早寝記録

衝動

 入った瞬間後悔した。
 部屋で過ごす、と言ったクゼを置いて図書室に行こうとしたところまでは良い。なんとなく、何の気なしにふらりとハイゼの房に寄ったのが運の尽きだった。鍵を開けてもらい房の中に入ると最悪な人物がハイゼの部屋にいた。
「また群れてる……」
 うんざりして言うと、ハイゼがお前も来てるじゃねえか、と笑った。そこで立ち去ればいいものを、すぐに立ち去るのは自分が苦手にしている人物に負けた気がするからと、俺は房の中に足を踏み入れた。
 房の中にはハイゼを含めて四人いた。ハイゼの同室者のカイ、彼らとだいたい一緒にいるロウ。あとは、ハイゼを慕う小悪党ヴァシリーだ。
 ヴァシリーは非常に可愛い顔をしているため小悪魔とか子猫ちゃんとかベーベちゃんとかなんだとか呼ばれることが多いが、悪党以外の何者でもない。
 ただ、ヴァシリーはハイゼに惚れているがハイゼはなんとも思っちゃいないから、俺はヴァシリーにいらだったり嫌味を言われたときは心の中で哀れむことで精神の均衡を保っている。
 狭い部屋に男五人は無理がある。空気がひたすらまずく感じた。
「すぐ行く」
 一言告げてから俺はハイゼのベッドに座った。
 隣にはハイゼ、その隣には床ではあるがヴァシリーがいる。彼をあまり目に入れたくなかった。
「僕がいて後悔してるんでしょ」
 何かに気付いたのか、ヴァシリーがハイゼ越しに笑いかけてきた。
「自惚れんなよ」
 てめえなんか気にするか、と吐き捨てたが、仲間たちが面白そうに自分たちを眺めるのがまた気に障る。
 ふと脳裏にクゼの顔がよぎる。こんなことになるなら、クゼと一緒に房にこもっていれば良かった……。
「なあなあ、お前の彼女、しばらく見てねえんだけど、何してんの」
 イヴァンの上だけに訪れている悪い空気をカイがいつもの軽薄さで断ち切った。
「彼女?」
「彼女。クゼ、ちいせえしなんか女みてえじゃんか」
「そうかな」
 ロウが口を挟む。
「なんだよ、お前クゼの顔好きっつってたじゃん」
「女には見えない」
「まあいいじゃねえか、んなことはどうでも」
「良くねえよ、カマ好きみたいになるじゃねえか、俺が」
「なんでそここだわんの!」
「中性的っていうならまだ許せるけど」
「じゃあそれでいいよ、おい、イヴァン、最近お前の彼氏見てねえんだけど、何してんの」
「何って、変わったことはしてねえよ」
 正直に答えるが、カイは不服だったようだ。
「遠くからクゼとすっかり牙の抜かれた虎みたいになったお前を見るのが俺たちの楽しみだったのに、房にこもってるだろ」
「よく行ってた図書室にも二週間は来てないしね」
 ヴァシリーがしゃしゃり出てくる。
「僕、図書室の看守に聞いてみたんだよ。それまでクゼ君よく本借りに来てたのに、この前返しに来たきり来てないって言ってたよ」
「なんでお前が聞くんだよ。知らねえだろ、クゼのこと」
「なんでって、ハイゼが気にしてたからだよ。ハイゼ、ヴァーニャとクゼ君のこと面白……気にしてるからさ」
「ロシア式で、しかも馴れ馴れしく呼ぶんじゃねえよ」
「いいじゃない。似合ってるよ」
 本当に来なきゃ良かった。
「まあ、ヴァシリーはほっといて、聞かせてくれよ。クゼの身投げを止めたお駄賃もまだもらってねえしさ」
「は? やっただろ」
「下水の拾い物ね。俺、結構引き止めんの頑張ったんだぜ? ほら、言えよ」
 ハイゼが美しい顔を凶悪に歪めて笑う。俺は諦め、口を開く。どうせ自分はハイゼには勝てない。反抗は面倒臭いし、面倒臭いことはもともと嫌いだ。
