旋回
君はよく喋る、と呆れ気味に言われた。
結構無口だと自分では思っているのでそんなことを言われる筋合いはないと立腹した態度を見せようと腰を上げかけて止めた。確かにいつもの俺は無口であるが、今はよく喋っている。けれどそれを常日頃からのように言われたから異を唱えたくなったのだ。
いらだちを覚えながら、しかしそれを表に出すのは恥ずかしかったため何事もなかったかのように笑ったくらいにして俺は房へと戻った。
まだイヴァンは戻って来ていない。
裸電球の周りを虫が一匹気違いのように旋回している。
気持ち悪くなって入ったばかりの房から出る。囚人たちが生み出す不快な雑音が俺の気を紛らわせた。房の壁に背を預け、ずるずるとその場にしゃがみ込む。
嫌なものを見てしまった。嫌なことを言われてしまった。
人から否定されるのを俺は恐れる。異常なまでに恐れている。しかし、これが人に知られるときっとさらに嫌われることになる。
大きな溜め息を吐きかけて慌てて吸い込む。幸せが逃げたら大変だ。
「何落ち込んでんの」
頭上から労る気持ちのない労りの言葉が落とされて顔を上げると、予想通りのイヴァンの顔があった。首だけを下げて俺を見下ろしている。
「しかも何で外になんか出てんの」
虫がいたんだよ、飛んでたんだ、と心の中で答える。イヴァンには俺が飛ぶ虫を嫌っていることを告白していない。
「別に理由はないよ」
罪の意識を覚えながら嘘を吐くと、イヴァンは信じてくれたようで、変なの、とひとこと言って俺を立たせた。
彼に捕まれた腕が熱かった。おかしいと思いながらもどうでも良い事に感じられ考えるのを止めて房へと戻る。
二度目の帰還。虫は相変わらず狂ったように電球の周りをくるくると飛んでいた。それを認識したとき一気に鳥肌が体中を駆け巡った。
気持ち悪い。飛んでいる。羽を広げてはためかせて飛んでいる。気持ち悪い。見たくないが見ていないとあいつがどこに飛ぶのかわからないから見ていないといけない。外に出たい。恐い。
虫から目が離せないでいる俺に気付いたイヴァンが何も言わずに俺の視線を辿ったのが視界の隅に映る。その後、不可解だと言わんばかりの表情で俺の方を見た。見られているのがわかったが俺は虫を見ていなければならない。そんなことを考えていたらイヴァンがいきなり飛び上がり飛び回っている虫を捕らえて殺しトイレに流した。
その一連の流れに俺はついていけず目を見開き彼を見る。彼も何とも言えない表情で俺を見る。それから、イヴァンの手が俺に向かって差し出された。
「クゼ――」
「まず手を洗おう! 石鹸で! 全力で!」
俺のすべてであるイヴァンの手を拒否するなんて俺にとっては罪であり考えられない事ではあるがあの気違いを触った手が握り潰した手が迫ってくる恐怖に俺は耐えられない。
その時、押し込めていた記憶がふと蘇った。
大量の蛾が詰められた樽の中に押し込まれた記憶が蘇った。
喚いて床に膝を突く。目を閉じると、奇妙な模様を持つ鈍色の気違いたちが狂ったように俺に向かってくる光景に犯される。
イヴァンが駆け寄ってくる。しかし、触れられる前に遠ざかった。水の音が聞こえる。眼前に蛾が迫る。ごめんなさいと俺は謝る。人間の熱に包まれる。
しばらくしてようやく落ち着いて顔を上げると、イヴァンの整った顔がすぐそばにあり、心配そうに眉が下がっていた。彼の瞳には情けなく涙に濡れ、呆然としている俺が映っている。泣いた覚えはないが涙だろうか。それとも流した記憶のない汗だろうか。わからないが汚かった。それでも彼は俺を揺り籠のように優しく腕に閉じ込めた。
目を瞑っても、もう迫ってくるものはいなかった。強いて見つけるならばただ一つ、どうしようもないほど眩しい、彼を希求する光が迫って来ていた。
何かが房の中へ飛んで来た。
俺はしばらくの間イヴァンの腕の中でそれをぼんやりと眺めた。
裸電球の周りを、虫が一匹気違いのように旋回している。
