早寝記録

キスをねだる話


 イヴァンの言うことを全てわかりたくて、最近英語の勉強を始めた。勉強の方法として一番自分に合っているのは小説を読むことだった。小説には人の考え方とか、俺の知らない世界の話が書いてある。嘘の話なのにまるで本当のことのように思えるから、本を読むことはすごく勉強になった。俺は人の気持ちを考える力が足りず、いつも自分本位になってしまう。他人のために動くことはほぼなく、イヴァンに少しでも愛されたくて俺は行動している。
 今回図書室で借りた本は三冊のラブストーリー。若い女が年の離れた男に恋する話と男が女につきまとう話、三冊目は日本で書かれた小説を英語に翻訳したものだった。全て読んでみたが最後の話の意味がわからず、図書室の看守に頼み込んで日本語のものを取り寄せてもらった。
 そうして英語の勉強とは別に単なる興味を持って読んでみたのだが、昔々の平和な日本で起こる平坦な恋の話だった。ひとことで言うと、男と女がくっついて、最後に女が男に自ら口付けてほしいと言うまでの話。好き合っているのだから簡単な話だが、どんなに意気込んでも好きな男を前にすると羞恥心が邪魔をして女は何も言えなくなるのだ。手を繋ぐ描写や肩が触れ合った時の心の動きが、日本語で読むと詩を読んでいるように感じられた。母国語だとやはり言葉の持つ雰囲気やちょっとしたニュアンスを感じ取ることができた。
「くちづけかあ……」
 その小説ではキスではなく口付けと書かれていた。唇をそっと触れ合わせるだけの行為を彼らは口付けと呼んだのだ。俺が知っているべろべろしてべとべとする汚いものには似合わない単語。
 前にイヴァンが階段でしてくれたものを思い出す。あれは口付けだったように思う。触れるだけの、何かの儀式のようだった。またしたいな、という欲が生じる。頼んだらしてくれるだろうか。あの小説の中の男のように、優しく。それとも何を言っているんだとばかにされるだろうか。嫌われる? でも俺はもうイヴァンがそれくらいのことで俺に愛想を尽かさないことを知っている。言ってみようかな。もちろん恋人なんてものじゃないけれど、前に一度してくれたし、抜き合ったこともあるし、ちょっと、ちょっとだけ言ってみよう。
 手にしていた本をベッドの下にしまい、ベッドの上に座り直してどこかへ行ってしまったイヴァンが帰ってくるのを待つ。いらぬ緊張が俺を襲う。房の中で膝を抱えている俺と、房の外から聞こえる囚人に似つかわしくない笑い声との対比がおかしかった。犯した罪を反省しないやつらばかりの監獄の中で、俺は同室者にばかげたことを告げるため緊張している。
 口付けて欲しいなんて気が狂っていることを憧れて止まないイヴァンになぜ言う必要がある? それも監獄の中で。けれど、答えは探さなくてもすぐそばに存在している。
 俺は彼を好きだから、こんなにガチガチになってまであの女が震えながら言った言葉を告げようとしているのだ。
 それに加えて、前にしてくれたこと、抜き合ったというふたつの事実が頭のおかしい俺を惑わせ、動かしている。心臓がいつもより速く動いている。リズムは一定だがひたすらに速く激しく鳴っている。
 ドアを凝視する。外なんて見えやしないのに、イヴァンの姿を灰色のドアの向こうに探した。
 短い時間ではない。一体どのくらい時が経過したのかわからないが、その時はついに来た。細い光の筋を伴ってドアが開いたのだ。
「おかえり!」
「ああ、タダイマ」
 イヴァンが拙い日本語で返してくれる。それに俺はいつも幸福を感じるから、イヴァンと一緒にいられないのは寂しくてどこにも行かないで欲しいと願う反面、こうして帰ってきてただいまを聞かせてほしいとも願ってしまう。
「クゼ、すっげえ目がぎらついてんだけど。どうしたの? 誰か殺ってきた?」
「俺、ここに来てからやってない! これからも。なんかしでかしてあんたと部屋変えられたくねえから」
「そうかよ。ああ、疲れた」
 イヴァンがあろうことかトレーナーを脱ぎ細いながらもたくましい上半身を晒す。彼は自分のベッドに放り投げたそれには見向きもせず俺のベッドの端に腰掛けた。最近、隣に来てくれることが増えた。それが仲良しのようで俺は簡単に嬉しくなるのだ。
「疲れることしてきたの?」
「看守の手伝い。最近大人しくしてるからこき使われてんだよ。それに丸くなったとかも言われてよく、……これはまあ、いいか」
