早寝記録


 食堂に見覚えのある、けれども珍しい顔を二つ見つけた。
 味気ないスープを喉の奥に流し込みながら彼らを観察する。塩崎と姚。前に見た時よりも距離が近い。心の距離が近くなったのだろうか。俺たちはどうだろう。隣にいるイヴァンとの距離を測ってみる。拳一つ分の距離だ。十分近い。それに少し安心して、わずかに距離を詰める。
「どうかしたのか?」
「距離を詰めたんだよ」
「尻振ったようにしか見えなかった」
「俺尻なんか振んねえし」
「振ってみれば? わんさか来んじゃねーの?」
「何が来るっていうんだよ」
「変態」
 イヴァンが俺を嘲笑する。意地悪だ。ひどい、と思いながら太くて長いウインナーにフォークを突き刺す。昨日咥えた変態のものだと思って思いきり突き刺した。
「愛のあるレイプって、イヴァンしたことある?」
 ふと気になって尋ねてみる。イヴァンが目を丸くして俺を見た。ある、と答えられたら俺はショックだが、同時にどんなものか知りたいと思った。
「まず、愛のあるレイプは存在しないと思うけど。……いや、一方的にならあるのか……?」
「ふうん。ないのか」
「いや、まあ、いいや。つうかなんだよいきなり。辺りのやつら見てるよ」
「なんで? 意味わかんねーんだけど」
 見回せば、確かにそばに座っている囚人たちもイヴァンみたいに目を丸くして俺を見ていた。
「意味わかんねーんだけど」
 もう一度言う。いらだっていた。これじゃ俺だけがおかしいみたいだ。いや、俺だけがおかしいのか。もしかしたら国柄の違いかもしれない。今度塩崎に聞いて……いや、やめておこう。塩崎に聞いて彼もイヴァンのような反応をしたら俺はさらにショックを受ける。
 食事が終わり、いつものように下水掃除をしていても、朝のことが頭を離れなかった。愛のあるって俺は聞いたけど、愛ってなんだろう。どんなものだろう。漠然とはわかるけど、感じたことも無ければ受けたこともない。愛されたら、どんな気持ちになるんだろう。幸せなんだろうな、ということだけは想像できた。
「――ゼ、クゼ!」
 はっとして顔を上げる。汚水が下水道を流れていた。
「何してんだよ。ボーっと座って。もう誰もいねえよ」
 振り向くと、マスクを取ったイヴァンが呆れたように腰に手を当てて俺を見下ろしていた。
「もう終わったのか……」
「だいぶ前にな」
 それから俺はイヴァンに首根っこを掴まれて立たされた。
「なんでマスク取ってんの?」
「なんか息苦しいんだよ。死ぬ。ほら、さっさと歩け」
 イヴァンが俺の首から手を離し、早足で歩いて行く。俺も彼の後を追う。息苦しいのに置いて行かないでくれたのか。それにマスクを取ってまで迎えに来てくれた。倉庫に差し掛かった所で、イヴァンが俺のマスクを強引に脱がす。
「何笑ってんの」
「え?」
「にやけてた。クゼ、今日おかしいな。朝から」
 そして華麗に防護服を脱ぐと、ぼうっとしている俺のものも手早く脱がせてくれた。イヴァンはそれをぞんざいに倉庫の中に投げ入れ、俺の手首を掴んで居住区へと繋がる階段を上がっていく。
 しばらく上がったところでイヴァンの手が離された。
「今日のクゼ、いつもよりとろい」
「ごめん」
 イヴァンが大きく息を吐く。
「やっと息吸える」
「……先帰っても良かったのに」
 本当は待っていてくれて嬉しかった。次も待っていて欲しい。呼びに来て欲しい。一緒にいて欲しい。
「気まぐれだよ」
 けれど、当然イヴァンには伝わらない。
 暗い気持ちになりつつある。こんなんじゃイヴァンに嫌われる。暗いやつとか陰気なやつは人から好かれないから。話題を変えよう。
「イヴァン」
「なんだよ」
「あい……」
「アイ? なんだよ、まだ愛のあるなんとかとか考えてんの?」
「イヴァン、愛のあるキスしたことある?」
「はあ?」
 よほど驚いたのか、イヴァンが階段の中腹で立ち止まる。俺は、彼の三段下で止まった。イヴァンの呆れた眼差しが俺を捉えている。イヴァンが大げさに溜め息を吐いた。
「なんでいきなりそんなこと考え出したかわかんねーけどさ」
「俺も。ふっと思ったんだよ」
「クゼはしたことあんの?」
 イヴァンの問いに「ないよ」と即答する。イヴァンが三段、階段を降りた。
 見上げる間もなくイヴァンに顎を持ち上げられる。
「イヴァ――」
 次にやってきた息苦しさに、俺は目を閉じた。
 愛のあるキスを俺はしたことがない。だけどもし愛に一方通行がありえるのなら――結論付ける前に考えるのをやめる。
「俺、あるよ」
 顔を離し、イヴァンは一人でさっさと房へと戻ってしまった。
 俺に、無責任な熱を残して。