朝
いつも、イヴァンよりも俺のほうが朝起きるのが遅い。イヴァンは結構気怠げだが朝には強く大体俺よりも早く起きてさっさと食堂に行く。たまに俺が早く起きた時は一緒に行くが、大抵彼と会うのは下水でだった。最近は早く起きられることはまずなく、寂しい食事だ。
「いつまで寝てんの」
しかし今日は違った。とっくに起きていたらしいイヴァンは俺を置いて先に行かず、自分のベッドにじっと座って待ってくれていたらしい。呆れた眼と彼の手の中にある暇潰し用の小説がそれを教えてくれた。
弾かれたように起き上がる。
「お、おはよう!」
「ああ」
目が覚めた。いつもは死んでも良いからずっと寝ていたいといつまでも布団から出られずにいるのに、イヴァンは太陽だ。まるで暴力みたいに俺の目を一発で覚ましてしまった。
「準備する!」
さっさと掛け布団を畳みベッドの隅に寄せる。それから洗面台に向かい顔を洗って歯を磨いた。最近はいつケツを貸せと言われてもいいように念入りに歯を磨いている。顔だって洗い残しがないように隅々まで綺麗に洗う。クソみたいなやつだけど、少しでも良いと思って欲しいのだ。イヴァンからは俺はまだ十四、五の子供に見えているようだけど。
「整いました!」
「そうかよ、行くぞ」
「うん!」
「……元気だな」
「そりゃあ」
そうして連れ立って房から出る。打ちっぱなしの無機質な監獄の中で俺はふわふわした綿の上を歩いていた。快い酩酊感といえば良いのだろうか。天にも昇る心地だった。それは今イヴァンと歩いているのが偶然ではないから。彼は俺が起きるのを待っていてくれたのだ。偶然ではなく!気を付けようと思うのにだらしなく顔が緩んでしまう。好きだという思いが前面に出る。
もしかしたら悪い夢を見ているのかもしれない。
今までの人生人の下に立ったことしかないから信用などしてこなかったしされても来なかった。だから俺は今のこの状況を現実のものだと受け入れられていない。だけど幸せなことだけは確かだ。
そういえばイヴァンは「俺の後に付いてこい」と言ったんだった。今俺は彼と並んで歩いている。ちょっと下がろう。そうして歩くスピードを落としたら同様にイヴァンもゆっくり歩いた。偶然だと思いもっと落とすとイヴァンが止まるような速さになる。
「おい」
「何?」
「もっと速く歩けねえのかよ。おせえよ」
「あ、後ろ付いてこうと思ったんだよ」
「なんでだよ。てめえの短い足じゃ俺に追いつけねえから見えてねえと置いてくだろ」
追いつけないほど短くない。と思ったがまさか言えない。
「じゃあ、並んで歩く」
「そうしろ」
そうして並んで歩く。付いてきても良いと言われたことなんて誰も知らないはずなのに、あたりの囚人らがみな俺を見ていた。伝わっているのだろうか、俺の喜びが……。
こんなことを考えながら幸福な灰色の道を進む。
やはりというかなんというか、食堂に着くまで誰からも絡まれなかった。
「やっぱりイヴァンはすごいね」
イヴァンと食堂に来ると俺も普通の量を御膳に盛り付けられる。だれにもウインナーを奪われないし、パンも盗られない。
「何がだよ」
食堂奥の端の席で、イヴァンがパンをちぎって口に入れていた。
「誰からも絡まれないっていうか、みんな寧ろ離れていく」
「なんだよ急に。一緒に来んの初めてじゃねえだろうが」
「付いていくのは初めてだから」
「……変なやつだな」
「普通がわからないから」
イヴァンは普通の人のほうが良いのか。考えたが、俺は普通にはなれない。今まで普通の人とお近づきになったことがないから、どうなればいいかが全くわからない。塩崎は普通だろうか。でも普通の人生を送ってなさそうだったからあいつもどこかおかしいだろう。
普通じゃないということは悪い方、良い方どちらかに逸脱しているということ。塩崎は良い方に逸脱しているだろうからあいつを真似ればもしかしたら好きになってもらえるかもしれない。人は恋をするならいいやつにだろう。
思考がそれてしまったと同時に、自分が今考えたことに対して驚く。
