嗚咽
一人で所内をぶらついていた時、クゼが来る前につるんでいた男と偶然出会いタバコをもらった。嫌いだとわかっているくせに押し付けてくるそいつを睨み付ける。
「くれるなら火はつけるな」
捨てようと思ったがもったいなくて口に咥える。思い切って吸い込むと、人をおかしくさせる毒が体内に侵入し、沈殿した。少しだけすっきりとしてしまったことが忌々しい。
「最近来ねえじゃん」
タバコをくれたその男は、おそらく苦々しい表情でタバコを吸う俺をおかしそうに眺めている。
男の名はハイゼ。金髪の悪魔なんていう恥ずかしいあだ名を彼は恥じていた。
「俺も忙しいんだよ」
適当に答えると、くく、とハイゼが笑った。それをちらりと見やる。
当たり前だが彼は今日も彫刻のように整っている。天からの遣い、と恥ずかしげも無く言ったのは誰だったか。みんな言っていたかもしれない。彼は返り血に染まったボロボロの囚人服に身を包んでいても穢れ無き者のように見える。
「クゼはまだ頑張ってんのか」
「どういう意味だよ」
「捨てられないように頑張ってるんだなあって思ってさ」
「飽きたら殺すってあれ、お前も信じてんのか」
「だって事実だろ」
「あいつはただの同室者だ。飽きるも何もない」
「へえ」
にやにやと胡散臭い笑みを浮かべるハイゼを殴ってしまいたかったが、そんなことをしたら俺もただじゃ戻れない。まだ十分吸えるタバコを床に投げ、踏み付けた。
「もったいない」
「毒だからな、これ」
「下水のほうが体に悪いよ」
「体は関係ねえ。精神的に毒だ」
「なあ、クゼとやってんの?」
「やってねえ」
「へえ。大事にしてんだ」
「ただの同室者って言ってるだろうが」
ただの同室者ではないが、ハイゼにそれを言う必要はない。それに、俺はクゼを大事にしていない――はたから見れば大事にしているように思われるかもしれないが、俺は誰も大事にしない。
踏まれて情けなく身をくねらせ息絶えたタバコを睥睨し、俺はハイゼに背を向けた。
「もう行くのか」
「ああ」
「そういえば、ただの同室者だからどうでも良いと思うけど……」
「なんだよ」
足を止め、先を言おうとしないハイゼを睨む。
「おお、怖い怖い」
ハイゼは面白そうに笑っている。こいつはクゼが来てからすっかり模範囚のようになった俺を馬鹿にしているのだ。彼がなぜからかってくるのかわかっているが、なるべく考えないようにした。強いやつと喧嘩するのは疲れる。痛いことも苦しいことも好きじゃない。
「帰る」
いらだちを隠さず止めていた足の運びを再開させる。
「クゼ、B2号室に連れ込まれてた」
「そうか」
振り向きもせず突き当りを右に曲がる。下水に降りる階段のすぐわきにB2号室はある。多分中でレイプでもされているのだろう。
想像すると自然と笑みが零れた。きっと今俺はひどく歪んだ顔をしている。
クゼを助けたことはない。あいつは今までの同室者たちと違って、決して俺に助けを求めて来ない。求められたら助けるのに。ただ、助けるのに飽きたら下水に捨てることになるだろうけど。
もしも俺が彼を助けたら、彼はその後どうするだろうか。こんな疑問を抱いた。一度助けたら次に何かが起きた時助けを求めてくるだろうか。それとも、なんでもないふりをして今までどおり独りで耐えるのか。俺は、そのどちらを望んでいるだろう。
「まあ、いいか」
一人呟いてB2号室に下りる階段を目指す。途中で何人もの囚人たちとすれ違う。誰もちょっかいを掛けて来ない。クゼは弱いから、自分で自分の身を守れないから襲われるのだ。なんだかひどくいらついていた。ハイゼにも、自分にも、なんの罪もないクゼにも。
