海月
意外に高度な技術が取り入れられているのかもしれない。
下水は広い。いくつかのブロックに分けれられおり、ブロックごとに小さな小屋が数棟とトイレなどがある。俺はDブロックに割り振られていて、Aから数えてどこまであるかわからなかったが、今日でJまであることがわかった。だって俺は今Jブロックの廃材が置かれた小屋で汚い棒状の物を体内に突っ込まれたり出されたりしているから。
下水でレイプされることは今までなかった。同じブロックにはイヴァンがいるし、イヴァンが近くにいるときに襲われることはない。みんな彼を恐れている。
それにしても、下水には意外と高度な技術が取り入れられているのかもしれない。汚水が下水道を流れる低い地鳴りのような音は聞こえているのに、いつまでも鼻に残るあの独特の臭いはしていない。防護服は小屋の隅にある木の箱の中に入れられたが、ただの木ではないのか、そこからも臭いがしなかった。
こんなことを考えられるほど俺はこの状況に慣れきっている。控えめに喘ぎつつぼんやりと他のことを考える。嫌がっててもムリ! 我慢できなくて声がちょっと漏れちゃった! という一番喜ばれそうな演技を習得した俺は無敵だ。抵抗をしなければ殴られることはない。罵倒をそのまま受け付ける繊細な感情はすでに死んだし、これは俺の日課の一つといっても過言ではない。
俺の中に自分の棒(普通よりも少し短め)を思い切り突き上げた男がわずかに呻いた。その後すぐに温かいものでケツが埋まる感覚がした。意識して少しだけ悲しげな表情を拵えると、俺に乗っている男だけでなく周りのやつらも嬉しがった。
傷だらけの薄汚れた壁に取り付けられている時計をそっと窺うと、針が下水掃除の終了を教えてくれた。次いでベルが鳴り響き、下水中に労働時間の終わりを告げる。
俺で遊んでいたやつらが慌てて防護服を身に着けて小屋から出ていった。今日は週の終わりだからブロックごとに小さな集会があるのだ。思った通り、俺は小屋の中に投げ捨てられた。これから自分のブロックに戻ろうにも時間切れだし、戻るには各ブロックを通らなければならないからどっちみち看守に見つかってペナルティだ。箱に入っている防護服をそのままに、俺は剥ぎ取られた服だけを身に着けて埃っぽい床の上に座って天井を見上げた。
目に映る天井にはいく数もの黒ずみがあり、人間の顔や獣、無機物の何かなど様々なものに擬態をしている。
今回のペナルティはなんだろう。どうか、独房だけはやめてほしい。
殴られるのも鞭打たれるのも死体処理も俺の死ぬほど恐れる飛ぶ虫の中に突っ込まれるのも喜んでやるから、独房に数日間突っ込むのだけはやめてほしい。悪臭も食べ物がないのも光がないのも殴られるのも全部我慢できるけど、イヴァンと何日も会えないなんて今の俺には耐えられない。けれど嫌がってどうにかなるものではない。看守に抱かれたり好きにさせて回避できれば良いが、俺は弱いし抵抗もしないからいつでも好きなときに好きにできると有名だ。だからこの方法は使えない。
――きっと独房に入れられる。
今日はほぼ労働をサボっていたし、集会にも出ず持ち場とは異なるブロックにいる。きっと独房だ。鉛のような体を動かし、膝を抱え込んでそこに顔を埋めた。目を閉じると、水の流れる音と、人の声がわずかに聞こえてきた。集会が終わったのだろう。看守が俺を見つけるまであと少し。
看守特有の厭味ったらしく硬質な靴音が近付いてくる。Jブロックの看守だろうか。だが、どうでもいい。目を伏せたまま、大人しく見つかるのを待つ。足音が止まる。
ドアノブが回る音がする。キイ、と金具が切なく軋んだ。
「クゼ」
看守による精神的な死刑宣告を覚悟していたのに、聞こえたものは幻聴だった。幻聴を独房に持って行けたら、もしかすると俺は寂しさを感じずに済むかもしれない。
「顔上げろ、クゼ」
馬鹿げた想像は、強く腕をつかむ熱によって吹き飛ばされた。逆光でよく見えないが、俺の望んでやまない人の影が浮かび上がる。
「……イヴァン」
「早くしろ。こんな日に集会さぼるとかばかだろ」
光の下で改めて見たイヴァンは軽装だった。かろうじて鼻と口を覆うマスクをしているものの、他は今の俺と同じくむき出しの状態だ。
