海月2
眠る気になれず、暗い房の中で膝を抱える。
夕食には行かなかった。イヴァンの行動の意味を考えるが俺の小さな脳味噌じゃ全くわからない。
でも一番はとにかく寂しい。
ドアを閉め切ると房の中に光はなくなる。もともと俺たちは死ぬまで入れておかれるだけの人間だから、労働しているときは管理されていても、その先はもう無法地帯。どこで誰が何をしていてもお構いなしだ。
はあ、と失望を込めて重く長い息を吐き出す。
俺は自分勝手だ。イヴァンの身よりも自分の寂しさを優先して憂えている。
イヴァンはおそらく独房にいる。あんなところにいるイヴァンのことは食事も喉を通らぬほど心配だが、なぜ心配なのかを一つずつ紐解いてみると、イヴァンがもしいなくなったり帰って来なければ俺が寂しいから、に行き着いてしまう。
人は自分のため以外に他人を心配できるのだろうか。精神の貧しい俺には無理な話だ。
房に戻ってからかろうじてケツの中の精液は洗い流した。イヴァンの手刀が彼らに決まっていたが、あいつらは死んだだろうか。あいつらのことを考えたからか、ケツが不快に疼く。体を這いまわる蛞蝓のような舌も何もかもが気持ち悪かった。
抵抗しなければ楽に生きていける。前まではいつ死んでもいいと思っていたが、今はできるだけ長くイヴァンと一緒にいたいから死にたくない。そのためには死なないようにしなければ。
抵抗すれば死ぬ確率は高くなるが、最近男に抱かれるのが耐えがたいほど苦痛になってきた。抱かれるたびにイヴァンが目に浮かんでしまう。
彼にとって俺は守る価値のないただの同室者だし、優しくしてくれるけれど彼が俺に欲情することはない。以前一度だけ彼がいらだっていた時に抱かれそうになったが、ついにイヴァンは俺をどうもしなかった。俺としたらしてくれたら嬉しいのだけれど、その願いは叶わないまま。
だからこれは俺の片思いであり、男に抱かれている時にイヴァンのことを考えるなんて彼にとってはいい迷惑だ。 ドアの外から聞こえるわずかな音すら不快で、俺は丸まっていた布団を手繰り寄せて頭から被った。音が遮断される。しかし、音が消えたことでイヴァンへの思いが強くなってしまった。
イヴァンはもう独房に入れられただろうか。入れられただろうな。どのくらいで帰ってくるのかな。あれほどの騒ぎを起こしたのだから、一週間はかかるかも。イヴァンは一週間も独房に入れられて大丈夫だろうか。いくらイヴァンでもあんなに暗いところで狭くて汚くてほとんど食べ物も与えられない肥溜めのようなところで、ああ、俺のせいだ俺のせいだ俺のせいだおれのせいだ――急に死にたくなった、罪の意識に踏み潰されそうだった、下水に行こう、下水に身を投げたらそのまま死んでしまえる。
イヴァンへの罪滅ぼし。俺が死んだら彼は笑ってくれるだろうか。いつの間にか俺の体は無様にうち震えていた。かちかちと歯が鳴る。ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい――いてもたってもいられずに俺は房から出た。そして下水めがけて走り出す。娯楽スペースにたむろしている囚人たちが俺に奇異の目を向けた。うっとうしい。殺してしまいたい。ここに刀があれば良いのに。一心不乱に下水を目指す。足をもつれさせながら暗い階段を駆け下りる。
「クゼ」
もうすぐ下水道だ、という最後の踊り場で、数人で固まっていた囚人の一人に腕を掴まれた。
「なにしてんの、クゼ」
「下水に行く」
馴れ馴れしく話しかけてくる彼を俺は知らなかった。いや、知ってはいるが話したことはない。金髪の悪魔だかなんだか、恥ずかしいあだ名で呼ばれている狂ったやつだ。名前は知らない。
「こんな時間に何しに」
「お前には関係ない」
男を見上げた。男は俺よりもかなり背が高く、見上げるはめになってしまう。イヴァンも高身長だが、この悪魔はイヴァンよりも背が高い。
「関係あるもんなあ、ハイゼはイヴァンのこと応援してるから」
悪魔の後ろで壁に背中を預けて立っている銀髪が嘲り笑う。悪魔はどうやらハイゼというらしい。そして、イヴァンと知り合いのようだ。これは名を覚えなければ失礼に当たるか――?
