暴発
下水に見知らぬやつがいた。東の方のアジア系。日系某でもなく大陸でも半島でもない気がした。
「新入り? 異動?」
そいつの後ろに立ち日本語で話し掛けてみる。母語は久しぶりだった。俺の場合は頭の中が日本語だから自信はあったが、それでも無事発音できたことに安堵した。
「異動」
ぽつりと答えが返ってくる。俺の望んだ言語だった。少し嬉しくなり隣に座って良いか尋ねると肯定の返事をもらえた。
こいつはどんなひどいことをしてここにやって来たのだろう。すぐに聞きたかったが、そんなことを切り出せる空気ではなかった。なぜならそいつは初めにちらりと俺に視線をやったきり眼下をゆく汚いヘドロの川をじっと眺めているのだから。
「名前は?」
聞くと、そいつはためらいがちに「塩崎」と教えてくれた。俺は、と言いかけて「クゼでしょ」と予想外にも言い当てられる。
「今朝ここに連れて来た看守が言ってたんだ。下水掃除にいる日本人はクゼって名前だって。名字?」
「そう。久世って書く」
そう言って手のひらに指で文字を書くのを、塩崎は興味がなさそうな冷めた瞳で見た。それからすぐに下水に目を戻して言った。
「ここ、名前はいらないんだっけ?」
「名字が誰とも被ってねえなら」
塩崎は会話しながらも澱んだ水が流れる様を食い入るように見つめている。まるで落っことした小さな宝物を見つけようとしているみたいだった。しかし案外警戒されていないのかもしれない。
「塩崎ってなんでこんなとこに入れられたの? 放火とか? なんか犯罪者っぽくない」
「君もね」
塩崎が俺を見やる。目が合うのは二度目だった。
「……立ってたんだよ。それが俺の罪」
答えをくれたが、意味がわからず返す言葉が見つからない。それが塩崎にもわかったのか、彼は続けて口を開いた。
「死ぬために立ってた。あいつは人を殺してみたいって言って銃を構えた。暴発したんだよ。それで頭がぶっ飛んだ」
「元々ぶっ飛んだ思考だったから当たり前の話だね」
「頭がぶっ飛ぶのが?」
「うん。ぶっ飛んでいたんだから」
俺が言うと塩崎がまたヘドロに視線を移す。さっきとは違い、彼の目に映ったヘドロは彼の脳まで届いていないようだった。何かを考え込んでいる。
「俺のせいで死んだから終身刑って言い渡されたんだ」
そしてまた小さな声で呟いた。
「ありえねえ。どんなとこにいたんだよ。狂ってる。この世には頭のおかしい町しかないのか……」
「俺以外は白人だけだった。そこで白人が嫌いになってここにきてから全人類嫌いになった」
無表情で淡々と話す塩崎の袖口から覗く手首には、生々しい縄の痕が刻まれていた。
「お前が下水で話してたのが噂のジャパニーズ?」
房に戻ってきて早々イヴァンが興味深げに聞いてきた。
「噂は知らないけど塩崎っていう子」
「やっぱり。姚の房のやつだ」
「ああ、あの中国人」
「ハーフだってよ。台湾と日本」
「そうなの? 知らなかった」
「ずっと前に中国人かって聞いたら半殺しの憂き目にあった。あいつもぶっ飛んでるよな」
「暴発がいるほどではないよ、きっと」
「暴発? 何、いきなり」
暴発――と言って、俺は大好きなイヴァンの疑問さえ無視して考えの中に入った。塩崎の顔を思い浮かべる。こんな場所にはふさわしくない品のある顔立ちをしていた。
この世の中には死んで良い人間とそうでないやつがいる。俺が前者でイヴァンが後者。塩崎に銃を向けた人でなしが前者で塩崎は後者。しかし、死ぬのとこんなところへ入れられるのでは果たしてどちらが幸福だろう。
「ねえ、姚ってどんなやつ? ひとでなし? それともろくでなし?」