突然のことに動けず固まっている俺に彼は舌打ちし、掴んだ俺の腕を掲げるように持ち上げた。浮遊する体にふわふわした意識は若干鮮明になり、自分の足で立つことに成功する。
「走れ」
イヴァンに引っ張られ、俺は小屋から走り出た。小屋からすぐ出たところにJブロックの看守と思われる男が転がっていた。
「イ――っ」
名も呼べずに咳き込む。醜悪な空気に中をやられたのだ。
「しゃべんな、ばか」
うん、と小さく頷いて俺はイヴァンに掴まれている幸福な右手を見下ろした。先日、ガラスなどの破片散らばる冷たい床に転がって出来た傷がいたるところに見える。汚い腕だ。それでもイヴァンに掴まれているそこは、俺のどんな器官よりも美しく輝いている。
イヴァンは迷いなく走っていた。
小屋から数十秒走ると、帰ろうと列をなす防護服姿の囚人たちの姿が見えてくる。彼らはみな居住区へと繋がる階段への入り口めがけてのろのろと歩いており、扇状に滞っていた。
「イヴァンとクゼだ」
俺たちを見つけた囚人にじろじろと好奇の目を向けられる。
ふいにイヴァンが装着していたマスクを外し、俺に押し付けた。
「つけてろ」
「ちょっと、イヴァ――」
俺のいうことなんて聞こうともせずイヴァンが囚人たちの列に突っ込んでいく。数ブロック毎に一つの階段。猛然と向かってくるイヴァンに気が付いた囚人たちが騒ぎ始めた。それぞれの発した意味のある言葉は、もはや醜悪なる音の塊でしかなった。
俺はただその場に立ち竦んで目の前で繰り広げられる何かを受け入れる準備をしていた。
列のしっぽにいる囚人たちがイヴァンの普通ではない様子に怖気づいたのか、慌てて列から離れようと散り散りに走る。何人もの囚人が俺の横を通り過ぎていく。イヴァンが近くにいた数人の囚人を蹴り飛ばし、一人の囚人の首を掴んで振り払うと、周りの囚人たちをなぎ倒した。まるで芸術だった。彼は踊るように華麗に周囲の人間たちを伸していく。
「あ」
列の中に、さっきまで俺に突っ込んでいたやつらもいた。やつらが小屋から出て行く時に見た背番号を俺はまだ覚えている。
「お!」
そいつらはイヴァンの手によってあっけなく散った。喉に一発もらっていたから死んだかもしれない。
「む……」
緊張が解けたのか、ケツからなにか熱いものが流れてきた。さっき注ぎ込まれた最悪なあれだろう。帰ったら一番にシャワーを浴びて洗い流さなければいけない。その前に房まで辿り着けるだろうか――考え事をしている間にも、イヴァンの周りには屍の山が築き上げられている。死んではいないだろうが、運の悪いやつが何人か死んでいるかもしれない。ひどくどうでも良いことだ。
その時、銃声と甲高い笛の音が鳴った。拡声器によるぼやけた怒声が辺り一帯に響く。
「何をしている! 全員手を組み後ろに回せ!」
声が聞こえた瞬間囚人たちが手を頭の後ろに回し口を閉ざした。
銃を構えた看守たちが凄まじい形相でぞろぞろと走って来る。彼らの硬質な足音は形式だけのクラシック音楽のようだった。
イヴァンが持っていた囚人を足元に投げて捨てて看守の言うとおりに手を頭の後ろで組んだ。彼の表情は普段通りで、怒りも狂気も何もなかった。ただ面倒くさそうにわずかに眉間に皺を寄せている。
逃げた囚人も多いが、人の壁に阻まれて逃げられずにいた者も多く、イヴァンが大人しくなった瞬間にかなりの囚人がその場にへたり込んだ。
まだぼんやりと事の成り行きを見ていた俺は、看守たちがイヴァンを取り押さえようと動き出したところで我に返りイヴァンに向かって足を進めたが、威嚇のための発砲と、来るな、と目で訴えかけてくるイヴァンによってその場に縫い付けられた。数人の看守が俺に方向転換したのが目に入る。
「クゼ、大人しくしてろ」
静かになった囚人たちの中で、イヴァンの声がはっきりと耳に届いた。
三人の看守が俺を拘束する。
俺の罪は、イヴァンの起こした騒動によって有耶無耶になり一つのペナルティも与えられなかった。
とぼとぼと房に戻る。俺は独房に入れられるのが嫌だったわけではない。もちろん入りたくないが、イヴァンと離れることが嫌だっただけだ。
二人用の房。ベッドが一つ、がらんと空いている。やがて、廊下の電気も消えて真っ暗になった。
ただ、イヴァンの帰らない房に戻って思うことは一つ。
