独占欲
それか、俺の後に付いてこい。
数日経ったあとも、この言葉は鮮やかに俺の耳に残っていた。その時のイヴァンの声が、時間が経つ内に甘美な響きとして記憶に定着しつつある。俺はまだ医務室で安静にしているが、許可が出たらすぐにでも帰りたかった。
こう考えて、どこかへ「帰りたい」と思ったのはひどく久し振りだということに気が付く。遠い昔、まだ何も知らない幼い頃、遊び疲れて思ったのが最後だったかもしれない。売られて一人遠い異国の地へと渡った時も、国に戻りたいと思うことはあったが家に帰りたいと思うことはなかったから。
イヴァンは、待っていてくれているだろうか。付いてこいと言い、満足したように笑ってくれているうちは待っていてくれていると信じたい。房へ戻った時、笑いかけてくれるだろうか。色々な思いが溢れてくるが、どれも幸福な思いだと感じた。
入院から五日後、俺は房へと戻った。
薬のお陰でもう目立つ傷はない。深い切り傷や大きくえぐれない限り、今の医療でなんとでもなる。
扉を開き、イヴァンと目が合ったらなんて言おう。こんなことばかり考えながら、俺はいよいよ扉に手を掛けた。
「やあ」
扉を開けてまず目が合ったのは、イヴァンの友人、ハイゼだった。再会を待ち焦がれていたイヴァンはというと、部屋の奥、ベッドの端に腰掛けてむすっとしている。
房の中には、イヴァンとハイゼの仲間たちがいた。ロウという中国人と、カイとかいう西洋人、それから、ハイゼの愛人らしい可愛い顔をした少年。たしかバリシー……バシ……ヴァシリーか。ヴァシリーとかいう名前だったと思う。彼は、土足で俺のベッドの上に座っていた。あとで洗わないと。
イヴァンとの再会を邪魔されたと勝手なことを思いそうになったが、即座に思考を殺してそんな考えを放棄する。イヴァンがいつ誰を房へ招こうと、俺は不満を抱けない。
何を考えているのか、みな俺を好奇心に満ちた目で見ている気がした。
「どうぞ、ごゆっくり」
邪魔になると思い、扉を閉めようとした時、何かに強く引っ張られて房の中に引き込まれる。力の強さと、ずっと寝ていたことによる体力低下で足に踏ん張りがきかず、ふと目の前も暗くなり、俺は膝をついた。視界は真っ暗だ。
「やっばーい。まだクゼ君全然ふらふらじゃん」
可愛らしいボーイソプラノの声が楽しそうに弾む。
「こかしちゃってめんごめんご」
俺の腕を引いたらしいカイという西洋人の声。全く悪いと思っていないだろう調子。
徐々に開ける視界を頼りに、とりあえず座るべき場所を探す。イヴァンとハイゼはイヴァンのベッドに腰掛け、ロウはその下にあぐらをかいている。俺のベッドは靴のままのヴァシリーと、片足を伸ばしもう一方の膝を立てて床に座っているカイに占領されていた。俺は仕方なく後ろにあるドアを閉め、そこに座った。昔はすぐに逃げられるドアの傍が好きだったが、イヴァンと同じ房になり、部屋の奥の隅が好きになった。安心できる場所だと、ドアの傍よりも隅のほうが落ち着く。俺のことは気にせず盛り上がって欲しかったが、カイの軽薄な謝罪を最後に誰も言葉を発さず、よりにもよってみな俺に注目している。それがすごくいたたまれなかった。まるで自分の房ではないような感覚。病室にいたときは一刻も早くイヴァンの元へ帰りたかったのに、今はこいつらが帰ったあとに戻りたかったと心底思った。
「それにしても、クゼくんちょっと太った?」
「え?」
ヴァシリーとか言う女男がにっこりと俺に笑いかける。
「肌ツヤが良くなった」