「あんた、イヴァンと仲良いの?」
「ま、君が来る前はよく一緒にいたね」
失礼に当たる。態度を改めよう。まずは、俺が下水に行く理由をきちんと説明しなければ。
「関係ないなんて言ってごめんなさい」
ぎこちなく頭を下げる。急に態度を変える俺をばかにしたのか、軽薄そうな銀髪が声を上げて笑った。
「で、何しに行くの? 君」
「身投げです」
正直に告げるとハイゼが怪訝そうに顔を歪めた。
「そういやイヴァン、同室者はネジが飛んでるって言ってたっけ」
今度は銀髪の隣に座っていた中国人がケラケラと笑う。アジア系を見分けるのが俺の唯一の特技だ。
それは困るなとハイゼが言う。彼は仲間である中国人の言葉を無視したようで、俺を掴む手に力を込めた。
「……身投げにはイヴァンの許可はいらないの?」
「は?」
「下水を流れていいかイヴァンに聞かなくていいの?」
イヴァンに、聞く?
俺が下水に身を投げるのはイヴァンへの罪滅ぼし。けど、そうか。俺が下水を流れることで罪が晴れるのか、確かに彼に聞かなければわからない。
悪魔の顔を見上げると彼は微笑んでいた。優しく微笑んでいるが、イヴァンからもらう優しさとは種類が異なる気がする。ハイゼのそれは俺にとってまがい物だ。
「イヴァンに聞いてみる」
けど、忘れていた。
「でもイヴァンは帰ってこない」
「大丈夫。三日経てば帰ってくる」
ハイゼが軽く言う。
「顔のきく看守がいるから聞いたんだ。独房に三日。軽いペナルティだね。」
昔なら二週間は普通にいたから、とハイゼが続けた。俺は何も返さなかった。判別できない感情の波に脳が心が付いて行かない。イヴァンが看守に連れて行かれてから、俺の心はほぼ機能を停止していた。
今の俺にまともな思考能力が欠如していることだけははっきりとわかっている。戻ろう。
俺の腕を掴んでいるハイゼの指を一本一本外していく。赤く手形が付いているのを一瞬だけ認識したがどうでもいいことに仕分けられ、次の瞬間には記憶から消えていた。
階段を登ろうと背を向ける俺にハイゼが声を掛けてくる。
「あいつに命令されてるんだ。『俺に何かあったら、必ず下水の踊り場で待ってろ』って」
それは俺の心にわずかに刺さった。
「ま、命令っていうかギブアンドテイクだけど」
階段を一段一段ゆっくりと上がる。そういえば、体が重い。凄まじい倦怠感だ。今頃ひどく扱われた影響が身にのしかかる。
イヴァンがどうしてハイゼにあんなことを依頼したのか、直接聞いてみたい。
三日寿命が伸びた。伸ばさなければいけない。それに、イヴァンに下水を流れるべきか否か訊かないと。
俺は、生きたままイヴァンの帰りを待つことに決めた。
夕食には行かなかった。イヴァンの行動の意味を考えるが俺の小さな脳味噌じゃ全くわからない。
でも一番はとにかく寂しい。
ドアを閉め切ると房の中に光はなくなる。もともと俺たちは死ぬまで入れておかれるだけの人間だから、労働しているときは管理されていても、その先はもう無法地帯。どこで誰が何をしていてもお構いなしだ。
はあ、と失望を込めて重く長い息を吐き出す。
俺は自分勝手だ。イヴァンの身よりも自分の寂しさを優先して憂えている。
イヴァンはおそらく独房にいる。あんなところにいるイヴァンのことは食事も喉を通らぬほど心配だが、なぜ心配なのかを一つずつ紐解いてみると、イヴァンがもしいなくなったり帰って来なければ俺が寂しいから、に行き着いてしまう。
人は自分のため以外に他人を心配できるのだろうか。精神の貧しい俺には無理な話だ。
房に戻ってからかろうじてケツの中の精液は洗い流した。イヴァンの手刀が彼らに決まっていたが、あいつらは死んだだろうか。あいつらのことを考えたからか、ケツが不快に疼く。体を這いまわる蛞蝓のような舌も何もかもが気持ち悪かった。
抵抗しなければ楽に生きていける。前まではいつ死んでもいいと思っていたが、今はできるだけ長くイヴァンと一緒にいたいから死にたくない。そのためには死なないようにしなければ。
抵抗すれば死ぬ確率は高くなるが、最近男に抱かれるのが耐えがたいほど苦痛になってきた。抱かれるたびにイヴァンが目に浮かんでしまう。
彼にとって俺は守る価値のないただの同室者だし、優しくしてくれるけれど彼が俺に欲情することはない。以前一度だけ彼がいらだっていた時に抱かれそうになったが、ついにイヴァンは俺をどうもしなかった。俺としたらしてくれたら嬉しいのだけれど、その願いは叶わないまま。
だからこれは俺の片思いであり、男に抱かれている時にイヴァンのことを考えるなんて彼にとってはいい迷惑だ。 ドアの外から聞こえるわずかな音すら不快で、俺は丸まっていた布団を手繰り寄せて頭から被った。音が遮断される。しかし、音が消えたことでイヴァンへの思いが強くなってしまった。