あいつが来てから俺はおかしくなった。クゼに好意を抱いていることを俺は自覚している。けれど、彼が他の囚人と話したり、自分よりも他を優先したりすると心がささくれ立ち、いてもたってもいられなくなってしまう。
それは汚い感情だった。好意は美しいもののはずなのに、それをかき消すくらいの汚れが存在している。クゼを壊したら、元の俺に戻るだろうか。
B2号室にはすぐに着いた。階段の陰から見たところ、見張りが一人いる。アルクィンとかいうアメリカ人だ。
「何してんだ?」
偶然を装い声をかけると、アルクィンはびくりと肩を揺らし、ぎこちない笑みを浮かべた。
「よお、イヴァン。別に大したことじゃねえよ。いつものおしおきだよ」
「へえ、誰を?」
「アジア人さ」
「ふうん、それ、クゼじゃねえよな?」
「あ、ああ。どうだったかな」
「お前、見張りに向いてねえな」
わざと笑ってみせるとアルクィンがたじろいだ。
「なあ、俺、中に入りてえんだ。開けてくれないか?」
「それは出来ねえ。俺、見張りだし」
「俺は別に、お前が下水を流れたってかまわないんだけど」
穏やかに言うと、アルクィンは青ざめ、一歩後退った。
俺は自分の噂をちゃんと心得ている。ここに来たのは四年前だが、当時はよくハイゼと一緒に暴れまわっていた。今ではその時の悪行に豪華な尾ひれはひれが装飾されて刑務所内を飛び回っている。
クゼが来て数日で「イヴァンに気に入られたらしい」という情報が出回ったから、クゼは本来なら手を出されないはずだった。だが、俺を敵視する囚人がクゼを襲ったにも関わらず助けることも報復もしなかったから、クゼは襲われるようになった。
「クゼが、助けてって言ったのか?」
アルクィンがためらいがちに尋ねてきた。彼の意味していることはわかった。今まで助けたことないのになぜ――と不思議がっているのだろう。
「それが今必要か? 開けるか開けないか、どっちかだろ」
アルクィンが逡巡する。開ければ仲間たちに何をされるかわからない。開けなかったら俺に殺される。彼の悩みが手に取るようにわかった。
一歩足を進めるとアルクィンは覚悟を決めたのか、中に向かって叫んだ。
「看守が来るぞ! 逃げろ! 俺は先に行く!」
アルクィンが緊張の面持ちで俺の後ろにある階段めがけて走り出した。
「お疲れ様」
すれ違いざまに彼に声を掛けた。それから数秒も経たないでB2号室の中から三人の囚人が出てきた。彼らは慌てた様子で階段に向かって来る。しかし、俺の姿を見つけてぎょっと目を剥き立ち止まった。
「どうかしたか? すごく慌てているようだけど」
三人に向けて声を掛ける。
「今、アルクィンが通らなかったか? 俺達は彼を追っているんだ」
「ああ、通ったな。降りる途中すれ違った。そういえば彼も慌ててたな」
「だろ。悪いな。急いでるんだ」
三人がばたばたと俺の横を通り過ぎていく。見送ってからB2号室の中を覗くと、乱雑に散らかるボンベの海の中、クゼが横たわり呻いていた。
「クゼ?」
近寄り、顔がよく見えるようにしゃがむ。うっすらとクゼが目を開けた。その目は俺を確認し、大きく見開かれた。
「イヴァン……」
「何してんの? こんなとこでケツ出して」
からかうように言って、クゼの剥き出しになった尻を撫でた。
「イヴァン!」
割れ目からは薄汚い白濁が流れ出ている。あいつらの物だと思えば汚かったが、それを指で掬い、クゼの眼前に突きつけた。
「商売? 無理矢理?」