「とんでもなしだよ」
「そんな言葉ねえよ」
「ひょろいのに強い。誰とも群れてない。リンチもレイプもしないし会話が成立する。たまにキレるが割と模範囚」
「とんでもなしだね。腐ってない」
驚きとともに言うとイヴァンが鼻で笑った。
「何、新入りのこと気に入ったのか」
「気に入ったとかじゃなくて、何もしてないのに入れられたから、せめて平和に暮らしてほしいと思って」
「その感覚理解できねえ」
「俺はイヴァンにも平和に暮らしてほしいよ」
こう言うと、イヴァンは少し困った顔をした。
「俺、色々やって来たんだけど」
「そうだとしてもいいやつだから」
「いいやつじゃねえよ」
「俺にとっちゃいいやつだよ。いいでしょ、こう思ってても」
「良いけどさ」
イヴァンが折れるのは珍しかった。さっきまでにやにやしていたのに、今はどちらかというと浮かぬ顔をしている。どうしてイヴァンがこんな顔をしたのかわからず考える。もしかしたら媚びていると思われたのだろうか。
『イヴァンの同室者はよく変わるんだ。飽きた頃に殺すから』
いつか言われた言葉が蘇る。彼に殺されるのも悪くはないがまだ一緒にいたかった。俺は、自分が持つたくさんの欠点の中の一つをちゃんと理解している。その欠点とは、思い込んだらそれ以外に考えられなくなること。実際にイヴァンに聞いたわけでもないのにすっかり俺が媚びる姿に嫌気が差したのだと思い込んでしまっている。
思い通りに物事が進んでばかりいると飽きるらしい。生きてきて思い通りになったことなんてないからその感覚を理解するのは不可能だが、俺の偏った見聞よりも知識人たちの知識のほうが信じられる。飽きさせないためには少しの反抗が必要だ。「ちょっと出てくる」と言って俺は房を出ようとした。少し一人になって頭を冷やし、色々考えないとうまく立ち回れない。このままだったらぶっ飛んでる俺の頭が悩みの種の暴発でさらにぶっ飛んでしまう。
「どこ行くんだよ」
「ちょっとそこまで」
「底? 下水行くの? もう鍵閉まってるって」
「下水には行かない。図書室あたりに行く」
「じゃあ図書室って言えよ。つうか俺も行く」
「用事ないだろ」
「なんだよ、だめなの?」
「ちょっと一人になりたいんだ」
俺の言葉にイヴァンの瞳が暗く光り、慌てて付け足す。
「ずっと一緒にいたらあんた飽きるでしょ」
「何に」
「俺に。俺、愉快な人間じゃねえもん」
「クゼにそんなの望んでねえ」
「じゃあ何を期待してんの?」
尋ねてみる。光の少ししか届かぬ房の中で目だけを光らせたイヴァンと対峙している。イヴァンは立ったまま何も言わないし、俺は何も言えなかった。
緩やかな曲線を描いたボートネック型の襟からは、彼の白い鎖骨が覗いている。触りたい欲求を押し込めて、イヴァンの顔に目線を上げて彼の言葉を待つ。
「わかんないほうが良いよ」
そして、イヴァンが答えになっていない答えをくれた。
「なんだよそれ」
次の瞬間、いつか見た酷薄な笑みがイヴァンの顔に乗る。
「わかった時がお別れの時だな」
「なんだよ、それ」
同じ言葉を違う気持ちで言う。心臓のあたりがムズムズする。これが不安なのだろうか。だとしたら不安で死にそうだ。
「なんて顔してんの」
イヴァンがおかしそうに笑った。
「なあ、クゼ」
「……何」
「図書室になんか行くの止めようぜ」
そうしてそっと俺に歩み寄り、まるで猫にするように喉を撫でてくる。俺は、希望なんて何もないまま彼に寄り添うようにして目を閉じた。暫くして目を開けると、さっき触りたかった真っ白な鎖骨が目の前にあった。
手は伸ばせない。
