鉄パイプ
鉄パイプがベストだ。
色々考えた結果、この結論に至った。何がって、もちろん武器の話だ。けれど、武器なんて持っていたら余計狙われるかもしれない。殺意を持つとそれに比例して殺される確率も高くなる。
寝心地の悪いベッドの上で膝を抱える。
武器……刀とか、斬れるものが好きだが、経験上我を忘れる度に刑務所を移された。ここが最後に行き着く場所だけど、もしかしたら別の棟に移されるかもしれない。一緒にいたいからそれはなんとしても避けたい。
「何してんの」
ドアが開いて入って来たのはイヴァンだった。額に汗が浮かんでいる。何をしていたのだろうか。気になったが尋ねられず、俺は雑念を振り払うかのように相談した。
「……俺、武器でも調達しようと思うんだけどさ」
「武器? いいんじゃねえの? つうか、使えんの? クゼ、強そうには見えねえんだけど」
イヴァンが俺の隣に腰掛ける。ちらりとイヴァンを見ると、少し高い位置にある整った顔が近くてにやけてしまいそうになるのをなんとか堪えた。
「使い方が合ってるかは知らないけど、刀は好きだった。だけど、勢い余って殺しちゃったらだめだからまだ考えてる」
「カタナ? ま、なんでも良いけど、別に勢い余って殺しちゃってもいいんじゃねーの」
イヴァンがそう言って目を細める。そして静かに続けた。
「俺はクゼが殺してるところ……まではいかなくても抵抗してぼろぼろになってるとこは見てみてえな」
「ぼろぼろになってるところ? それならすぐ見せられるだろうね。だって俺反抗的に生きるって決めたし」
『誰にもやらせんな』、『俺が殺すまで生きてろ』。ついこの前言われたことを思い出しながら言う。
「なんだよ。随分不満気に言うんだな」
「別に、不満じゃない」
やけに嬉しそうな声のイヴァンは、声だけじゃなく顔まで嬉しそうににやけていた。そんなに俺がぼろぼろになって抵抗しているところが見たいのか。
だとしたら、イヴァンはサディスティックな嗜好の持ち主だ。あ、そうだとするともしかしたらぼろぼろになって抵抗している俺を見て、本当にひょっとしたらだけど興奮してくれるかもしれない。そう、俺に! そうなったら俺はなんだか嬉しくて死んでしまうかもしれないけれど死んだらいけないから人生とは難しい。
「不満じゃねえの? ふうん、そっか」
「不満じゃないよ。別に、俺死んでもいいとは思ってたけど、死にたくなることもあるけど、死のうとしたことはない」
「ハイゼに止められたじゃねーか」
あ、と思った。そういえば下水に身を投げようとした時止められたんだった。ハイゼがいなかったらきっと俺は今頃灰になっている。
「俺、都合の良い人間なんだ」
自分で言うかよ、とイヴァンが笑う。
今日の彼はよく笑う。はじめに年齢を聞いた時は三つも四つも大人に見えたが、目を細めてにかりと笑うイヴァンは歳相応に見えた。
しかし、これほど機嫌が良いなんて何か良いことでもあったのだろうか。汗をかいていたし、もしかしたらいいことをしてきたのかもしれない。誰と? そういえば俺が同室者になってからイヴァンはどこでどうやってむらむらを解消しているのだろう。
イヴァンが誰かにむらむらしている姿を想像しただけで体中にヘドロのような汚い感情が巡る。俺には嫉妬する権利なんてないのに、今感じているこれは多分嫉妬だ。
「何だよ変な顔して」
イヴァンが不思議そうに俺の顔を覗き込んだ。アイスブルーの瞳に吸い込まれそうになりながら考える。どうしよう。むらむらをどうやって解消しているのですか。聞いてみたら引かれるかな。引かれるだろうな。だってこれはプライベートなこと。それに聞きたくない。答えてほしくない。答えがあってほしくない。イヴァンは誰のものでもないんだ。一瞬でも誰かのものであってはいけない。
だから、聞けない。
「なななななんでもない」
「なんでもなくないじゃん。すげーどもった」
「汗、イヴァン、汗かいてる」
俺の指摘にイヴァンはたった今気が付いたように額に手をやった。白く長い指にきらきらと光る汗が拭われる。
「走ったからな」
「運動?」
「いや、ハイゼに追われてた」
「そうなんだ」
額に浮かんだ汗の理由を知り、俺はほっと胸を撫で下ろした。
でも根本は何もわかっちゃいない。むらむらした時はどうやって解消しているのですか。これはわかっていないのだ。もしも俺が空気だったらイヴァンの後をつけて調査に乗り出すがあいにく俺は空気じゃないから後を上手につけることはできない。
俺とイヴァンの間に沈黙が生まれる。ドアの外はお下品な囚人たちの声で満ちていた。壁一枚あるだけでそれが非現実のもののように感じられる。ずっと遠くの世界の音。その世界とこの房は交わらず、断絶している。実際にこうなったら二人だから諦めようなんて言って、ずっと二人でいられる。嫌われても疎まれても一緒にいられたら俺は喜ぶ。イヴァンに嫌われるのは耐えられないが、二人の世界ならば俺は満足する気がした。
こんな胸の内をイヴァンが知ったら彼は俺をどう思うだろう。面倒くさいと思うかな。
「つーかやっぱ変だろ、クゼ。どうしたの」
「な、んでもないよ」
「隠し事? お前――」
イヴァンが気色ばむ。
「いつもどうやって解消してるのですか!」
不穏な言葉が彼の口から放たれる気がして俺はイヴァンが言い終わる前に叫んだ。
「……何を?」
もっともな反応!