意地の悪い質問をしてやると、感情が高ぶっているのかクゼの顔が歪んだ。クゼはよく笑ったり驚いたりするけれど、苦しい、辛いといった感情を表に出すことはほとんどない。嫌われないようにと必死になり、時に落ち込んでいる姿も見受けられるが、こんな表情は見たことなかった。
「商売できるほど、俺の価値は高くねえよ。やりたきゃどっかに連れ込めばいいから」
クゼが忌々しげに吐き捨てる。無意識に手がクゼの頬を触る。
「クゼ」
「……なんだよ。俺、服着たいんだけど」
肌にはところどころ赤い線が刻まれている。下半身は汚い白い液体まみれで、物のように扱われたことが一目でわかった。それなのにクゼは俺を睨んでいる。汚いものは嫌いだが、白濁まみれの彼を汚いものだと思えなかった。
まだ柔らかいクゼの尻の中に指を入れてみる。突然の俺の奇行にクゼが呻く。彼の中に埋めた指を動かし、感じるところを探す。
「……なあ。助けてって言えば助けてやるし、殺してって言えばいつでも殺してやる。どうする?」
こんな汚い場所で汚いやつらにやられなくていい。こいつが望むならあいつらを下水に流してもいい。
単なる気まぐれだ。明日になったら忘れているような取るに足らない感傷。俺はクゼに好意を抱いている。これは認めているが、一過性のものだ。好きなんて感情が持続するとは到底思えなかった。
「やめろ、イヴァン」
白濁に塗れたクゼの後孔は俺が指を動かす度にくちゅくちゅと卑猥な音を立てる。やめろ、と繰り返していたクゼだったが、一度小さく喘いだかと思うと、顔を赤く染めて唇を噛み締めた。
「ああ。感じた?」
悔しそうな顔がおかしくて思わず笑う。クゼの好きなところを執拗に攻め立てると、彼は俺の腕に縋り付き、くぐもった声をあげた。
クゼの中から指を引き抜き、開けっ放しになっていたドアを閉めようと立ち上がる。クゼが荒い息を繰り返している姿を見ながら鍵を掛けた。
「何すんの……?」
クゼが不安そうな声で尋ねてくる。
クゼと寝たことはない。けど、それは大事にしているからとか、そういう理由からでは決してない。今さらハイゼに言われた言葉たちが俺をいらつかせた。
床に肘をつけて身を起こしているクゼを見下ろし、命令する。
「足開いて」
「やるの……?」
クゼが恐る恐る尋ねてくる。その表情には怯えが見て取れた。
「何、嫌?」
当たり前のことを訊くと、クゼがゆるゆると力なく首を振った。彼が横に振ったことに驚く。
「嫌、じゃないけど、俺今すげー汚いから、今じゃないほうが良いよ。……わかってるだろうけどさ」
クゼが傷ついたように小さく言った。こいつはばかだ。いらだちと、嗜虐的な気分が急激にしぼんでいく。俺は散らばっていたクゼのパンツとズボンを拾い上げ、彼に手渡した。
「イヴァン」
「戻る」
早く立てとクゼを急かし、鍵を開けてドアの外で彼を待つ。ほどなくしてクゼがふらふらしながら出てきた。
「いらついてたんだ。悪かった」
バツの悪さに顔は見られなかったが、どうしてか俺はクゼに謝っていた。
大事にしていない。好意も多分一過性のもの。けれど、自分が「今」彼を必要とし、気に入っていることは確かだ。それなのに終わりを早めるなんて、愚かなこと。
「……さっきの答えなんだけど」
つらそうなクゼに付き合い、ゆっくりと階段を登っている途中でクゼが口を開いた。
「なんのことだよ」
「俺、イヴァンに殺されてもいいけど、まだ死にたくない」
「は? 俺、そんなこと言った?」
「言った。いつでも殺してやるって」
「……それか」
クゼは勘違いしている。だけど、クゼの出した答えに気分を良くしたから、あえて訂正しなかった。
