逆
流れてくる、と思った。
手繰り寄せるには距離がありすぎる。もう少し歩けば向こう端まで続く橋が架けられているがそこまでして掬い上げたくない。
今日は全くやる気が起きない。全身重たくて仕方がない。鉛を体に塗りたくっているようだ。たまに覗かれる監視カメラに写ったとしたら懲罰ものだが、まあいいか。俺は諦めて下水に足を投げ出すようにして端に腰掛けた。火鋏を傍らに置く。
「サボり? 珍しいな」
イヴァンの声がすぐ傍で聞こえた。
「あんたも、持ち場についてないと。ほら、あそこ。一体流れてきそうだよ」
俺が流れてくるものを指差すが、イヴァンはいいんだ、とどこか嘲るような口調で言った。あれが誰か知っているような口ぶりに俺も目を凝らすが、人種すらわからない。
「死体にはがめついのに、いいんだ」
「ああ。今日はもう疲れたから、わざわざ橋まで行きたくねえの」
そう言ってイヴァンは俺の隣に腰掛けた。投げ出した足の長さが違う。
「そういえば、いくつなの? 年齢」
尋ねてみる。
「二十歳」
答えが返って来る。
「もっと行ってるかと思った」
正直に感想を言う。
「そう?」
「大人っぽいから」
「クゼは?」
「一緒」
俺の答えに、イヴァンの目が取れそうなほど見開かれた。目玉の由来がわかった。確かに目は球体だ。
「意外?」
「十四、五だと思ってた」
「それはなくねえ?」
「ああ、ごめん」
言うほど気にはならないが、素直に謝られると少し惨めさを感じる。昔は歳相応に見られたが、やはり国が違うと見え方はぜんぜん違うのだろう。
だけど、出身地――日本にいたのはそれほど長くない。確か十二歳の頃売られて海を渡り、それから日本に戻っていない。
「何考えてんの?」
イヴァンが俺の顔を覗き込んでくる。
「昔のこと」
「昔?」
「ここに来る前のこと」
「気になる。俺、なんでお前が終身刑になったか気になってたから」
イヴァンの言葉に俺は少しだけ嬉しさを感じた。興味を持ってくれていたことが嬉しかった。しかしそれは顔に出さずに答える。
「人を殺したから」
そう思っても、やはりちょっと嬉しそうな声になってしまった。
「殺したの? 何人?」
「数えたことない」
「ふうん」
会話が途絶えた。
数はたぶん思い出せないが、その時のことを思い出して言ってみてもいい気がした。少し考えて面倒くさいからやめる。この体の重さの原因を思い出すことになりそうだから。
この島にいる日本人の数は他の国に比べて少なく、はっきりとしたグループもないため襲われる対象になりやすい。終身刑で入ってくる日本人に線の細い少年が多いのも原因の一つかもしれない。大人しそうなやつに限って口には出せないようなことを臆面もなくやるのだ。その結果こんな世界の果ての地獄で女役に回るはめになるが、きっと因果応報だ。
良いことをしても返って来ないが、悪いことをしたら返って来る。俺をいたぶったやつらだって最終的に真っ二つになったしこれは本当だと思えた。ただ、この体の重さをもたらした線目の醜男を真っ二つにできないのが残念で仕方ない。
俺は自分に優しくしてくれるイヴァンが冤罪でここに来たと思っているから、どうして彼がここに来たのか教えて欲しいと思ったが、とうとう聞けなかった。
「流れていくな」
イヴァンが無感情に口にする。水とヘドロの流れに乗って誰かが流れていく。真下を行く彼の顔にはヘドロの他に血がこびりついているようだった。かなり破損が激しそうだから引っ張り上げなくて良かった。気持ち悪いからなるべく流れてく彼を見ないように、イヴァンに顔を向けた。
彼は流れてく男を黙って見つめている。こんな至近距離で俺が見ているというのに彼は俺が見ていることにも気づかず死体に釘付けになっている。
一瞬、イヴァンの口元に笑みが浮かんだ。ひどく酷薄な笑みに見えた。見てはいけないものを見てしまった気がして、少しだけ大きく動く鼓動を落ち着かせようと俺も流れていく彼を見た。幸いなことにもう顔は見えなかった。
その晩久しぶりに昔の夢を見た。
懐かしき薄汚れたスラム街でぼろぼろの日本刀を拾った時の夢。あいつが俺を導いた。あいつのお陰で俺はここにいる。錆びているように見えるのに切れ味は申し分なく、ひどく手にしっくりと馴染んだのを覚えている。ここに刀があったらいいと思うことも多くあるが、一人でも生き延びられるならイヴァンと仲良くなれなかったように思う。
日々俺のケツを狙う馬鹿者たちに一矢報いたいが、今はできなくてもまあいい。
けたたましい音で鳴り響くベルの音で起床した。イヴァンはすでに起きていて、洗面台で顔を洗っていた。勢いなく流れる水の情けない音が耳に届く。
むくりと起き上がると、水に濡れたままでイヴァンがこっちに向かってきた。
「おはよう」
やけに機嫌の良い様子でイヴァンが笑う。
「何。なんかいいことでもあった?」
とは言っても、昨日はいつもの一日だった。俺にとっては体が重いというありがたくない効果が追加となっていたが。
労働から帰ってきたあとも寝るまで一緒だったから良いことなんて起こりそうもないのに。イヴァンに関して知らない事だらけだからわからないが。彼のことを知ろうとすればもっと知ることはできるだろう。俺は恐れているのだ。きっと、イヴァンなら聞いたら答えてくれる。
答えてないにしろ、答えない理由を教えてくれるだろう。イヴァンはいいやつだから。だからこそ俺は何も聞けない。
昨日だってどうしてここに来たのか、終身刑になんかなったのか聞けるチャンスがあった。しかし聞けなかった。冤罪にしてもそうでないにしても、ここに来る前の大切な人の話に発展したらと思うと途端に口が重くなる。昨日の体の重さ以上で、下水のヘドロを全部集めても足らない。
孤独な俺には彼しかいないから、大事な人がいたら寂しいじゃないか。いるだろう。きっといる。恋人だって友人だって、もしかしたら親だっているかもしれない。
死ぬまでは生きようと反抗も何もせず自分の身だけを気にかけながら過ごしてきて三ヶ月。イヴァンが俺のすべてになって一ヶ月。俺が彼に執着しているのと反対に、イヴァンは俺がいなくても変わりなく生活していける。たとえ俺が下水を流れたって変わらず、彼の人生はここでずっと続いていく。
「別に、良いことなんてねえけど。クゼは落ち込んでんの?」
「一昨日へたくそなやつにつっこまれてケツがいてえの」
本当のことは言えずに嘘を吐く。イヴァンが、興味なさげに「ああ」と言った。
「あいつなら死んだよ。みんな話してた」
そう言って笑うイヴァンの笑みに見覚えがあった。一見すると普通に見えるが、ぞっとするような嗜虐的な表情。
「今日あたり流れてくるかな」
イヴァンは「さあな」と笑って首を傾げたが、彼が流れて来ないことを、俺は知っていた。
下水道の先は、どこに繋がっているのだろうか。