結構無口だと自分では思っているのでそんなことを言われる筋合いはないと立腹した態度を見せようと腰を上げかけて止めた。確かにいつもの俺は無口であるが、今はよく喋っている。けれどそれを常日頃からのように言われたから異を唱えたくなったのだ。
いらだちを覚えながら、しかしそれを表に出すのは恥ずかしかったため何事もなかったかのように笑ったくらいにして俺は房へと戻った。
まだイヴァンは戻って来ていない。
裸電球の周りを虫が一匹気違いのように旋回している。
気持ち悪くなって入ったばかりの房から出る。囚人たちが生み出す不快な雑音が俺の気を紛らわせた。房の壁に背を預け、ずるずるとその場にしゃがみ込む。
嫌なものを見てしまった。嫌なことを言われてしまった。
人から否定されるのを俺は恐れる。異常なまでに恐れている。しかし、これが人に知られるときっとさらに嫌われることになる。
大きな溜め息を吐きかけて慌てて吸い込む。幸せが逃げたら大変だ。
「何落ち込んでんの」
頭上から労る気持ちのない労りの言葉が落とされて顔を上げると、予想通りのイヴァンの顔があった。首だけを下げて俺を見下ろしている。
「しかも何で外になんか出てんの」
虫がいたんだよ、飛んでたんだ、と心の中で答える。イヴァンには俺が飛ぶ虫を嫌っていることを告白していない。
「別に理由はないよ」
罪の意識を覚えながら嘘を吐くと、イヴァンは信じてくれたようで、変なの、とひとこと言って俺を立たせた。
彼に捕まれた腕が熱かった。おかしいと思いながらもどうでも良い事に感じられ考えるのを止めて房へと戻る。
二度目の帰還。虫は相変わらず狂ったように電球の周りをくるくると飛んでいた。それを認識したとき一気に鳥肌が体中を駆け巡った。
気持ち悪い。飛んでいる。羽を広げてはためかせて飛んでいる。気持ち悪い。見たくないが見ていないとあいつがどこに飛ぶのかわからないから見ていないといけない。外に出たい。恐い。
虫から目が離せないでいる俺に気付いたイヴァンが何も言わずに俺の視線を辿ったのが視界の隅に映る。その後、不可解だと言わんばかりの表情で俺の方を見た。見られているのがわかったが俺は虫を見ていなければならない。そんなことを考えていたらイヴァンがいきなり飛び上がり飛び回っている虫を捕らえて殺しトイレに流した。
その一連の流れに俺はついていけず目を見開き彼を見る。彼も何とも言えない表情で俺を見る。それから、イヴァンの手が俺に向かって差し出された。
「クゼ――」
「まず手を洗おう! 石鹸で! 全力で!」
俺のすべてであるイヴァンの手を拒否するなんて俺にとっては罪であり考えられない事ではあるがあの気違いを触った手が握り潰した手が迫ってくる恐怖に俺は耐えられない。
その時、押し込めていた記憶がふと蘇った。
大量の蛾が詰められた樽の中に押し込まれた記憶が蘇った。
喚いて床に膝を突く。目を閉じると、奇妙な模様を持つ鈍色の気違いたちが狂ったように俺に向かってくる光景に犯される。
イヴァンが駆け寄ってくる。しかし、触れられる前に遠ざかった。水の音が聞こえる。眼前に蛾が迫る。ごめんなさいと俺は謝る。人間の熱に包まれる。
しばらくしてようやく落ち着いて顔を上げると、イヴァンの整った顔がすぐそばにあり、心配そうに眉が下がっていた。彼の瞳には情けなく涙に濡れ、呆然としている俺が映っている。泣いた覚えはないが涙だろうか。それとも流した記憶のない汗だろうか。わからないが汚かった。それでも彼は俺を揺り籠のように優しく腕に閉じ込めた。
目を瞑っても、もう迫ってくるものはいなかった。強いて見つけるならばただ一つ、どうしようもないほど眩しい、彼を希求する光が迫って来ていた。
何かが房の中へ飛んで来た。
俺はしばらくの間イヴァンの腕の中でそれをぼんやりと眺めた。
裸電球の周りを、虫が一匹気違いのように旋回している。