わずかでも身を引かれたら、自ら下水に飛び込むしかないから。
「新入り? 異動?」
そいつの後ろに立ち日本語で話し掛けてみる。母語は久しぶりだった。俺の場合は頭の中が日本語だから自信はあったが、それでも無事発音できたことに安堵した。
「異動」
ぽつりと答えが返ってくる。俺の望んだ言語だった。少し嬉しくなり隣に座って良いか尋ねると肯定の返事をもらえた。
こいつはどんなひどいことをしてここにやって来たのだろう。すぐに聞きたかったが、そんなことを切り出せる空気ではなかった。なぜならそいつは初めにちらりと俺に視線をやったきり眼下をゆく汚いヘドロの川をじっと眺めているのだから。
「名前は?」
聞くと、そいつはためらいがちに「塩崎」と教えてくれた。俺は、と言いかけて「クゼでしょ」と予想外にも言い当てられる。
「今朝ここに連れて来た看守が言ってたんだ。下水掃除にいる日本人はクゼって名前だって。名字?」
「そう。久世って書く」
そう言って手のひらに指で文字を書くのを、塩崎は興味がなさそうな冷めた瞳で見た。それからすぐに下水に目を戻して言った。
「ここ、名前はいらないんだっけ?」
「名字が誰とも被ってねえなら」
塩崎は会話しながらも澱んだ水が流れる様を食い入るように見つめている。まるで落っことした小さな宝物を見つけようとしているみたいだった。しかし案外警戒されていないのかもしれない。
「塩崎ってなんでこんなとこに入れられたの? 放火とか? なんか犯罪者っぽくない」
「君もね」
塩崎が俺を見やる。目が合うのは二度目だった。
「……立ってたんだよ。それが俺の罪」
答えをくれたが、意味がわからず返す言葉が見つからない。それが塩崎にもわかったのか、彼は続けて口を開いた。
「死ぬために立ってた。あいつは人を殺してみたいって言って銃を構えた。暴発したんだよ。それで頭がぶっ飛んだ」
「元々ぶっ飛んだ思考だったから当たり前の話だね」
「頭がぶっ飛ぶのが?」
「うん。ぶっ飛んでいたんだから」
俺が言うと塩崎がまたヘドロに視線を移す。さっきとは違い、彼の目に映ったヘドロは彼の脳まで届いていないようだった。何かを考え込んでいる。
「俺のせいで死んだから終身刑って言い渡されたんだ」
そしてまた小さな声で呟いた。
「ありえねえ。どんなとこにいたんだよ。狂ってる。この世には頭のおかしい町しかないのか……」
「俺以外は白人だけだった。そこで白人が嫌いになってここにきてから全人類嫌いになった」
無表情で淡々と話す塩崎の袖口から覗く手首には、生々しい縄の痕が刻まれていた。
「お前が下水で話してたのが噂のジャパニーズ?」
房に戻ってきて早々イヴァンが興味深げに聞いてきた。
「噂は知らないけど塩崎っていう子」
「やっぱり。姚の房のやつだ」
「ああ、あの中国人」
「ハーフだってよ。台湾と日本」
「そうなの? 知らなかった」
「ずっと前に中国人かって聞いたら半殺しの憂き目にあった。あいつもぶっ飛んでるよな」
「暴発がいるほどではないよ、きっと」
「暴発? 何、いきなり」
暴発――と言って、俺は大好きなイヴァンの疑問さえ無視して考えの中に入った。塩崎の顔を思い浮かべる。こんな場所にはふさわしくない品のある顔立ちをしていた。
この世の中には死んで良い人間とそうでないやつがいる。俺が前者でイヴァンが後者。塩崎に銃を向けた人でなしが前者で塩崎は後者。しかし、死ぬのとこんなところへ入れられるのでは果たしてどちらが幸福だろう。
「ねえ、姚ってどんなやつ? ひとでなし? それともろくでなし?」
「とんでもなしだよ」
「そんな言葉ねえよ」