寂しい。
これだけだ。
下水は広い。いくつかのブロックに分けれられおり、ブロックごとに小さな小屋が数棟とトイレなどがある。俺はDブロックに割り振られていて、Aから数えてどこまであるかわからなかったが、今日でJまであることがわかった。だって俺は今Jブロックの廃材が置かれた小屋で汚い棒状の物を体内に突っ込まれたり出されたりしているから。
下水でレイプされることは今までなかった。同じブロックにはイヴァンがいるし、イヴァンが近くにいるときに襲われることはない。みんな彼を恐れている。
それにしても、下水には意外と高度な技術が取り入れられているのかもしれない。汚水が下水道を流れる低い地鳴りのような音は聞こえているのに、いつまでも鼻に残るあの独特の臭いはしていない。防護服は小屋の隅にある木の箱の中に入れられたが、ただの木ではないのか、そこからも臭いがしなかった。
こんなことを考えられるほど俺はこの状況に慣れきっている。控えめに喘ぎつつぼんやりと他のことを考える。嫌がっててもムリ! 我慢できなくて声がちょっと漏れちゃった! という一番喜ばれそうな演技を習得した俺は無敵だ。抵抗をしなければ殴られることはない。罵倒をそのまま受け付ける繊細な感情はすでに死んだし、これは俺の日課の一つといっても過言ではない。
俺の中に自分の棒(普通よりも少し短め)を思い切り突き上げた男がわずかに呻いた。その後すぐに温かいものでケツが埋まる感覚がした。意識して少しだけ悲しげな表情を拵えると、俺に乗っている男だけでなく周りのやつらも嬉しがった。
傷だらけの薄汚れた壁に取り付けられている時計をそっと窺うと、針が下水掃除の終了を教えてくれた。次いでベルが鳴り響き、下水中に労働時間の終わりを告げる。
俺で遊んでいたやつらが慌てて防護服を身に着けて小屋から出ていった。今日は週の終わりだからブロックごとに小さな集会があるのだ。思った通り、俺は小屋の中に投げ捨てられた。これから自分のブロックに戻ろうにも時間切れだし、戻るには各ブロックを通らなければならないからどっちみち看守に見つかってペナルティだ。箱に入っている防護服をそのままに、俺は剥ぎ取られた服だけを身に着けて埃っぽい床の上に座って天井を見上げた。
目に映る天井にはいく数もの黒ずみがあり、人間の顔や獣、無機物の何かなど様々なものに擬態をしている。
今回のペナルティはなんだろう。どうか、独房だけはやめてほしい。
殴られるのも鞭打たれるのも死体処理も俺の死ぬほど恐れる飛ぶ虫の中に突っ込まれるのも喜んでやるから、独房に数日間突っ込むのだけはやめてほしい。悪臭も食べ物がないのも光がないのも殴られるのも全部我慢できるけど、イヴァンと何日も会えないなんて今の俺には耐えられない。けれど嫌がってどうにかなるものではない。看守に抱かれたり好きにさせて回避できれば良いが、俺は弱いし抵抗もしないからいつでも好きなときに好きにできると有名だ。だからこの方法は使えない。
――きっと独房に入れられる。
今日はほぼ労働をサボっていたし、集会にも出ず持ち場とは異なるブロックにいる。きっと独房だ。鉛のような体を動かし、膝を抱え込んでそこに顔を埋めた。目を閉じると、水の流れる音と、人の声がわずかに聞こえてきた。集会が終わったのだろう。看守が俺を見つけるまであと少し。
看守特有の厭味ったらしく硬質な靴音が近付いてくる。Jブロックの看守だろうか。だが、どうでもいい。目を伏せたまま、大人しく見つかるのを待つ。足音が止まる。
ドアノブが回る音がする。キイ、と金具が切なく軋んだ。
「クゼ」
看守による精神的な死刑宣告を覚悟していたのに、聞こえたものは幻聴だった。幻聴を独房に持って行けたら、もしかすると俺は寂しさを感じずに済むかもしれない。
「顔上げろ、クゼ」
馬鹿げた想像は、強く腕をつかむ熱によって吹き飛ばされた。逆光でよく見えないが、俺の望んでやまない人の影が浮かび上がる。
「……イヴァン」
「早くしろ。こんな日に集会さぼるとかばかだろ」
光の下で改めて見たイヴァンは軽装だった。かろうじて鼻と口を覆うマスクをしているものの、他は今の俺と同じくむき出しの状態だ。
