反抗
階段を必死で駆け下りる。何度か空中を蹴った。転びそうになりながら懸命に足を動かす。
武器、武器、何か使える武器はないか。
右左上下ちらちらと見てみるが武器になるものは見あたらない。
こんなことならこの前拾った悪趣味な装飾のナイフを取っておけば良かった。そんなものを携帯していることが看守に知られたら俺の場合独房行きだが、ここで捕まってレイプされるよりはマシだ。
「あっ……、やっべえ、かも」
走りながら俺は毎日通っている道に差し掛かっていることに気づき始めていた。
誘導されていたのか。
この先は二股に分かれているが、俺が行きたい右の道は今の時間なんとかという信者たちがお祈りをしていて、うっかり邪魔しようものなら命の保証はない。となると行けるのは左の道だが、左には下水がある。下水に入り込むともう逃げられない。
戦うしかないのか。
俺は毎日通っている下水道を想像した。倉庫がいくつかある。防護服を入れる所、使い終わったマスクを入れる所。それから、今はもう使われていない火かき棒を入れる所。火かき棒! 俺は三本の矢の教えを思い出した。一本ではすぐに折れても三本では折れにくいのだ。
それがどうした! 三人相手に三本の火かき棒で対抗できるわけがない。
諦めて掘られるか。
だけど、イヴァンとの約束を破ることになる。
そうこうしているうちに下水まで来てしまった。迷わず侵入すると、独特な異臭に鼻が曲がりそうになった。
「クゼ!」
後ろから楽しげな声が追いかけてくる。
俺が入ったのが下水Aブロック。労働時間外だからか、Bブロックとの境目にはシャッターが下ろされている。このまま突き進むとすぐにへりに到達する。下水の中に身を投げればイヴァンとの約束は守れるが、殺すまで死ぬなとも言われているからそれを破ってしまうことになる。
下水が目前に迫り、ついに立ち止まる。身を投げようとは少しも思わなかった。
俺は死にたくない。まだイヴァンと一緒にいたいから。
三人は俺を包囲するようにじりじりと距離を詰めてきている。
「遊ぼうぜ、クゼくん」
リーダーらしき男が赤い舌を出す。
思考しろ、俺は自分に命令した。
俺の鼻が下水に充満する悪臭で瀕死のように、こいつらの鼻も瀕死の重傷だろう。だからこいつらは早く俺をどこかに連れ込みたいはずだ。もう逃げられない。俺と三人の息の上がり方を比べても、俺のほうが彼らよりも数倍息が上がっている。もしもここで三人の包囲をかい潜り下水から出られたとしても房に着くまでに捕まってしまう。
倒すしかない。
覚悟を決め、正面にいるリーダーらしき人物に向かって走り出す。無駄だ、と誰かが俺を嘲った。
しかし、ここで捕まることは想定内なのだ。
ふふふ、と心の中でばか共を嘲笑った。
十数分後、こいつらは涙で顔を濡らしながら医務室に運ばれることになる。その瞬間を思い描きながら俺は蒸し暑いボンベ室へと連行された。
「で、涙で顔を濡らしながら医務室に運ばれたってわけか」
「……泣いてない」
「は、そうかよ」
イヴァンがそっけなく言う。俺は布団の下に入れた手を握りしめようとした。
「でも、やらせなかった。噛みちぎる勢いで抵抗したよ。だから殴られただけ。ケツの穴に誓う」
「なんてとこに誓うんだよ」
「そこが一番の証人なんだよ」
俺のかつての入り口はもはや出口だ、と大まじめに言ったら、イヴァンが溜め息を吐いた。
「襲われるたびにんな大怪我してたらクゼ、近いうちに死ぬな」
「……大人しくやらせるのが長生きの秘訣だったんだよ」
眉をひそめられるかと思ったが、イヴァンは目で続きを促してきた。自虐の意図がないことをわかってくれたのだろう。
「強くなればいいって言うやつがたくさんいるけど、生き残る手段としてそれは非現実的なんだ。体躯に恵まれてるならまだしも、俺は小柄だから。……少しね」
「クゼは小さい」
「日本人の中ではそこまで小さいわけじゃない」
「体も薄い」
「それは否定出来ないけど」
自分の体と比べようとしたわけではないけれど、なんとなく目がイヴァンの方へと向いた。大柄ではないが、俺が男として憧れてしまうような体つきだ。モデル体型とでも言うのだろうか。全体的にスリムなのに、筋肉質。そして滑らかだ。
何度か触れたことがあるから俺は彼の肌を知っている。誰に対してでもないが、優越感を覚えた。
ふと触りたくなり手を伸ばす。握りこぶしさえ作れないほど力が出ないが、触りたいという欲求が勝ったのか俺の腕は脳からの命令通り上がってくれた。
イヴァンが俺の手を目で追う。
ベッドのすぐ傍にパイプ椅子を置いて座っているイヴァンまでほとんど距離がないにも関わらず、俺の手が彼のもとに到達するまでにかなりの時間が掛かったように思えた。
半袖から覗くイヴァンの白い腕に触れる。いつかと同じ、なめらかな触り心地。温かくて気持ち良かった。
「あ……」
イヴァンが触れられていないほうの手で俺の手を包んだ。
「なんだよ、エロい声出して」
そして笑う。イヴァンに包まれた手はまるで炎に変化してしまったように熱い。イヴァンは俺の手をそっと自分の腕から外し、そのまま彼の口元に持って行った。
「イヴァン」
まるで口付けるような仕草。だけど彼の唇は俺の手に触れない。
は、とイヴァンが小さく笑う。吐息が手にかかり、俺はわずかに震えた。
「何日か入院だろうが、帰ってきたらお前引きこもれよ」
「うん。ひきこもる」
「それか、俺の後に付いてこい」
「うん」
条件反射的に頷いてからはたと気づく。あれ?