「あいつ、外は危険だって気付いたんだよ。だから引きこもってる」
「危険?」
「レイプされてただろ、よく」
「それこそ今更じゃねえか。俺はお前となんかあったと思ってたけど。……見えなくなったの、ちょうどお前が独房から戻って来てからだから」
 この男はどこまでわかって言っているのだろう。俺はしげしげと隣にいる金髪の悪魔を眺めた。もしかしたら自分でも気づいていないことすらハイゼは知っているかもしれない。そう思わせるような底知れない瞳だ。
「あんまり簡単に突っ込ませんなって言ったんだよ」
 クゼに言った内容を少しだけ変えて伝えた。無意識にではあったが、誰にもやらせるなと言ったことを告げたら自分で気が付きたくなくて蓋をしている感情を先にハイゼに知られてしまう気がする。
「それを真に受けて頑張ってるってわけか」
 ハイゼがくつくつと笑う。
「クゼ、お前のこと大好きだからなあ」
 何がそんなに面白いのか、ハイゼはとことん邪悪な笑みをその美しい顔に浮かべている。
「守ってやれば?」とカイの脳天気な声が飛ぶ。
「だめだよ。そうしたらまた殺しちゃうよ?」
「ヴァシリー、黙れよ」
「だって、本当のことでしょ? 助けて助けて、飽きたら殺すんだ。クゼはまだ助けられてないから生きてるだけ」
 かわいそうだよねえ、と嘲りながらヴァシリーが頬を上げた。怒りにまかせて彼の小さな顔に思い切り拳をめり込ませたいが、なんとか耐える。今までは、ハイゼに止められはせよヴァシリーに向かって行っていたが、俺は震える拳をベッドに置いてやり過ごした。
 ここでヴァシリーを殴ったら看守にチクられて独房行きだ。ヴァシリーは看守と通じていて、なぜか俺を独房に突っ込むのが昔から好きだから。
「それは違うよ。まだイヴァン、クゼとやってすらいねえんだって。本当にただ単にタイプじゃねえだけじゃないの」
 ハイゼの口撃が飛んでくる。
「やってないって、へえ。そうなんだ」
 ヴァシリーがわざとらしく目を丸めた。横っ面を張り倒したい。
「だったらクゼ君かわいそー。自分のことなんとも思ってない男のために頑張ってるってことでしょ? せつなーい。ばかみたーい」
 ヴァシリーがケラケラと笑う。もう無理だった。怒りを押し殺し、無言で立ち上がる。
「あれ? 行くの?」
 ヴァシリーの声が背にかかる。このまま何も言わずに出て行けばいいんだ。そして、クゼのところに戻ろう。これで図書室に向かったら途中で目の合ったやつにケンカを吹っかけてしまいそうだし、下手すれば独房行き。独房から戻った日、クゼは三日振りに会えたと嬉しそうにしていた。俺はクゼを気に入っている。背後にいる糞共の思っているようなお花が飛ぶ素敵な関係じゃないにせよ、気に入っていることは認めている。だったら無闇にいなくなって悲しい思いをさせることはない。
 あと五分後には俺は自分の房にいる――俺は自らに念を唱えるように言い聞かせる。
 しかし、房の外に出てドアを閉めきった時、思わず口走ってしまった。
「クゼくんかわいそう、からの言葉、そのまんまてめえに返すよ」
 聞こえても聞こえなくても、伝わっても伝わらなくても良い。
 だが、自分はクゼを、今は一番気に入っている。ここに入ってから一応世話になったハイゼよりも、いつも大好きな金をくれるシャオよりも。
 だから、天使のような顔をして誰も愛さないハイゼに惚れているヴァシリーが一番「可哀想」だろう。
「クゼは、可哀想じゃねえ」
 こう独り言ち、俺はクゼのいる房へと帰った。