早寝記録

バカ面


 誰にもやらせんな、俺が殺すまで生きてろ。
 自分が言った言葉を思い返し、内心呆れ返る。
 だが、仕方がなかったのだ。今あの時に戻れたとしても俺は同じことを言うに決まっている。
 クゼは約束を受け入れたが、実際にレイプされそうになったらどうやって二つの約束を守るのか俺にはわからなかった。クゼは弱い。キレて武器を持ったら我を忘れて化け物になるのだとクゼのやったことを知ってた男は言ったが、普段のあいつはひたすら弱い。
 口先だけの約束かとも思ったが、クゼに限ってそれはないような気がした。その場だけで良いように演じられるならあいつはもっと上手い生き方ができている。
 初めから俺に取り入ることもできただろうし、俺の噂を知っているなら俺より強いやつの仲間になって身を守ることもできただろう。日本人は少ないが、多国籍グループだってあるのだから。
 それなのにクゼはずっと独りでいた。俺に好意を示すことはあったが、助けてくれとも言わないしボロボロで房に帰ってきても聞かない限り報告すらしない。
 感情の読めない曖昧な笑みが得意なようで、血だらけになっても「殴られた」とへらへら笑っていたのは怖かった。
(演技は上手いのか)
 ただ、俺の前ではやらないだけか? それともやってる? いずれにせよ、俺がクゼに対して否定的な態度をとった時にいつもの仮面が剥がれ、余裕のない泣きそうな表情になるのは気持ちが良い。おそらく、他の何が嘘でもこれだけは真実だ。
 現に、クゼは今泣きそうな微妙な顔で俺に縋っている。
「でも、やらせなかった。噛みちぎる勢いで抵抗したよ。だから殴られただけ。ケツの穴に誓う」
「なんてとこに誓うんだよ」
 神妙な顔でクゼが言う。
「そこが一番の証人なんだよ。俺のかつての入り口はもはや出口だ」
 クゼは、数人の男に襲われたがちんこに噛み付いて逃げてきたらしい。そして比較的彼に友好的な医者がいる医務室の前で倒れた。しかし、噛み付かれた相手が暴れたのか、体のあちこちが変色したり腫れたりしている。腕だけは確かな医者が自分で調合した怪しげな薬で綺麗に治してくれるから良いものの、そうでなければ彼は今頃化け物のような体になっているだろう。
「襲われるたびにこんな大怪我してたらクゼ、近いうちに死ぬな」
 自分で無茶な約束を決めたくせに、レイプされないために大怪我を負うクゼに呆れ果ててつい口から出てしまうが、クゼは予想外の反応を見せた。
「……大人しくやらせるのが長生きの秘訣だったんだよ」
 うんざりとした様子でクゼが話し始める。その声には今までクゼを抱いてきたやつらへの明らかな侮蔑が含まれていた。被害者であるにも関わらず、状況を自分でコントロールしているという自負があったのだろうか。
「強くなればいいって言うやつがたくさんいるけど、生き残る手段としてそれは非現実的なんだ。体躯に恵まれてるならまだしも、俺は小柄だから。……少しだけ」
「クゼは小さい」
「日本人の中ではそこまで小さくない」
「体も薄い」
「それは否定出来ないけど」
 そう言ってクゼはまじまじと俺の体を見た。俺もなんとなくクゼの薄い体を見る。男しかいないここではよく小さくて男っぽくないやつが性の対象になるが、その中でもクゼは人気がある。薄くて華奢だが痩せすぎていないのがいいのかもしれないな、とふと思った。
 抱き心地はまだわからないが、気持ち良さそうに、苦しげに眉を寄せる姿にはそそるものがある。気持ち良くなったことなんてないとクゼは言ったが、こいつを抱いてきた男共はひどくもったいないことをして来た。きっと自分本位にアホみたいに腰ばかり動かしていたんだろう。ばかだ。
 けれど、痣をそこかしこに作って、いつもより綺麗じゃないクゼにいつの間にか欲情している俺も同じだ。
 触りてえな、と思った時、俺の心の声が伝わってしまったのか、クゼが捨てられたことに気が付いた犬のような顔をして手を伸ばしてきた。
 まるでスローモーションみたいにゆっくりと近付いてくるそれを目で追う。クゼの手は俺の腕へと伸びた。熱を持っているかと思っていたクゼの手は、予想外にひんやりとしている。なんとなく、変な気持ちになる。かわいそうだ、と思った。縋るように俺の腕を掴んでいるクゼの手に手を重ねてみると、手も小さいのか完全に見えなくなった。
 あ、とクゼが狼狽した声を上げた。
「なんだよ、エロい声出して」
 もっとからかいたくなってクゼの手を掴み、口許に寄せるとクゼは見ていてかわいそうになるくらい顔を赤らめた。ばか面に楽しくなる。
「イヴァン」
 切羽詰まった声で名を呼ばれる。
 ここが檻の中じゃなかったら、こいつとばかさでは群を抜いていた俺の猫を並べたいところだ。あの猫はもう十何年も前に死んだが、クゼにならいつも垂れ下げていたしっぽをおっ立てただろう。
 自ら世話を焼いたのはあの猫だけだった。久しぶりに思い出したあいつのせいで、忌々しくも少しだけクゼに優しくしたくなった。
「何日か入院だろうが、帰ってきたらお前ひきこもれよ」
「うん。ひきこもる」
 何も考えてないのか、いつも通りの早さでクゼが答える。何も考えてなかったら、次も即答だろう。
「それか、俺の後に付いてこい」
「うん」
 やはり即答だ。不幸なことに、どうやら俺の言うことはクゼにとって絶対らしい。
 しかし、頷いてからしばらくして、クゼの目がこぼれそうなほど見開かれた。
「つ、つい……て、ついてって、いいの?」
 おそるおそる、若干上ずった声でクゼが言う。
 良い、と言葉でいうのも嘘らしく感じ、引き寄せたクゼの手に口付けてみたが、意味不明な気恥ずかしさに襲われた。猫のように舐めてみると、もっと恥ずかしくなった。
 クゼと自分の関係は知らないが、自分の行為がうざったい女みたいに思えた。
 クゼは、俺から解放された手を呆然と眺めている。そして、何を考えているのかわからないぼんやりとした暗色の瞳のまま、自分の手に口付けた。ちょうど、俺と同じ場所だ。
「ひきこもるより、付いて行きたい」
 慈しむようなキスのあと、クゼがそっと呟く。
「付いて行きたい」
 瞳に光が宿る。言葉の意味とは裏腹に、弱者の言葉ではない。
 俺にはクゼが思うほどの価値なんかないが、それでも嬉しかった。