてくれることが嬉しいから聞くんだよ。話しかけても……無視しないから」
素直に言った。俺は素直だから。
昔から人が好きで、好かれたかったけれど決して好かれることはなかった。だから俺に律儀に返事をしてくれるイヴァンのことが好きでたまらない。彼は俺を無視しないし殴らないし暗いところに押し込めたりもしないし乱暴しないし踏み潰さないし唾を吐き捨てないし目を見てくれる。
それが嬉しい。
「そうか」
イヴァンはまたひとことで返してきたが、さっき小瓶を見つけた時よりも満足そうな表情に見えた。
繰り返すが、俺はこんなに優しい人間は彼しか知らない。
周りの囚人たちは彼が俺を利用しているのだと声を揃えて言うが、もしそうだったとしても俺にこんな幸せをもたらしているのだから、俺は全然不幸じゃないと思った。
――イヴァンの同室者はよく変わるんだ。飽きた頃に殺すから。
こう言ったやつがいた。何人も何人も。看守もこう言って俺を嘲笑った。
飽きたら俺を殺すのか。
聞いてみたい気がした。今ならば聞いたら答えてくれる気もした。口を開きかけて音を発さないまま閉じた。
俺は聞かない。これは最後の質問にとっておこう。