 イヴァンが何かを言いかけてやめる。丸くなって、絡まれることが増えた。おそらくそうだろう。だとしたら俺のせいだ。俺が同室になって、理由はわからないが彼は俺と一緒にいてくれるようになった。その結果前につるんでいたハイゼたちとの交流が減り、イヴァンの悪行についての噂も減った。だからすっかり大人しくなったと思われてばかなやつらがケンカをふっかけてくるのだろう。申し訳ない気がするが、たとえいっときでも俺といることを選んでくれたのだと嬉しくなる。
「お前は何してたんだよ。膝抱えてぼうっとして。怖いんだけど」
「読んでた小説について考えてた」
「小説?」
「うん。この前三冊借りてきたの、読んだから」
「今度はどんなの読んでたんだよ」
「これだよ」
 身を伸ばし、ベッドの下に置いた四冊の本を取り出してイヴァンに見えるようにマットの上に置く。適当に置いた本をイヴァンが一冊一冊手に取っていく。
「四冊じゃねえか……。ああ、一冊日本語か」
 イヴァンは物珍しげにその本の表紙を眺めた。
「そう。一つよくわかんないのがあったんだけど、その本の英語訳のやつで、看守に頼んで日本語のを取り寄せてもらったんだ。取り寄せたけど需要ねえから俺にくれるって」
「図書室の看守?」
「そう。俺にも割と優しいやつがいるんだよ」
「へえ。どんな話なんだ、これ」
「うん、主人公の女が」
 男にキスをねだる話。
 簡単なこの言葉がなぜか続かなかった。どうってことのない言葉なのに、さっきの自分の覚悟が思い出されたのだ。そうだ。俺が何時間も微動だにせずただひたすらイヴァンの帰りを待っていた理由。彼の帰宅に舞い上がって忘れかけていたが、イヴァンに口付けを乞うだなんて俺はなんて身の程知らずなことをしようとしていたのだろう。
 しかし、決意した時だって決して俺の頭がおかしいのではなかった。俺は正常に考えられている中でイヴァンに告げようと思ったのだ。小説の中の口付けはまるで儀式だった。それまでも男のほうから女にキスをすることはあったが、女は自らがその行為を望むことで本当の意味で男のものになろうとしたのだ。自ら心を明け渡した。それが最後のあの言葉に表れていた。
「……昔の日本の、淡々とした起伏のないつまんねえ話」
「つまんねえのにわざわざ日本語版もらったのかよ」
 俺もイヴァンに全部をあげたい。もともと大事にしてこなかった命だから軽いけど、俺が俺のものじゃなくてイヴァンのものになったら自分を本当に愛せるようになると思う。
 ――イヴァンの同室者はよく変わるんだ。飽きた頃に殺すから。
 みんなが俺に言った。
 ――助けてって言った瞬間からカウントダウンが始まるんだよ。
 これを俺に教えたのはハイゼだ。あいつは俺にイヴァンに助けを乞うてみろと言った。お前はイヴァンの特別だから殺されないだろ、と彼は俺を嘲ったのだった。
 キスをねだることは愛して欲しいと伝えることと同じだろうか。
 愛してなんて重たいことを言ったらイヴァンはどうする? 今まで彼が殺したやつらと同じように、偽りでも愛して、飽きたら殺すのか。わからない。俺はどうしてほしいのか。これもわからなかった。
「当たり前だけど全然読めねえな。わかる字一個もねえ」
 イヴァンは今俺を悩ませている元凶をのんきに眺めている。わかんねえ、と繰り返した後、彼はひっそりと笑みを浮かべた。丸くなったと言われる、とさっき彼は不服そうにしていたが、今のイヴァンはまごうことなき聖人君子。彼が暴力を振るう所を想像できる人はただの一人もいないような柔らかな笑みだった。優しい人にしか出せない表情に思えた。憧れなのか好意なのか、小説の中の言葉を借りれば「痛みを伴った愛しさ」とでも言い表せられるような恥ずかしい想いがこみあげる。まるで愛し愛されるためだけに存在を許された虚構の中の人物になった気分だった。それほど人間的な思いを今俺は彼に対し抱いている。
「……口付けていただけませんか」
「は?」
 意を決して紡いだ言葉は小説の中の言葉のままになった。イヴァンが俺の今の言葉を理解することは一生ない。俺にとっては意味のある一文でも、彼にとっては奇妙な、呪文のような異国語だから。
 看守がくれた日本語の小説を読んだ後、英語に翻訳された物を読み返した時に違和感を覚えたが、その理由が今わかった。
 女は最後口付けをねだったが、彼女は口付けてほしいなんて思っていなかったのだ。それなのにそのまま翻訳したから違和感があったのだろう。
「今のやつ、小説の最後のセリフだよ」
「へえ。なんて意味?」
「I love you」
 ラブストーリーなんて読むのかと、イヴァンが驚いたように笑った。