中国人のロウが無表情に口にする。ちなみに、俺はこのロウというやつは嫌いではない。こいつからは敵意とか、悪い感じは受けないから。中華系は以前売られた所ということもあり大嫌いだったが、そいつらとは雰囲気が違う。
「三食食べて昼寝もしてたから」
ロウに向けて答えてみると、彼は無表情を少しだけ緩め、「納得した」と言った。確か初めて会った時、俺が身投げのために下水に行こうとした時だったと思うが、その時はケラケラと笑っていたような気がする。
「ロウ! 気持ち悪いけどどうしたの? 僕ほら鳥肌。頭に蛆でも湧いた?」
「ほんと、まじで気持ち悪いな。なんだよそのフッ、って感じの笑顔。カッコつけてんのかよ。キモい。お前単純で素直でばかなのに、カッコつけてんじゃねえよ」
やはりいつものロウと何か違うのか、ヴァシリーとカイが大げさに気持ち悪がっている。
「タイプなんだっけ。クゼってロウの」
聖母のようなほほ笑みでハイゼが信じられないことを言う。良い便器とか最高のサンドバッグとかそっちのほうで褒められたことはあっても、タイプとかそういったことは言われたことがなく、ハイゼの言うことが嘘っぱちだったとしても少し嬉しい。
「うわっ。何!? ロウ、今度は赤くなったよ。ロウってさあ、もしや超純情? 僕また鳥肌が!」
「別に赤くなってねえよ」
耳を澄まさなきゃ聞こえないほど小さな声でロウが呟いた。
「まじでしょ! ロウってあれか!? ショタコンとかいうの! まじかあ!」
「お前らが老けてるだけ。クゼは歳相応だって」
「意味わかんねえよ! お前クゼの歳知ってんのかよ」
「十七、八だろ、どうせ。ショタじゃない」
「否定しないの? タイプってこと」
ハイゼに問われたロウが俺を見た。あまり男らしくないアジアの顔だ。目は少しつり気味で、鼻筋はすっきりと通っていて、色は白め。これで強くなかったらきっと俺みたいに男に弄ばれる人生を送っていた。
「飽きて殺す前に教えて」
ロウは俺からイヴァンに視線を移し、すくりと立ち上がった。イヴァンは何も言わずロウを睨む。今まで見たことのないくらい彼の眉間には皺が寄り、怒りが体中から立ち上っているように見えた。今はそれほど機嫌が悪いのだろう。俺が房に返って来た時もかなりのしかめっ面だったし、きっと、ヴァシリーたちになんか嫌なことを言われたんだ。
もし俺が強かったら何を言われたか聞いて、もし俺に甲斐性があったらみんなを締め上げて叩き出すのに。
「怖い怖い。じゃあ俺行くから。またね」
強さも甲斐性もない俺はロウがこっちへと歩き出したのを見てドアの前から避ける。ロウは俺の頭をひと撫でして房から出て行った。
ロウが去った後の房はイヴァンの醸す空気によってピリピリとしている。
けれど、俺の勘違いでなければ俺が房に入ってからずっと、かつてないほど不機嫌なイヴァンよりもハイゼの機嫌が悪い。穏やかに笑ってはいるがたまに目が合うと三日月に細められる目からはそこはかとない殺気を感じる。
彼が向けてくる感情に対して、今まで感じたことがないような感覚を覚えている。今まで俺はゴミや腐ったものを漁るドブネズミに向けられるような扱いを受けてきたけれど、ハイゼはきっと「俺自身」が嫌いだ。俺を俺と認識した上で嫌っている。
「お前らももう帰れよ」
めんどくせえ、とイヴァンが眉間の皺をそのままに溜め息まじりに言った。
「つまんないなあ。ロウ行っちゃうんだもんなあ……。戻ろうかな、僕も」
「そうだな。ハイゼ、行こうぜ」
「そうだね。何より邪魔しちゃいけないしね」
三人が立ち上がる。俺も立ち、自分のベッドへと向かった。一瞬ハイゼと擦れ違う時、やはり殺気を感じた。これは、多分勘違いではない。