俺はクゼを大事にしていない。一過性のものでない好意なんて存在しない。けれど、できるだけ長く続いて欲しいと、いもしない神に祈りたくなった。
「くれるなら火はつけるな」
捨てようと思ったがもったいなくて口に咥える。思い切って吸い込むと、人をおかしくさせる毒が体内に侵入し、沈殿した。少しだけすっきりとしてしまったことが忌々しい。
「最近来ねえじゃん」
タバコをくれたその男は、おそらく苦々しい表情でタバコを吸う俺をおかしそうに眺めている。
男の名はハイゼ。金髪の悪魔なんていう恥ずかしいあだ名を彼は恥じていた。
「俺も忙しいんだよ」
適当に答えると、くく、とハイゼが笑った。それをちらりと見やる。
当たり前だが彼は今日も彫刻のように整っている。天からの遣い、と恥ずかしげも無く言ったのは誰だったか。みんな言っていたかもしれない。彼は返り血に染まったボロボロの囚人服に身を包んでいても穢れ無き者のように見える。
「クゼはまだ頑張ってんのか」
「どういう意味だよ」
「捨てられないように頑張ってるんだなあって思ってさ」
「飽きたら殺すってあれ、お前も信じてんのか」
「だって事実だろ」
「あいつはただの同室者だ。飽きるも何もない」
「へえ」
にやにやと胡散臭い笑みを浮かべるハイゼを殴ってしまいたかったが、そんなことをしたら俺もただじゃ戻れない。まだ十分吸えるタバコを床に投げ、踏み付けた。
「もったいない」
「毒だからな、これ」
「下水のほうが体に悪いよ」
「体は関係ねえ。精神的に毒だ」
「なあ、クゼとやってんの?」
「やってねえ」
「へえ。大事にしてんだ」
「ただの同室者って言ってるだろうが」
ただの同室者ではないが、ハイゼにそれを言う必要はない。それに、俺はクゼを大事にしていない――はたから見れば大事にしているように思われるかもしれないが、俺は誰も大事にしない。
踏まれて情けなく身をくねらせ息絶えたタバコを睥睨し、俺はハイゼに背を向けた。
「もう行くのか」
「ああ」
「そういえば、ただの同室者だからどうでも良いと思うけど……」
「なんだよ」
足を止め、先を言おうとしないハイゼを睨む。
「おお、怖い怖い」
ハイゼは面白そうに笑っている。こいつはクゼが来てからすっかり模範囚のようになった俺を馬鹿にしているのだ。彼がなぜからかってくるのかわかっているが、なるべく考えないようにした。強いやつと喧嘩するのは疲れる。痛いことも苦しいことも好きじゃない。
「帰る」
いらだちを隠さず止めていた足の運びを再開させる。
「クゼ、B2号室に連れ込まれてた」
「そうか」
振り向きもせず突き当りを右に曲がる。下水に降りる階段のすぐわきにB2号室はある。多分中でレイプでもされているのだろう。
想像すると自然と笑みが零れた。きっと今俺はひどく歪んだ顔をしている。
クゼを助けたことはない。あいつは今までの同室者たちと違って、決して俺に助けを求めて来ない。求められたら助けるのに。ただ、助けるのに飽きたら下水に捨てることになるだろうけど。
もしも俺が彼を助けたら、彼はその後どうするだろうか。こんな疑問を抱いた。一度助けたら次に何かが起きた時助けを求めてくるだろうか。それとも、なんでもないふりをして今までどおり独りで耐えるのか。俺は、そのどちらを望んでいるだろう。
「まあ、いいか」
一人呟いてB2号室に下りる階段を目指す。途中で何人もの囚人たちとすれ違う。誰もちょっかいを掛けて来ない。クゼは弱いから、自分で自分の身を守れないから襲われるのだ。なんだかひどくいらついていた。ハイゼにも、自分にも、なんの罪もないクゼにも。