恋? 好きになってもらえるかも? ばかみたいだ。ついてきて良いとは言ってくれたけど、俺は知らず知らずのうちに随分飛躍してしまったようだ。今俺は空さえ抜けて宇宙を飛んでいる。撃ち落とされる前に自分で下りなければ、イヴァンに見放される。
「何いきなりしゅんとしてんだよ。意味わかんねえな」
「俺もわかんない……。俺はどうなれば良いのか……」
「は?」
イヴァンがあたたかいスープを啜る。優しい味の卵スープは刑務所唯一の良心だ。
「俺って、どんなやつなんだろう。普通じゃないのはわかるけど、なんかよくわかんねえ」
「どんなやつって、アホなやつだろ」
「アホか……」
それはわかっている。でも、知りたいのはそういうことじゃない。アホでばかで弱くて犯罪者で、人の役に立たない。誰でもわかることだ。俺が知りたいのは、そういう外から見てわかるような自分ではない。なんて言えばいいかわからないが、その人を形成している根幹、その部分を知りたい。
(って、言葉で言い表せられないなら考えても無駄じゃねえか)
頭の中で思考が迷子になっている。
「よくわかんねえことでいつも悩んでる」
全てを食べ終えたイヴァンが言った。頬杖を付き不機嫌そうだが、俺のよくわからない話に付き合ってくれるらしい。
「よくわかんないこと、かあ」
「ああ」
だけど、よくわからないこととは言いつつも、俺の悩みの種はいつだってイヴァンだ。嫌われないように、少しでも好かれるようになるにはどうすべきか、いつもこれで頭を悩ませている。
飽きたら殺されるだろう。多分その時は笑ってしまうくらいあっさりとやられてしまう。殺意を含んだ彼の手が俺の首元に伸びてきたら、果たして俺は何を思うのだろうか。
温かいスープにスプーンを沈め、透き通る液体を救い上げる。イヴァンがじっと俺を見ていた。
「さっさと食っていくぞ。早めに下水行って、お宝探そうぜ」
「うん」
急いで残りのご飯を片付ける。
イヴァンといられる期間は俺が死ぬまで。言い換えたら一生一緒にいられるということ。こんなに幸せなことはない。
欲を言えば一度でいいから澄んだ空気の中、どこまでも続く世界でイヴァンの後ろを歩いてみたいが、それは夢の中だけで満足しておこう。
「いつまで寝てんの」
しかし今日は違った。とっくに起きていたらしいイヴァンは俺を置いて先に行かず、自分のベッドにじっと座って待ってくれていたらしい。呆れた眼と彼の手の中にある暇潰し用の小説がそれを教えてくれた。
弾かれたように起き上がる。
「お、おはよう!」
「ああ」
目が覚めた。いつもは死んでも良いからずっと寝ていたいといつまでも布団から出られずにいるのに、イヴァンは太陽だ。まるで暴力みたいに俺の目を一発で覚ましてしまった。
「準備する!」
さっさと掛け布団を畳みベッドの隅に寄せる。それから洗面台に向かい顔を洗って歯を磨いた。最近はいつケツを貸せと言われてもいいように念入りに歯を磨いている。顔だって洗い残しがないように隅々まで綺麗に洗う。クソみたいなやつだけど、少しでも良いと思って欲しいのだ。イヴァンからは俺はまだ十四、五の子供に見えているようだけど。
「整いました!」
「そうかよ、行くぞ」
「うん!」
「……元気だな」
「そりゃあ」
そうして連れ立って房から出る。打ちっぱなしの無機質な監獄の中で俺はふわふわした綿の上を歩いていた。快い酩酊感といえば良いのだろうか。天にも昇る心地だった。それは今イヴァンと歩いているのが偶然ではないから。彼は俺が起きるのを待っていてくれたのだ。偶然ではなく!気を付けようと思うのにだらしなく顔が緩んでしまう。好きだという思いが前面に出る。
もしかしたら悪い夢を見ているのかもしれない。
今までの人生人の下に立ったことしかないから信用などしてこなかったしされても来なかった。だから俺は今のこの状況を現実のものだと受け入れられていない。だけど幸せなことだけは確かだ。
そういえばイヴァンは「俺の後に付いてこい」と言ったんだった。今俺は彼と並んで歩いている。ちょっと下がろう。そうして歩くスピードを落としたら同様にイヴァンもゆっくり歩いた。偶然だと思いもっと落とすとイヴァンが止まるような速さになる。