突然のことに動けず固まっている俺に彼は舌打ちし、掴んだ俺の腕を掲げるように持ち上げた。浮遊する体にふわふわした意識は若干鮮明になり、自分の足で立つことに成功する。
「走れ」
イヴァンに引っ張られ、俺は小屋から走り出た。小屋からすぐ出たところにJブロックの看守と思われる男が転がっていた。
「イ――っ」
名も呼べずに咳き込む。醜悪な空気に中をやられたのだ。
「しゃべんな、ばか」
うん、と小さく頷いて俺はイヴァンに掴まれている幸福な右手を見下ろした。先日、ガラスなどの破片散らばる冷たい床に転がって出来た傷がいたるところに見える。汚い腕だ。それでもイヴァンに掴まれているそこは、俺のどんな器官よりも美しく輝いている。
イヴァンは迷いなく走っていた。
小屋から数十秒走ると、帰ろうと列をなす防護服姿の囚人たちの姿が見えてくる。彼らはみな居住区へと繋がる階段への入り口めがけてのろのろと歩いており、扇状に滞っていた。
「イヴァンとクゼだ」
俺たちを見つけた囚人にじろじろと好奇の目を向けられる。
ふいにイヴァンが装着していたマスクを外し、俺に押し付けた。
「つけてろ」
「ちょっと、イヴァ――」
俺のいうことなんて聞こうともせずイヴァンが囚人たちの列に突っ込んでいく。数ブロック毎に一つの階段。猛然と向かってくるイヴァンに気が付いた囚人たちが騒ぎ始めた。それぞれの発した意味のある言葉は、もはや醜悪なる音の塊でしかなった。
俺はただその場に立ち竦んで目の前で繰り広げられる何かを受け入れる準備をしていた。
列のしっぽにいる囚人たちがイヴァンの普通ではない様子に怖気づいたのか、慌てて列から離れようと散り散りに走る。何人もの囚人が俺の横を通り過ぎていく。イヴァンが近くにいた数人の囚人を蹴り飛ばし、一人の囚人の首を掴んで振り払うと、周りの囚人たちをなぎ倒した。まるで芸術だった。彼は踊るように華麗に周囲の人間たちを伸していく。
「あ」
列の中に、さっきまで俺に突っ込んでいたやつらもいた。やつらが小屋から出て行く時に見た背番号を俺はまだ覚えている。
「お!」
そいつらはイヴァンの手によってあっけなく散った。喉に一発もらっていたから死んだかもしれない。
「む……」
緊張が解けたのか、ケツからなにか熱いものが流れてきた。さっき注ぎ込まれた最悪なあれだろう。帰ったら一番にシャワーを浴びて洗い流さなければいけない。その前に房まで辿り着けるだろうか――考え事をしている間にも、イヴァンの周りには屍の山が築き上げられている。死んではいないだろうが、運の悪いやつが何人か死んでいるかもしれない。ひどくどうでも良いことだ。
その時、銃声と甲高い笛の音が鳴った。拡声器によるぼやけた怒声が辺り一帯に響く。
「何をしている! 全員手を組み後ろに回せ!」
声が聞こえた瞬間囚人たちが手を頭の後ろに回し口を閉ざした。
銃を構えた看守たちが凄まじい形相でぞろぞろと走って来る。彼らの硬質な足音は形式だけのクラシック音楽のようだった。
イヴァンが持っていた囚人を足元に投げて捨てて看守の言うとおりに手を頭の後ろで組んだ。彼の表情は普段通りで、怒りも狂気も何もなかった。ただ面倒くさそうにわずかに眉間に皺を寄せている。
逃げた囚人も多いが、人の壁に阻まれて逃げられずにいた者も多く、イヴァンが大人しくなった瞬間にかなりの囚人がその場にへたり込んだ。
まだぼんやりと事の成り行きを見ていた俺は、看守たちがイヴァンを取り押さえようと動き出したところで我に返りイヴァンに向かって足を進めたが、威嚇のための発砲と、来るな、と目で訴えかけてくるイヴァンによってその場に縫い付けられた。数人の看守が俺に方向転換したのが目に入る。
「クゼ、大人しくしてろ」
静かになった囚人たちの中で、イヴァンの声がはっきりと耳に届いた。
三人の看守が俺を拘束する。
俺の罪は、イヴァンの起こした騒動によって有耶無耶になり一つのペナルティも与えられなかった。
とぼとぼと房に戻る。俺は独房に入れられるのが嫌だったわけではない。もちろん入りたくないが、イヴァンと離れることが嫌だっただけだ。
二人用の房。ベッドが一つ、がらんと空いている。やがて、廊下の電気も消えて真っ暗になった。
ただ、イヴァンの帰らない房に戻って思うことは一つ。
寂しい。
これだけだ。