恐怖
防護服を脱ぎ倉庫に投げ入れる。真っ暗な倉庫の中には脱ぎ捨てられた防護服で山ができていて、ものすごい臭気を放っていた。ここの中でも俺たち下水班はかなりの外れ班だと評判だが、俺は清掃班より余程良いと思っている。こんな汚く臭気凄まじいものを綺麗にするなんて最悪だ。やつらは俺達よりも役に立つ仕事だからと言って自らを奮い立たせているようだが、綺麗に洗った防護服はなんの役にも立たない下水班が再び身に着けるのだから彼らも役に立っていない。
そもそも俺たちはこの先外に出ることもなくただ死を待つのみ。それを思えばここに関わるすべての人に価値はない。看守だって無意味だ。
「かわいそうに」
房へ戻る途中、独り言が外に出た。
「かわいそう?」
怪訝そうにイヴァンが尋ねてくる。俺にはそれが嬉しかった。
「清掃班。特に洗濯班なんてあの臭い防護服を洗うんだ。俺は絶対嫌だ」
「下水もくせえけどな」
イヴァンが言う。
「あ、けどいいもんも流れてくるからいいのか……。いや、清掃班でも拾えるか」
「イヴァン金儲けばっか」
「最近の唯一の楽しみなんだよ」
「最近? 前は?」
「前は他にも楽しみがあったからな」
今はなくなったの? と聞こうとして質問が続いてしまっていることに気が付く。うざがられないだろうか。うざがられたら嫌だ。嫌われたくない。
こんなことを考える自分にゾッとした。少し前までは死ぬまでは生きようと適当に生きていたのに、今はイヴァンに嫌われないことが俺の全てになっている。自覚した途端怖くなった。今まで人に好かれたことなんてない。いつも好かれたくてたまらなかったけれど、実際に好かれたことはなかった。イヴァンは今俺のことをどう思っているのだろうか。嫌われてはいないはずだ。なぜなら俺が生きているから。気に入らなくなれば多分殺す。
「何? 急に黙って。変なやつ」
イヴァンがさらに怪訝そうに俺の顔を覗きこんできて俺はすっかり困ってしまった。しかも焦っているから思考がまとまらない。俺は今までイヴァンとどうやって会話していたっけ? どうやって一緒にいた? 嫌われないようにと考えれば考えるほど口が重たくなっていく。
そうこうしているうちに俺達の房へと着いた。ロックを解除したイヴァンの後に付いて中へ入る。
死を待つだけの監獄は、あらゆるところが緩い。俺はいくつか刑務所を回ってきたが、ここの房が一番居心地良く生活できる。同室者が最低だったら最悪の場所だが。ここはちゃんと壁とドアがあるため、房の中が外から見えないようになっている。覗き窓はあるが布で覆っても怒られないし、騒がない限り声が漏れることもない。
しっかりとドアを閉め、俺はまっすぐベッドへ倒れこんだ。心地良くない薄いシーツに抱かれ、体を弛緩させる。何か言わないと嫌われてしまうが、何も考えられない。どうしよう。
「クゼ、なんか今日変じゃねえ?」
頭がわずかに沈んだ。イヴァンが俺のベッドに腰掛けたのだろう。俺は答えを探した。
どうして話せないんだ? それは今までどうやって話していたのかわからなくなったから。今までどうやって話してたっけ? これを英語で言えばいいんだ。そうだ。これを聞いても大丈夫な気がする。
「今までどうやって話してたっけ?」
聞いてみた。
「はあ?」
イヴァンが気の抜けた声を出す。大丈夫だ、親しみがこもっている気がする。
「わかんなくなったんだよ、俺。俺さ、今までイヴァンとどうやって話してたっけ?」
イヴァンの頭の上にはてなが並ぶ。しかしそう思ったのも束の間、彼は合点がいったかのようににやりと意地悪な笑みを浮かべ、俺の頭を撫でてきた。撫でられたことは記憶になく、奇妙な恥ずかしさに見舞われた俺は、けれど振り払うことなんてできずにシーツに顔を埋める。
「別に、いちいち考えなくても嫌いになりゃしねえよ」
イヴァンが言う。言葉の意味を理解した瞬間、更なる驚きとわけのわからない何かがこみ上げてきた。
「ああ、でも、裏切ったら嫌いになるな」
こみ上げてきたものがしぼむ。
「何すれば裏切ったことになんの?」