「つ、つい……て、ついてって、いいの?」
信じられない気持ちでイヴァンを見る。イヴァンはそっと目を細め、赤い舌で俺の手を舐めた。ぞくりと背に何かが走る。この前イヴァンがケツに指を突っ込んできた時のような我慢できない快感。前立腺に触れられてもいないのに、勃起してたら多分イってた。
『助けてって言えば? 絶対助けてくれると思うな』
天使のようなハイゼの笑みを思い出す。
その笑みを見てこいつは俺に死んで欲しいと思っているんだな、と感じたのはつい数日前の話だ。
『助けるのに飽きたら、イヴァンは殺す』
今度は違う顔が出てくる。ハイゼの仲間だという中華系のロウは、気を付けろと言った。
付いてこいというのは、助けてやると同義だろうか。
考えるが、答えは出ない。聞けばいいだけだが、怖くて聞くことが出来ない。
手が解放される。離れてもまだ炎は消えていなかった。
イヴァンの唇から覗いた赤い舌。下水で俺を襲ったやつのものと同じだとは思えなかった。
自分の手を舐めてみる。意識的にイヴァンのあとを辿る。
「ひきこもるより、付いて行きたい」
まあ、なんでもいいか。
ひきこもるより付いて行くほうがたくさん一緒にいられる。それに、イヴァンの意図がどこにあるにせよ、さっきの言葉は俺に至上の幸福をもたらした。
「付いて行きたい」
もう一度いうと、イヴァンが満足気に笑った。
武器、武器、何か使える武器はないか。
右左上下ちらちらと見てみるが武器になるものは見あたらない。
こんなことならこの前拾った悪趣味な装飾のナイフを取っておけば良かった。そんなものを携帯していることが看守に知られたら俺の場合独房行きだが、ここで捕まってレイプされるよりはマシだ。
「あっ……、やっべえ、かも」
走りながら俺は毎日通っている道に差し掛かっていることに気づき始めていた。
誘導されていたのか。
この先は二股に分かれているが、俺が行きたい右の道は今の時間なんとかという信者たちがお祈りをしていて、うっかり邪魔しようものなら命の保証はない。となると行けるのは左の道だが、左には下水がある。下水に入り込むともう逃げられない。
戦うしかないのか。
俺は毎日通っている下水道を想像した。倉庫がいくつかある。防護服を入れる所、使い終わったマスクを入れる所。それから、今はもう使われていない火かき棒を入れる所。火かき棒! 俺は三本の矢の教えを思い出した。一本ではすぐに折れても三本では折れにくいのだ。
それがどうした! 三人相手に三本の火かき棒で対抗できるわけがない。
諦めて掘られるか。
だけど、イヴァンとの約束を破ることになる。
そうこうしているうちに下水まで来てしまった。迷わず侵入すると、独特な異臭に鼻が曲がりそうになった。
「クゼ!」
後ろから楽しげな声が追いかけてくる。
俺が入ったのが下水Aブロック。労働時間外だからか、Bブロックとの境目にはシャッターが下ろされている。このまま突き進むとすぐにへりに到達する。下水の中に身を投げればイヴァンとの約束は守れるが、殺すまで死ぬなとも言われているからそれを破ってしまうことになる。
下水が目前に迫り、ついに立ち止まる。身を投げようとは少しも思わなかった。
俺は死にたくない。まだイヴァンと一緒にいたいから。
三人は俺を包囲するようにじりじりと距離を詰めてきている。
「遊ぼうぜ、クゼくん」
リーダーらしき男が赤い舌を出す。
思考しろ、俺は自分に命令した。
俺の鼻が下水に充満する悪臭で瀕死のように、こいつらの鼻も瀕死の重傷だろう。だからこいつらは早く俺をどこかに連れ込みたいはずだ。もう逃げられない。俺と三人の息の上がり方を比べても、俺のほうが彼らよりも数倍息が上がっている。もしもここで三人の包囲をかい潜り下水から出られたとしても房に着くまでに捕まってしまう。
倒すしかない。
覚悟を決め、正面にいるリーダーらしき人物に向かって走り出す。無駄だ、と誰かが俺を嘲った。
しかし、ここで捕まることは想定内なのだ。
ふふふ、と心の中でばか共を嘲笑った。
