早寝記録

中日辞典


 生きていることを実感することは少ない。イヴァンと触れ合う時は嬉しくて夢心地だからどちらかと言えば死んでいるほうに近いし、食べている時や下水にいる時は周囲に音がありすぎて現実感がない。
 生きていると感じるのは、例えば鏡を見て髪の毛が伸びていることに気が付いた時とか、爪が伸びていることに気が付いた時だ。髪の毛が伸びたら理容班に行くが、あそこもあまり好きではないからいつもギリギリまで伸ばしてから行っていた。
「そろそろ切らなきゃなあ……」
「髪?」
 独り言に言葉が飛んでくる。
 見ると、ベッドの上で壁に寄りかかりながら本を読んでいたイヴァンがこちらを見ていた。こんな些細なことでも、存在を認識されている感じがして嬉しくなる。
「そう。いつもより長い間行ってないから、なんか長くなった」
「そうだな。そのままでもまあ、女みたいなお前には自然だけど、行ってくれば?」
「理容班、嫌いなんだよなあ……。下水でハサミ探すことにするよ」
 女みたい、という言葉には反応しないことにする。俺はそこまで女顔じゃないけど、周りを見ればごついやつとかどうやっても女には見えないやつらばかりだから受け入れるよりない。
 イヴァンはなぜか眉間に皺を寄せ、俺の顔をじっと見た。そしてしばらくそうしたあと、ぽつりと言う。
「ロウが切れる」
「ロウって」
 しばらく沈黙が続いていたが、髪を切る話をしていた。ということはロウ――イヴァンの仲間が切れるのは髪の毛だろう。
「ロウ、知ってるだろ。お前に惚れてる中国人だよ」
「あの、変わった人か……」
 みんなから俺のことがタイプだとからかわれて、否定しなかった変なやつ。タイプと好きは違うけど、好意には変わりないから素直に嬉しかった。もしかしたら、頼んだら切ってくれるかもしれない。今俺が彼に渡せるものはないけれど、つけでなんとかしてもらおう。
「今度会ったら頼んでみる」
「今行けば」
「襲われるかもしれないから。俺まだ武器もねえし、イヴァンとの約束守れる自信ない」
「そうかよ」
 それまで機嫌が悪そうだったイヴァンの表情がわずかに和らぐ。笑みとまでいかないが、それでも少しだけ柔らかくなった。
 
 偶然にでもロウに会えたら頼んでみようと思っていたが、チャンスはすぐにやって来た。その日の夕食前、本を返すイヴァンに付いて図書室に行った先にロウがいた。彼は各国の辞書が集められた一角で熱心に何かを探していた。
「ロウ」
 隣から声をかける。一つにまとめた長い髪を揺らし勢いよく振り返ったが、彼は俺を殴らなかった。ほっと息を吐く。経験上、後ろから声をかけるよりも隣から声をかけたほうが怒られたり殴られたりする率が低い。
「ぜ、全然気づかなかった」
「真剣だったもん」
「……い、イヴァンは?」
 よほど驚いたのか、ロウは赤くなった顔に手の甲を当てながら尋ねて来る。
「本を返してる」
「い、一緒じゃ、なくて良いのか」
「うん。俺も、辞書借りようと思って」
「辞書?」
「英語苦手だから。あ。俺、少しだけ中国語話せるんだ」
「え? そうなの?」
「うん。『今度、髪の毛切って』」
「え!」
 中国語で厚かましいお願いをしてしまった。でも、怒らないロウも悪い。俺に優しく接するということは、俺を調子に乗せるということだ。俺は人が好きで、甘やかしてほしいといつも願っているのだから、そうしてくれる人が現れたら調子に乗るに決まっている。勝手なことを思った後で、内心頭を抱えた。恥ずかしいし、ありえないことを言ってしまった。ちゃんと考えてから言葉を発さなきゃダメなのに、ほぼ何も考えないで思いを音にしてしまった。
 売られた先が中華圏で、しかもまだ子供だったから言語的にはなじみがある。好きか嫌いかならば大嫌いだが。
 こういう時どう取り繕えば良いのだろう。ロウは窒息しかけの魚のように口をぱくぱくして何も言わない。
「ごめん。調子に乗りました」
「い、い、いや」
 トマトスープ色の顔をぶんぶん振ってロウが否定してくれる。
「謝謝」
「え?」
 そしてなぜかお礼を言われた。
「久しぶりに故郷を思い出せた」
「中国人多いでしょ」
「でも、あいつらの言葉は汚い。何も思い出せない」
「そ、そう……」
「ああ。くっ、クゼは、き、綺麗だから」
「は、はあ!?」
 驚きすぎて何も食べたり飲んだりしていないのにむせた。唾液が気管に入り息ができない。
「だ、大丈夫か」
「うぇっ、だ、だいっ」
 げほげほとせき込み膝を折る。苦しい。言葉にしろほかの何かにしろ綺麗だなんて言われたことがなかったから驚いてしまった。こんな賛辞の言葉、俺には似合わない。
「……何してんだよ」
 少し落ち着いたころ、上から俺が一番きれいだと思う男の声が降ってきて顔を上げる。
「イヴァン……!」
「おう」
 すぐに立ち上がりイヴァンと向かい合う。いつからいるのか、彼は俺を呆れたような眼差しで見ている。
「それにしても」
 イヴァンが俺たちから少しだけ離れたロウに視線を移す。
「お前が背中すらさすれないほど純情だなんて知らなかったよ……。やばいな、お前」
 まるで憐れむようなイヴァンの言葉に、ロウがふんと鼻を鳴らし、背中を向けた。
「い、いつでも切ってやる」
 そして、不機嫌さをにじませた赤い顔を俺達に向け、彼は去っていった。