「解消……って、イライラ?」
イヴァンが不思議そうに首を傾げた。申し訳なくなる。だからせめて答えよう。
「……ムラムラ」
非常に微妙な沈黙がやってくる。そして迷惑なことに中々去ろうとしない。
永遠とも思えるほどの時が流れた。実際は五秒だったかもしれないが、イヴァンを待った三日よりも長かった。
「んなこと気にしてんの?」
イヴァンが呆れ気味に吐き捨てると、もうだめだった。いたたまれなさとか羞恥心が矢になって俺に突き刺さる。
「気にしてごめん!」
また叫んで、少し頭を冷やすために図書室にでも行こうと立ち上がろうとしたが、イヴァンに思い切り腕を引かれ、ベッドに倒れ込んだ。
イヴァンが俺に覆いかぶさるようにしてベッドに上がった。押し倒されているような状況にいやが上にも気分が高まる。だって、俺はずっと心の奥底でイヴァンを望んでいたのだ。多分今もイヴァンにやる気はないと思うけど、この状況に燃えてしまう自分がいた。
「適当なやつ捕まえて解消してる」
息ができなくなった。燃え始めたものが一瞬で沈火。むしろ凍りつく。
「……って言ったらショックなの?」
溶けた。
「つうか、ショックな顔してんだけど。なんで?」
冷たく、氷のようだと思った。彼は面白がっているようだった。今まで俺はみんなから蔑まれたりかわかわれたり殴られたり暴言を吐かれたり結構散々な目に遭ってきた。誰よりもイヴァンは優しいのに、かつて受けたどんな言葉よりも俺を傷つける。
「なんでかなんてわかんない」
俺は嘘を吐いた。好きだから、なんておこがましくて言えやしない。たとえ殺されたって言えない。イヴァンはおそらく俺が彼を好きだってことをわかっているけど、だからといって俺が彼に何かを要求しちゃいけない。願っちゃいけない。
俺はいつも人に好かれたかった。
けれど、俺に人から好かれるだけの価値はない。好きになってほしいと願ってもいいけど、価値の無い俺がこんな宝物を手に入れたらだめだ。なんてことを考えていると、ありえないところにありえない刺激を感じた。
「イヴァン!?」
「なんだよ、うるせえな」
静かにしてろ、と言ってイヴァンは俺のズボンの中に手を突っ込み、下着の上から俺の、俺のアレをこすり始めた。
「何してんの何してんの何してんの何してんの」
「いいだろ。気持ち良くしてやるよ」
「い、いいよ!」
「むらむらしてんじゃねーの? 最近やってねえんだろ」
「いっ――」
最近だれのあれも受け入れていない俺の入り口はイヴァンの指を完全に拒んでいる。
「ほら」
「やめろって、イヴァン」
情けない懇願も彼は無視し、やたらと慣れた手つきで俺を高めてくれる。快楽には慣れていない。うっかりすると泣いてしまいそうだった。
「俺、ダメだって」
「最近まで日常だったじゃん。こういうの」
イヴァンの手が止まる。わずかに上下する体が落ち着いてから、俺は真実を言う。
「気持ち良くなったことなんてないよ」
「喘いでただろ。覗いた時見た」
「……ああいう演技が長生きの秘訣なんだよ」
なんだか言っていて惨めになってきた。恥ずかしい。イヴァンに見られたくない。
のしかかられている以上逃げも隠れもできないけれど、俺は腕で顔を覆って横向きに体を丸めた。
「……なんだよ」
イヴァンが呟くのを俺は自らが作り出した暗闇の中で聞いた。嫌われたらどうしよう。けど、今は顔を上げられない。
カチ、と音がして、さらに暗くなる。それから、背中に温かさが来て、それが全体に広がった。
「イヴァン……?」
温かさの理由が思い当たったが、まさか信じられなくて目を開ける。電気が消えてる。体に布団がかかってる。
「そのうち萎えるだろ」
すぐ傍でイヴァンが言う。距離はあっても一センチ。腹にかかる圧力はイヴァンの腕だ。
こんな事実が頭の中に入って来た時、火を吹けると錯覚するほど全身が隈なく燃えた。
気持ちの絶頂って、こんな感じじゃないだろうか。エクスタシー! 今俺はなんかすごい幸せな体験をしている。今死ねたらこれだけでいい人生だったと思える。生まれてきて良かった。
「今度ケツ借りる」
生への喜びを感じているとイヴァンが意地悪な調子で言った。なんだろう。今日のイヴァンは幸せをばらまいて歩いているのか。
イヴァンがむらっと来るその日まで、なるべく綺麗な体でいようと俺は俺に誓った。
手頃な鉄パイプを探そう。