「ひょろいのに強い。誰とも群れてない。リンチもレイプもしないし会話が成立する。たまにキレるが割と模範囚」
「とんでもなしだね。腐ってない」
驚きとともに言うとイヴァンが鼻で笑った。
「何、新入りのこと気に入ったのか」
「気に入ったとかじゃなくて、何もしてないのに入れられたから、せめて平和に暮らしてほしいと思って」
「その感覚理解できねえ」
「俺はイヴァンにも平和に暮らしてほしいよ」
こう言うと、イヴァンは少し困った顔をした。
「俺、色々やって来たんだけど」
「そうだとしてもいいやつだから」
「いいやつじゃねえよ」
「俺にとっちゃいいやつだよ。いいでしょ、こう思ってても」
「良いけどさ」
イヴァンが折れるのは珍しかった。さっきまでにやにやしていたのに、今はどちらかというと浮かぬ顔をしている。どうしてイヴァンがこんな顔をしたのかわからず考える。もしかしたら媚びていると思われたのだろうか。
『イヴァンの同室者はよく変わるんだ。飽きた頃に殺すから』
いつか言われた言葉が蘇る。彼に殺されるのも悪くはないがまだ一緒にいたかった。俺は、自分が持つたくさんの欠点の中の一つをちゃんと理解している。その欠点とは、思い込んだらそれ以外に考えられなくなること。実際にイヴァンに聞いたわけでもないのにすっかり俺が媚びる姿に嫌気が差したのだと思い込んでしまっている。
思い通りに物事が進んでばかりいると飽きるらしい。生きてきて思い通りになったことなんてないからその感覚を理解するのは不可能だが、俺の偏った見聞よりも知識人たちの知識のほうが信じられる。飽きさせないためには少しの反抗が必要だ。「ちょっと出てくる」と言って俺は房を出ようとした。少し一人になって頭を冷やし、色々考えないとうまく立ち回れない。このままだったらぶっ飛んでる俺の頭が悩みの種の暴発でさらにぶっ飛んでしまう。
「どこ行くんだよ」
「ちょっとそこまで」
「底? 下水行くの? もう鍵閉まってるって」
「下水には行かない。図書室あたりに行く」
「じゃあ図書室って言えよ。つうか俺も行く」
「用事ないだろ」
「なんだよ、だめなの?」
「ちょっと一人になりたいんだ」
俺の言葉にイヴァンの瞳が暗く光り、慌てて付け足す。
「ずっと一緒にいたらあんた飽きるでしょ」
「何に」
「俺に。俺、愉快な人間じゃねえもん」
「クゼにそんなの望んでねえ」
「じゃあ何を期待してんの?」
尋ねてみる。光の少ししか届かぬ房の中で目だけを光らせたイヴァンと対峙している。イヴァンは立ったまま何も言わないし、俺は何も言えなかった。
緩やかな曲線を描いたボートネック型の襟からは、彼の白い鎖骨が覗いている。触りたい欲求を押し込めて、イヴァンの顔に目線を上げて彼の言葉を待つ。
「わかんないほうが良いよ」
そして、イヴァンが答えになっていない答えをくれた。
「なんだよそれ」
次の瞬間、いつか見た酷薄な笑みがイヴァンの顔に乗る。
「わかった時がお別れの時だな」
「なんだよ、それ」
同じ言葉を違う気持ちで言う。心臓のあたりがムズムズする。これが不安なのだろうか。だとしたら不安で死にそうだ。
「なんて顔してんの」
イヴァンがおかしそうに笑った。
「なあ、クゼ」
「……何」
「図書室になんか行くの止めようぜ」
そうしてそっと俺に歩み寄り、まるで猫にするように喉を撫でてくる。俺は、希望なんて何もないまま彼に寄り添うようにして目を閉じた。暫くして目を開けると、さっき触りたかった真っ白な鎖骨が目の前にあった。
手は伸ばせない。
わずかでも身を引かれたら、自ら下水に飛び込むしかないから。