数日経ったあとも、この言葉は鮮やかに俺の耳に残っていた。その時のイヴァンの声が、時間が経つ内に甘美な響きとして記憶に定着しつつある。俺はまだ医務室で安静にしているが、許可が出たらすぐにでも帰りたかった。
こう考えて、どこかへ「帰りたい」と思ったのはひどく久し振りだということに気が付く。遠い昔、まだ何も知らない幼い頃、遊び疲れて思ったのが最後だったかもしれない。売られて一人遠い異国の地へと渡った時も、国に戻りたいと思うことはあったが家に帰りたいと思うことはなかったから。
イヴァンは、待っていてくれているだろうか。付いてこいと言い、満足したように笑ってくれているうちは待っていてくれていると信じたい。房へ戻った時、笑いかけてくれるだろうか。色々な思いが溢れてくるが、どれも幸福な思いだと感じた。
入院から五日後、俺は房へと戻った。
薬のお陰でもう目立つ傷はない。深い切り傷や大きくえぐれない限り、今の医療でなんとでもなる。
扉を開き、イヴァンと目が合ったらなんて言おう。こんなことばかり考えながら、俺はいよいよ扉に手を掛けた。
「やあ」
扉を開けてまず目が合ったのは、イヴァンの友人、ハイゼだった。再会を待ち焦がれていたイヴァンはというと、部屋の奥、ベッドの端に腰掛けてむすっとしている。
房の中には、イヴァンとハイゼの仲間たちがいた。ロウという中国人と、カイとかいう西洋人、それから、ハイゼの愛人らしい可愛い顔をした少年。たしかバリシー……バシ……ヴァシリーか。ヴァシリーとかいう名前だったと思う。彼は、土足で俺のベッドの上に座っていた。あとで洗わないと。
イヴァンとの再会を邪魔されたと勝手なことを思いそうになったが、即座に思考を殺してそんな考えを放棄する。イヴァンがいつ誰を房へ招こうと、俺は不満を抱けない。
何を考えているのか、みな俺を好奇心に満ちた目で見ている気がした。
「どうぞ、ごゆっくり」
邪魔になると思い、扉を閉めようとした時、何かに強く引っ張られて房の中に引き込まれる。力の強さと、ずっと寝ていたことによる体力低下で足に踏ん張りがきかず、ふと目の前も暗くなり、俺は膝をついた。視界は真っ暗だ。
「やっばーい。まだクゼ君全然ふらふらじゃん」
可愛らしいボーイソプラノの声が楽しそうに弾む。
「こかしちゃってめんごめんご」
俺の腕を引いたらしいカイという西洋人の声。全く悪いと思っていないだろう調子。
徐々に開ける視界を頼りに、とりあえず座るべき場所を探す。イヴァンとハイゼはイヴァンのベッドに腰掛け、ロウはその下にあぐらをかいている。俺のベッドは靴のままのヴァシリーと、片足を伸ばしもう一方の膝を立てて床に座っているカイに占領されていた。俺は仕方なく後ろにあるドアを閉め、そこに座った。昔はすぐに逃げられるドアの傍が好きだったが、イヴァンと同じ房になり、部屋の奥の隅が好きになった。安心できる場所だと、ドアの傍よりも隅のほうが落ち着く。俺のことは気にせず盛り上がって欲しかったが、カイの軽薄な謝罪を最後に誰も言葉を発さず、よりにもよってみな俺に注目している。それがすごくいたたまれなかった。まるで自分の房ではないような感覚。病室にいたときは一刻も早くイヴァンの元へ帰りたかったのに、今はこいつらが帰ったあとに戻りたかったと心底思った。
「それにしても、クゼくんちょっと太った?」
「え?」
ヴァシリーとか言う女男がにっこりと俺に笑いかける。
「肌ツヤが良くなった」