シーツから顔を上げてイヴァンを見る。さっきは意地悪な笑みを浮かべていたのに、やけに優しい顔をしているように見えた。希望だろうか、それとも本当に優しい顔をしているのだろうか。俺には判別できないが、本当だったらすごく嬉しい。
「さあな。わかんねーよ。その時じゃないと」
「質問するのうざくない?」
「は?」
「俺、こんなこというのすげーうざいし女々しいけど、嫌われたくないんだよ」
今ので嫌になったら殺して、とさらに女々しいことを呟く。今死んでもいいと思った。なんか辛い。最近は前よりもイヴァンと近づいた気がしているのに、今はなんだかつらい。
どうして辛いんだろう? わけがわからない。
売られた時より、かつて人として扱われていなかった時より、一人で狭い箱のなかにいる時より、イヴァンのいる今のほうがずっと辛い。
「……嫌われたくない」
イヴァンはきっとこんなことをいう俺に呆れ返るだろう。俺は今日死ぬだろうか。明日には下水を流れるだろうか。
俺の頭に置かれていたイヴァンの手が頬に降りてくる。
「鬼かよ、俺。お前の中でどうなってんの」
上からイヴァンの苦笑が落ちる。
「まあ、鬼か。終身刑だしさ。時代が時代なら死刑だな、絶対」
「鬼じゃない。……ねえ、イヴァンは何してここに来たの?」
「人殺した」
「死んで当然の人だったんでしょ?」
「死んで当然のやつなんていないんじゃねーの?」
「いないのかな」
「いないらしいぜ。前言われたことある。死ぬべき人なんていないのよ、人殺し、命で償えって」
「矛盾してる」
「そんなもんだろ、人間なんて」
とてつもなく優しい顔で、声で、イヴァンが言った。
イヴァンはいいやつだ。こんなふうに笑えるならイヴァンは冤罪だ。彼を見上げ、改めて思った。世の中には死ぬべき人はいないという。彼が人を殺したのなら、何か理由があったのだ。大衆から見て納得の行く理由であれば罪は軽くなる。この世では、納得できる理由があれば殺人であってもどうやら許されるらしかった。
「クゼ」
「何?」
「殺してくれなんて言われても、俺は嬉しくねえよ」
「ごめんね」
「そうだな、謝れ」
言われて、俺はもう一度謝った。
ゆっくりした時間が流れる。時間の経過とともに、もうだめかもしれないと喚いていた心が静けさを取り戻す。
殺してとは言わない。これは一生の禁句にしよう。
「……嫌いになりゃしねえよ」
最後にもう一度、イヴァンが静かに言った。
そもそも俺たちはこの先外に出ることもなくただ死を待つのみ。それを思えばここに関わるすべての人に価値はない。看守だって無意味だ。
「かわいそうに」
房へ戻る途中、独り言が外に出た。
「かわいそう?」
怪訝そうにイヴァンが尋ねてくる。俺にはそれが嬉しかった。
「清掃班。特に洗濯班なんてあの臭い防護服を洗うんだ。俺は絶対嫌だ」
「下水もくせえけどな」
イヴァンが言う。
「あ、けどいいもんも流れてくるからいいのか……。いや、清掃班でも拾えるか」
「イヴァン金儲けばっか」
「最近の唯一の楽しみなんだよ」
「最近? 前は?」
「前は他にも楽しみがあったからな」
今はなくなったの? と聞こうとして質問が続いてしまっていることに気が付く。うざがられないだろうか。うざがられたら嫌だ。嫌われたくない。
こんなことを考える自分にゾッとした。少し前までは死ぬまでは生きようと適当に生きていたのに、今はイヴァンに嫌われないことが俺の全てになっている。自覚した途端怖くなった。今まで人に好かれたことなんてない。いつも好かれたくてたまらなかったけれど、実際に好かれたことはなかった。イヴァンは今俺のことをどう思っているのだろうか。嫌われてはいないはずだ。なぜなら俺が生きているから。気に入らなくなれば多分殺す。
「何? 急に黙って。変なやつ」
イヴァンがさらに怪訝そうに俺の顔を覗きこんできて俺はすっかり困ってしまった。しかも焦っているから思考がまとまらない。俺は今までイヴァンとどうやって会話していたっけ? どうやって一緒にいた? 嫌われないようにと考えれば考えるほど口が重たくなっていく。
そうこうしているうちに俺達の房へと着いた。ロックを解除したイヴァンの後に付いて中へ入る。