イヴァンはもう独房に入れられただろうか。入れられただろうな。どのくらいで帰ってくるのかな。あれほどの騒ぎを起こしたのだから、一週間はかかるかも。イヴァンは一週間も独房に入れられて大丈夫だろうか。いくらイヴァンでもあんなに暗いところで狭くて汚くてほとんど食べ物も与えられない肥溜めのようなところで、ああ、俺のせいだ俺のせいだ俺のせいだおれのせいだ――急に死にたくなった、罪の意識に踏み潰されそうだった、下水に行こう、下水に身を投げたらそのまま死んでしまえる。
イヴァンへの罪滅ぼし。俺が死んだら彼は笑ってくれるだろうか。いつの間にか俺の体は無様にうち震えていた。かちかちと歯が鳴る。ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい――いてもたってもいられずに俺は房から出た。そして下水めがけて走り出す。娯楽スペースにたむろしている囚人たちが俺に奇異の目を向けた。うっとうしい。殺してしまいたい。ここに刀があれば良いのに。一心不乱に下水を目指す。足をもつれさせながら暗い階段を駆け下りる。
「クゼ」
もうすぐ下水道だ、という最後の踊り場で、数人で固まっていた囚人の一人に腕を掴まれた。
「なにしてんの、クゼ」
「下水に行く」
馴れ馴れしく話しかけてくる彼を俺は知らなかった。いや、知ってはいるが話したことはない。金髪の悪魔だかなんだか、恥ずかしいあだ名で呼ばれている狂ったやつだ。名前は知らない。
「こんな時間に何しに」
「お前には関係ない」
男を見上げた。男は俺よりもかなり背が高く、見上げるはめになってしまう。イヴァンも高身長だが、この悪魔はイヴァンよりも背が高い。
「関係あるもんなあ、ハイゼはイヴァンのこと応援してるから」
悪魔の後ろで壁に背中を預けて立っている銀髪が嘲り笑う。悪魔はどうやらハイゼというらしい。そして、イヴァンと知り合いのようだ。これは名を覚えなければ失礼に当たるか――?
「あんた、イヴァンと仲良いの?」
「ま、君が来る前はよく一緒にいたね」
失礼に当たる。態度を改めよう。まずは、俺が下水に行く理由をきちんと説明しなければ。
「関係ないなんて言ってごめんなさい」
ぎこちなく頭を下げる。急に態度を変える俺をばかにしたのか、軽薄そうな銀髪が声を上げて笑った。
「で、何しに行くの? 君」
「身投げです」
正直に告げるとハイゼが怪訝そうに顔を歪めた。
「そういやイヴァン、同室者はネジが飛んでるって言ってたっけ」
今度は銀髪の隣に座っていた中国人がケラケラと笑う。アジア系を見分けるのが俺の唯一の特技だ。
それは困るなとハイゼが言う。彼は仲間である中国人の言葉を無視したようで、俺を掴む手に力を込めた。
「……身投げにはイヴァンの許可はいらないの?」
「は?」
「下水を流れていいかイヴァンに聞かなくていいの?」
イヴァンに、聞く?
俺が下水に身を投げるのはイヴァンへの罪滅ぼし。けど、そうか。俺が下水を流れることで罪が晴れるのか、確かに彼に聞かなければわからない。
悪魔の顔を見上げると彼は微笑んでいた。優しく微笑んでいるが、イヴァンからもらう優しさとは種類が異なる気がする。ハイゼのそれは俺にとってまがい物だ。
「イヴァンに聞いてみる」
けど、忘れていた。
「でもイヴァンは帰ってこない」
「大丈夫。三日経てば帰ってくる」
ハイゼが軽く言う。
「顔のきく看守がいるから聞いたんだ。独房に三日。軽いペナルティだね。」
昔なら二週間は普通にいたから、とハイゼが続けた。俺は何も返さなかった。判別できない感情の波に脳が心が付いて行かない。イヴァンが看守に連れて行かれてから、俺の心はほぼ機能を停止していた。
今の俺にまともな思考能力が欠如していることだけははっきりとわかっている。戻ろう。
俺の腕を掴んでいるハイゼの指を一本一本外していく。赤く手形が付いているのを一瞬だけ認識したがどうでもいいことに仕分けられ、次の瞬間には記憶から消えていた。
階段を登ろうと背を向ける俺にハイゼが声を掛けてくる。
「あいつに命令されてるんだ。『俺に何かあったら、必ず下水の踊り場で待ってろ』って」
それは俺の心にわずかに刺さった。
「ま、命令っていうかギブアンドテイクだけど」
階段を一段一段ゆっくりと上がる。そういえば、体が重い。凄まじい倦怠感だ。今頃ひどく扱われた影響が身にのしかかる。
イヴァンがどうしてハイゼにあんなことを依頼したのか、直接聞いてみたい。
三日寿命が伸びた。伸ばさなければいけない。それに、イヴァンに下水を流れるべきか否か訊かないと。
俺は、生きたままイヴァンの帰りを待つことに決めた。