「おい」
「何?」
「もっと速く歩けねえのかよ。おせえよ」
「あ、後ろ付いてこうと思ったんだよ」
「なんでだよ。てめえの短い足じゃ俺に追いつけねえから見えてねえと置いてくだろ」
追いつけないほど短くない。と思ったがまさか言えない。
「じゃあ、並んで歩く」
「そうしろ」
そうして並んで歩く。付いてきても良いと言われたことなんて誰も知らないはずなのに、あたりの囚人らがみな俺を見ていた。伝わっているのだろうか、俺の喜びが……。
こんなことを考えながら幸福な灰色の道を進む。
やはりというかなんというか、食堂に着くまで誰からも絡まれなかった。
「やっぱりイヴァンはすごいね」
イヴァンと食堂に来ると俺も普通の量を御膳に盛り付けられる。だれにもウインナーを奪われないし、パンも盗られない。
「何がだよ」
食堂奥の端の席で、イヴァンがパンをちぎって口に入れていた。
「誰からも絡まれないっていうか、みんな寧ろ離れていく」
「なんだよ急に。一緒に来んの初めてじゃねえだろうが」
「付いていくのは初めてだから」
「……変なやつだな」
「普通がわからないから」
イヴァンは普通の人のほうが良いのか。考えたが、俺は普通にはなれない。今まで普通の人とお近づきになったことがないから、どうなればいいかが全くわからない。塩崎は普通だろうか。でも普通の人生を送ってなさそうだったからあいつもどこかおかしいだろう。
普通じゃないということは悪い方、良い方どちらかに逸脱しているということ。塩崎は良い方に逸脱しているだろうからあいつを真似ればもしかしたら好きになってもらえるかもしれない。人は恋をするならいいやつにだろう。
思考がそれてしまったと同時に、自分が今考えたことに対して驚く。
恋? 好きになってもらえるかも? ばかみたいだ。ついてきて良いとは言ってくれたけど、俺は知らず知らずのうちに随分飛躍してしまったようだ。今俺は空さえ抜けて宇宙を飛んでいる。撃ち落とされる前に自分で下りなければ、イヴァンに見放される。
「何いきなりしゅんとしてんだよ。意味わかんねえな」
「俺もわかんない……。俺はどうなれば良いのか……」
「は?」
イヴァンがあたたかいスープを啜る。優しい味の卵スープは刑務所唯一の良心だ。
「俺って、どんなやつなんだろう。普通じゃないのはわかるけど、なんかよくわかんねえ」
「どんなやつって、アホなやつだろ」
「アホか……」
それはわかっている。でも、知りたいのはそういうことじゃない。アホでばかで弱くて犯罪者で、人の役に立たない。誰でもわかることだ。俺が知りたいのは、そういう外から見てわかるような自分ではない。なんて言えばいいかわからないが、その人を形成している根幹、その部分を知りたい。
(って、言葉で言い表せられないなら考えても無駄じゃねえか)
頭の中で思考が迷子になっている。
「よくわかんねえことでいつも悩んでる」
全てを食べ終えたイヴァンが言った。頬杖を付き不機嫌そうだが、俺のよくわからない話に付き合ってくれるらしい。
「よくわかんないこと、かあ」
「ああ」
だけど、よくわからないこととは言いつつも、俺の悩みの種はいつだってイヴァンだ。嫌われないように、少しでも好かれるようになるにはどうすべきか、いつもこれで頭を悩ませている。
飽きたら殺されるだろう。多分その時は笑ってしまうくらいあっさりとやられてしまう。殺意を含んだ彼の手が俺の首元に伸びてきたら、果たして俺は何を思うのだろうか。
温かいスープにスプーンを沈め、透き通る液体を救い上げる。イヴァンがじっと俺を見ていた。
「さっさと食っていくぞ。早めに下水行って、お宝探そうぜ」
「うん」
急いで残りのご飯を片付ける。
イヴァンといられる期間は俺が死ぬまで。言い換えたら一生一緒にいられるということ。こんなに幸せなことはない。
欲を言えば一度でいいから澄んだ空気の中、どこまでも続く世界でイヴァンの後ろを歩いてみたいが、それは夢の中だけで満足しておこう。