死を待つだけの監獄は、あらゆるところが緩い。俺はいくつか刑務所を回ってきたが、ここの房が一番居心地良く生活できる。同室者が最低だったら最悪の場所だが。ここはちゃんと壁とドアがあるため、房の中が外から見えないようになっている。覗き窓はあるが布で覆っても怒られないし、騒がない限り声が漏れることもない。
しっかりとドアを閉め、俺はまっすぐベッドへ倒れこんだ。心地良くない薄いシーツに抱かれ、体を弛緩させる。何か言わないと嫌われてしまうが、何も考えられない。どうしよう。
「クゼ、なんか今日変じゃねえ?」
頭がわずかに沈んだ。イヴァンが俺のベッドに腰掛けたのだろう。俺は答えを探した。
どうして話せないんだ? それは今までどうやって話していたのかわからなくなったから。今までどうやって話してたっけ? これを英語で言えばいいんだ。そうだ。これを聞いても大丈夫な気がする。
「今までどうやって話してたっけ?」
聞いてみた。
「はあ?」
イヴァンが気の抜けた声を出す。大丈夫だ、親しみがこもっている気がする。
「わかんなくなったんだよ、俺。俺さ、今までイヴァンとどうやって話してたっけ?」
イヴァンの頭の上にはてなが並ぶ。しかしそう思ったのも束の間、彼は合点がいったかのようににやりと意地悪な笑みを浮かべ、俺の頭を撫でてきた。撫でられたことは記憶になく、奇妙な恥ずかしさに見舞われた俺は、けれど振り払うことなんてできずにシーツに顔を埋める。
「別に、いちいち考えなくても嫌いになりゃしねえよ」
イヴァンが言う。言葉の意味を理解した瞬間、更なる驚きとわけのわからない何かがこみ上げてきた。
「ああ、でも、裏切ったら嫌いになるな」
こみ上げてきたものがしぼむ。
「何すれば裏切ったことになんの?」
シーツから顔を上げてイヴァンを見る。さっきは意地悪な笑みを浮かべていたのに、やけに優しい顔をしているように見えた。希望だろうか、それとも本当に優しい顔をしているのだろうか。俺には判別できないが、本当だったらすごく嬉しい。
「さあな。わかんねーよ。その時じゃないと」
「質問するのうざくない?」
「は?」
「俺、こんなこというのすげーうざいし女々しいけど、嫌われたくないんだよ」
今ので嫌になったら殺して、とさらに女々しいことを呟く。今死んでもいいと思った。なんか辛い。最近は前よりもイヴァンと近づいた気がしているのに、今はなんだかつらい。
どうして辛いんだろう? わけがわからない。
売られた時より、かつて人として扱われていなかった時より、一人で狭い箱のなかにいる時より、イヴァンのいる今のほうがずっと辛い。
「……嫌われたくない」
イヴァンはきっとこんなことをいう俺に呆れ返るだろう。俺は今日死ぬだろうか。明日には下水を流れるだろうか。
俺の頭に置かれていたイヴァンの手が頬に降りてくる。
「鬼かよ、俺。お前の中でどうなってんの」
上からイヴァンの苦笑が落ちる。
「まあ、鬼か。終身刑だしさ。時代が時代なら死刑だな、絶対」
「鬼じゃない。……ねえ、イヴァンは何してここに来たの?」
「人殺した」
「死んで当然の人だったんでしょ?」
「死んで当然のやつなんていないんじゃねーの?」
「いないのかな」
「いないらしいぜ。前言われたことある。死ぬべき人なんていないのよ、人殺し、命で償えって」
「矛盾してる」
「そんなもんだろ、人間なんて」
とてつもなく優しい顔で、声で、イヴァンが言った。
イヴァンはいいやつだ。こんなふうに笑えるならイヴァンは冤罪だ。彼を見上げ、改めて思った。世の中には死ぬべき人はいないという。彼が人を殺したのなら、何か理由があったのだ。大衆から見て納得の行く理由であれば罪は軽くなる。この世では、納得できる理由があれば殺人であってもどうやら許されるらしかった。
「クゼ」
「何?」
「殺してくれなんて言われても、俺は嬉しくねえよ」
「ごめんね」
「そうだな、謝れ」
言われて、俺はもう一度謝った。
ゆっくりした時間が流れる。時間の経過とともに、もうだめかもしれないと喚いていた心が静けさを取り戻す。
殺してとは言わない。これは一生の禁句にしよう。
「……嫌いになりゃしねえよ」
最後にもう一度、イヴァンが静かに言った。