あいつが来てから俺はおかしくなった。クゼに好意を抱いていることを俺は自覚している。けれど、彼が他の囚人と話したり、自分よりも他を優先したりすると心がささくれ立ち、いてもたってもいられなくなってしまう。
それは汚い感情だった。好意は美しいもののはずなのに、それをかき消すくらいの汚れが存在している。クゼを壊したら、元の俺に戻るだろうか。
B2号室にはすぐに着いた。階段の陰から見たところ、見張りが一人いる。アルクィンとかいうアメリカ人だ。
「何してんだ?」
偶然を装い声をかけると、アルクィンはびくりと肩を揺らし、ぎこちない笑みを浮かべた。
「よお、イヴァン。別に大したことじゃねえよ。いつものおしおきだよ」
「へえ、誰を?」
「アジア人さ」
「ふうん、それ、クゼじゃねえよな?」
「あ、ああ。どうだったかな」
「お前、見張りに向いてねえな」
わざと笑ってみせるとアルクィンがたじろいだ。
「なあ、俺、中に入りてえんだ。開けてくれないか?」
「それは出来ねえ。俺、見張りだし」
「俺は別に、お前が下水を流れたってかまわないんだけど」
穏やかに言うと、アルクィンは青ざめ、一歩後退った。
俺は自分の噂をちゃんと心得ている。ここに来たのは四年前だが、当時はよくハイゼと一緒に暴れまわっていた。今ではその時の悪行に豪華な尾ひれはひれが装飾されて刑務所内を飛び回っている。
クゼが来て数日で「イヴァンに気に入られたらしい」という情報が出回ったから、クゼは本来なら手を出されないはずだった。だが、俺を敵視する囚人がクゼを襲ったにも関わらず助けることも報復もしなかったから、クゼは襲われるようになった。
「クゼが、助けてって言ったのか?」
アルクィンがためらいがちに尋ねてきた。彼の意味していることはわかった。今まで助けたことないのになぜ――と不思議がっているのだろう。
「それが今必要か? 開けるか開けないか、どっちかだろ」
アルクィンが逡巡する。開ければ仲間たちに何をされるかわからない。開けなかったら俺に殺される。彼の悩みが手に取るようにわかった。
一歩足を進めるとアルクィンは覚悟を決めたのか、中に向かって叫んだ。
「看守が来るぞ! 逃げろ! 俺は先に行く!」
アルクィンが緊張の面持ちで俺の後ろにある階段めがけて走り出した。
「お疲れ様」
すれ違いざまに彼に声を掛けた。それから数秒も経たないでB2号室の中から三人の囚人が出てきた。彼らは慌てた様子で階段に向かって来る。しかし、俺の姿を見つけてぎょっと目を剥き立ち止まった。
「どうかしたか? すごく慌てているようだけど」
三人に向けて声を掛ける。
「今、アルクィンが通らなかったか? 俺達は彼を追っているんだ」
「ああ、通ったな。降りる途中すれ違った。そういえば彼も慌ててたな」
「だろ。悪いな。急いでるんだ」
三人がばたばたと俺の横を通り過ぎていく。見送ってからB2号室の中を覗くと、乱雑に散らかるボンベの海の中、クゼが横たわり呻いていた。
「クゼ?」
近寄り、顔がよく見えるようにしゃがむ。うっすらとクゼが目を開けた。その目は俺を確認し、大きく見開かれた。
「イヴァン……」
「何してんの? こんなとこでケツ出して」
からかうように言って、クゼの剥き出しになった尻を撫でた。
「イヴァン!」
割れ目からは薄汚い白濁が流れ出ている。あいつらの物だと思えば汚かったが、それを指で掬い、クゼの眼前に突きつけた。
「商売? 無理矢理?」
意地の悪い質問をしてやると、感情が高ぶっているのかクゼの顔が歪んだ。クゼはよく笑ったり驚いたりするけれど、苦しい、辛いといった感情を表に出すことはほとんどない。嫌われないようにと必死になり、時に落ち込んでいる姿も見受けられるが、こんな表情は見たことなかった。