十数分後、こいつらは涙で顔を濡らしながら医務室に運ばれることになる。その瞬間を思い描きながら俺は蒸し暑いボンベ室へと連行された。
「で、涙で顔を濡らしながら医務室に運ばれたってわけか」
「……泣いてない」
「は、そうかよ」
イヴァンがそっけなく言う。俺は布団の下に入れた手を握りしめようとした。
「でも、やらせなかった。噛みちぎる勢いで抵抗したよ。だから殴られただけ。ケツの穴に誓う」
「なんてとこに誓うんだよ」
「そこが一番の証人なんだよ」
俺のかつての入り口はもはや出口だ、と大まじめに言ったら、イヴァンが溜め息を吐いた。
「襲われるたびにんな大怪我してたらクゼ、近いうちに死ぬな」
「……大人しくやらせるのが長生きの秘訣だったんだよ」
眉をひそめられるかと思ったが、イヴァンは目で続きを促してきた。自虐の意図がないことをわかってくれたのだろう。
「強くなればいいって言うやつがたくさんいるけど、生き残る手段としてそれは非現実的なんだ。体躯に恵まれてるならまだしも、俺は小柄だから。……少しね」
「クゼは小さい」
「日本人の中ではそこまで小さいわけじゃない」
「体も薄い」
「それは否定出来ないけど」
自分の体と比べようとしたわけではないけれど、なんとなく目がイヴァンの方へと向いた。大柄ではないが、俺が男として憧れてしまうような体つきだ。モデル体型とでも言うのだろうか。全体的にスリムなのに、筋肉質。そして滑らかだ。
何度か触れたことがあるから俺は彼の肌を知っている。誰に対してでもないが、優越感を覚えた。
ふと触りたくなり手を伸ばす。握りこぶしさえ作れないほど力が出ないが、触りたいという欲求が勝ったのか俺の腕は脳からの命令通り上がってくれた。
イヴァンが俺の手を目で追う。
ベッドのすぐ傍にパイプ椅子を置いて座っているイヴァンまでほとんど距離がないにも関わらず、俺の手が彼のもとに到達するまでにかなりの時間が掛かったように思えた。
半袖から覗くイヴァンの白い腕に触れる。いつかと同じ、なめらかな触り心地。温かくて気持ち良かった。
「あ……」
イヴァンが触れられていないほうの手で俺の手を包んだ。
「なんだよ、エロい声出して」
そして笑う。イヴァンに包まれた手はまるで炎に変化してしまったように熱い。イヴァンは俺の手をそっと自分の腕から外し、そのまま彼の口元に持って行った。
「イヴァン」
まるで口付けるような仕草。だけど彼の唇は俺の手に触れない。
は、とイヴァンが小さく笑う。吐息が手にかかり、俺はわずかに震えた。
「何日か入院だろうが、帰ってきたらお前引きこもれよ」
「うん。ひきこもる」
「それか、俺の後に付いてこい」
「うん」
条件反射的に頷いてからはたと気づく。あれ?
「つ、つい……て、ついてって、いいの?」
信じられない気持ちでイヴァンを見る。イヴァンはそっと目を細め、赤い舌で俺の手を舐めた。ぞくりと背に何かが走る。この前イヴァンがケツに指を突っ込んできた時のような我慢できない快感。前立腺に触れられてもいないのに、勃起してたら多分イってた。
『助けてって言えば? 絶対助けてくれると思うな』
天使のようなハイゼの笑みを思い出す。
その笑みを見てこいつは俺に死んで欲しいと思っているんだな、と感じたのはつい数日前の話だ。
『助けるのに飽きたら、イヴァンは殺す』
今度は違う顔が出てくる。ハイゼの仲間だという中華系のロウは、気を付けろと言った。
付いてこいというのは、助けてやると同義だろうか。
考えるが、答えは出ない。聞けばいいだけだが、怖くて聞くことが出来ない。
手が解放される。離れてもまだ炎は消えていなかった。
イヴァンの唇から覗いた赤い舌。下水で俺を襲ったやつのものと同じだとは思えなかった。
自分の手を舐めてみる。意識的にイヴァンのあとを辿る。
「ひきこもるより、付いて行きたい」
まあ、なんでもいいか。
ひきこもるより付いて行くほうがたくさん一緒にいられる。それに、イヴァンの意図がどこにあるにせよ、さっきの言葉は俺に至上の幸福をもたらした。
「付いて行きたい」
もう一度いうと、イヴァンが満足気に笑った。