中国人のロウが無表情に口にする。ちなみに、俺はこのロウというやつは嫌いではない。こいつからは敵意とか、悪い感じは受けないから。中華系は以前売られた所ということもあり大嫌いだったが、そいつらとは雰囲気が違う。
「三食食べて昼寝もしてたから」
ロウに向けて答えてみると、彼は無表情を少しだけ緩め、「納得した」と言った。確か初めて会った時、俺が身投げのために下水に行こうとした時だったと思うが、その時はケラケラと笑っていたような気がする。
「ロウ! 気持ち悪いけどどうしたの? 僕ほら鳥肌。頭に蛆でも湧いた?」
「ほんと、まじで気持ち悪いな。なんだよそのフッ、って感じの笑顔。カッコつけてんのかよ。キモい。お前単純で素直でばかなのに、カッコつけてんじゃねえよ」
やはりいつものロウと何か違うのか、ヴァシリーとカイが大げさに気持ち悪がっている。
「タイプなんだっけ。クゼってロウの」
聖母のようなほほ笑みでハイゼが信じられないことを言う。良い便器とか最高のサンドバッグとかそっちのほうで褒められたことはあっても、タイプとかそういったことは言われたことがなく、ハイゼの言うことが嘘っぱちだったとしても少し嬉しい。
「うわっ。何!? ロウ、今度は赤くなったよ。ロウってさあ、もしや超純情? 僕また鳥肌が!」
「別に赤くなってねえよ」
耳を澄まさなきゃ聞こえないほど小さな声でロウが呟いた。
「まじでしょ! ロウってあれか!? ショタコンとかいうの! まじかあ!」
「お前らが老けてるだけ。クゼは歳相応だって」
「意味わかんねえよ! お前クゼの歳知ってんのかよ」
「十七、八だろ、どうせ。ショタじゃない」
「否定しないの? タイプってこと」
ハイゼに問われたロウが俺を見た。あまり男らしくないアジアの顔だ。目は少しつり気味で、鼻筋はすっきりと通っていて、色は白め。これで強くなかったらきっと俺みたいに男に弄ばれる人生を送っていた。
「飽きて殺す前に教えて」
ロウは俺からイヴァンに視線を移し、すくりと立ち上がった。イヴァンは何も言わずロウを睨む。今まで見たことのないくらい彼の眉間には皺が寄り、怒りが体中から立ち上っているように見えた。今はそれほど機嫌が悪いのだろう。俺が房に返って来た時もかなりのしかめっ面だったし、きっと、ヴァシリーたちになんか嫌なことを言われたんだ。
もし俺が強かったら何を言われたか聞いて、もし俺に甲斐性があったらみんなを締め上げて叩き出すのに。
「怖い怖い。じゃあ俺行くから。またね」
強さも甲斐性もない俺はロウがこっちへと歩き出したのを見てドアの前から避ける。ロウは俺の頭をひと撫でして房から出て行った。
ロウが去った後の房はイヴァンの醸す空気によってピリピリとしている。
けれど、俺の勘違いでなければ俺が房に入ってからずっと、かつてないほど不機嫌なイヴァンよりもハイゼの機嫌が悪い。穏やかに笑ってはいるがたまに目が合うと三日月に細められる目からはそこはかとない殺気を感じる。
彼が向けてくる感情に対して、今まで感じたことがないような感覚を覚えている。今まで俺はゴミや腐ったものを漁るドブネズミに向けられるような扱いを受けてきたけれど、ハイゼはきっと「俺自身」が嫌いだ。俺を俺と認識した上で嫌っている。
「お前らももう帰れよ」
めんどくせえ、とイヴァンが眉間の皺をそのままに溜め息まじりに言った。
「つまんないなあ。ロウ行っちゃうんだもんなあ……。戻ろうかな、僕も」
「そうだな。ハイゼ、行こうぜ」
「そうだね。何より邪魔しちゃいけないしね」
三人が立ち上がる。俺も立ち、自分のベッドへと向かった。一瞬ハイゼと擦れ違う時、やはり殺気を感じた。これは、多分勘違いではない。