「商売できるほど、俺の価値は高くねえよ。やりたきゃどっかに連れ込めばいいから」
クゼが忌々しげに吐き捨てる。無意識に手がクゼの頬を触る。
「クゼ」
「……なんだよ。俺、服着たいんだけど」
肌にはところどころ赤い線が刻まれている。下半身は汚い白い液体まみれで、物のように扱われたことが一目でわかった。それなのにクゼは俺を睨んでいる。汚いものは嫌いだが、白濁まみれの彼を汚いものだと思えなかった。
まだ柔らかいクゼの尻の中に指を入れてみる。突然の俺の奇行にクゼが呻く。彼の中に埋めた指を動かし、感じるところを探す。
「……なあ。助けてって言えば助けてやるし、殺してって言えばいつでも殺してやる。どうする?」
こんな汚い場所で汚いやつらにやられなくていい。こいつが望むならあいつらを下水に流してもいい。
単なる気まぐれだ。明日になったら忘れているような取るに足らない感傷。俺はクゼに好意を抱いている。これは認めているが、一過性のものだ。好きなんて感情が持続するとは到底思えなかった。
「やめろ、イヴァン」
白濁に塗れたクゼの後孔は俺が指を動かす度にくちゅくちゅと卑猥な音を立てる。やめろ、と繰り返していたクゼだったが、一度小さく喘いだかと思うと、顔を赤く染めて唇を噛み締めた。
「ああ。感じた?」
悔しそうな顔がおかしくて思わず笑う。クゼの好きなところを執拗に攻め立てると、彼は俺の腕に縋り付き、くぐもった声をあげた。
クゼの中から指を引き抜き、開けっ放しになっていたドアを閉めようと立ち上がる。クゼが荒い息を繰り返している姿を見ながら鍵を掛けた。
「何すんの……?」
クゼが不安そうな声で尋ねてくる。
クゼと寝たことはない。けど、それは大事にしているからとか、そういう理由からでは決してない。今さらハイゼに言われた言葉たちが俺をいらつかせた。
床に肘をつけて身を起こしているクゼを見下ろし、命令する。
「足開いて」
「やるの……?」
クゼが恐る恐る尋ねてくる。その表情には怯えが見て取れた。
「何、嫌?」
当たり前のことを訊くと、クゼがゆるゆると力なく首を振った。彼が横に振ったことに驚く。
「嫌、じゃないけど、俺今すげー汚いから、今じゃないほうが良いよ。……わかってるだろうけどさ」
クゼが傷ついたように小さく言った。こいつはばかだ。いらだちと、嗜虐的な気分が急激にしぼんでいく。俺は散らばっていたクゼのパンツとズボンを拾い上げ、彼に手渡した。
「イヴァン」
「戻る」
早く立てとクゼを急かし、鍵を開けてドアの外で彼を待つ。ほどなくしてクゼがふらふらしながら出てきた。
「いらついてたんだ。悪かった」
バツの悪さに顔は見られなかったが、どうしてか俺はクゼに謝っていた。
大事にしていない。好意も多分一過性のもの。けれど、自分が「今」彼を必要とし、気に入っていることは確かだ。それなのに終わりを早めるなんて、愚かなこと。
「……さっきの答えなんだけど」
つらそうなクゼに付き合い、ゆっくりと階段を登っている途中でクゼが口を開いた。
「なんのことだよ」
「俺、イヴァンに殺されてもいいけど、まだ死にたくない」
「は? 俺、そんなこと言った?」
「言った。いつでも殺してやるって」
「……それか」
クゼは勘違いしている。だけど、クゼの出した答えに気分を良くしたから、あえて訂正しなかった。
俺はクゼを大事にしていない。一過性のものでない好意なんて存在しない。けれど、できるだけ長く続いて欲しいと、いもしない神に祈りたくなった。