鋏1
ロウの手は冷たい。鋏の生み出す独特な音に眠気を誘われるが、時折項に彼の冷えた手があたり俺を現実に戻すのだった。
時間外の理容班。俺が彼に髪の毛を切ってほしいと厚かましくお願いしてからわずか三日。彼は時間外に理容室を使う許可を得た。強いから、恐れられているからではなく、正式に許可を得たのだという。
彼の手つきはとても丁寧で、もしも手が冷たくなかったらその心地よさにすぐに眠ってしまうだろう。
「眠そうだな」
彼の声に顔を上げる。いつの間にか、うとうとしてしまったようだ。
「ちょっと意識なかった」
「不用心」
「ほんとだ」
よく知りもしないやつの前で寝るとか、自殺行為にほかならない。でも――。
「信用してなきゃ、髪切ってなんて頼まないか……。俺、鋏が怖くてぎりぎりまで理容班なんか来ないし、そもそも前は自分で切ってた」
「前?」
「ここ来る前だよ。俺、ここが三つ……四つめだから」
「何したの」
「人殺した、から移されたんだと思う」
「そんなの、結構あるだろ」
「いつも記憶なくなる。で、気付いた時には移送? っていうのかな、運ばれてたり、病室みたいなところに繋がれてたり……。最近は安定してるけど」
チョキチョキと俺の髪を切りながら、ロウが見てみたいな、と呟いた。
「変なやつだ」
「そうかな。クゼがキレてるとこ興味ある」
「棒とか持つとだめ。なんか、無敵感が出ちゃうんだよなあ……」
「棒か」
「うんと長いやつ」
「欲しい?」
鏡の中のロウは穏やかに微笑んでいた。欲しいと言ったらくれそうな雰囲気。彼からは好意しか感じない。
「……欲しくない」
「そうなの?」
「ここから出たくないから」
「それはイヴァンがいるから?」
「そう」
「あいつ、クゼを助けてくれないんじゃねえの」
「でも優しいよ」
「すっげえ意外」
「みんな、イヴァンが飽きて俺を殺すの楽しみにしてるんだろうね」
「かもな。娯楽がないから」
音が、髪の毛が切られるもののみになる。鏡の中の自分を見つめる。イヴァンとそれほど年齢が変わらないのに、彼と比べると俺はまるで子供だ。
「そういえば、ロウは何歳なの?」
「十九」
「へえ」
「クゼは?」
「十七からハタチの間くらい」
「わかんねえの?」
「俺、頭おかしかったから一つめはずっとベッドに寝かされてた。一年は経ってないと思うけど、時間があやふや。で、二つめのとこでやらかして、そのあと病院みたいなとこに突っ込まれて、意識朦朧としててさ。夢みたいで、そこでもどのくらい時間経ったのかわかんねえの」
「何年もはありえないだろ、多分。意識朦朧って、なんで?」
「薬。頭おかしかったから。……今は大丈夫だと思うけど」
「普通に見える」
「普通……ではないよ」
俺は普通ではないが、そう言ってくれたことが少し嬉しかった。俺は普通でありたいと思っているのか、本当のことじゃなくても嬉しい。
ロウが鋏をドライヤーに持ち替えた。温風が降ってくる。やはり手つきは丁寧で、気持ち良い。
思えば、このように髪を切られたことがない。長いままでいるか雑にされるか適当に切るか。
中華系の人間は大嫌いだったが、刑務所を転々とする中で、俺という人間が人から大事にされないだけだということがわかった。それでも俺は売られた町での出来事に囚われていたから、中華系のやつらがトラウマになっていた。
「できた」
風が止む。鏡の中ではロウが満足げに笑っている。
「良いだろ。若返ったけど、十七歳なら大丈夫」
「いくつかわかんないよ」
「看守に聞いたら教えてくれる」
「そうかもね」
自分の年齢がわからないのは普通じゃない。だからもやもやしないこともないが、ここではどうでもいいことだ。ロウの言うとおり看守に聞いたら教えてくれるかもしれないが、わざわざ聞くことでもない。
ふと、髪を触られる感触。鏡を見ると、ロウが俺の髪に触れている。梳いたり指でいじったり、遊んでいるように見えた。それは彼の表情が楽しげであったからかもしれない。彼は鏡を通してではなく生身の俺を眺めていた。それがなんとなく恥ずかしい。目が合っているわけではないが、じいっと見られているのは居心地が悪かった。
「なあ」
手遊びをしていたロウが口を開く。
「クゼって、優しいからイヴァンが好きなの?」
「え?」
「理由」
意外なことを問われた。イヴァンを好きな理由?
「お代いらねえから、ちょっと話に付き合ってよ」
「そりゃ、ありがたいけど……」
沈黙が生まれる。きっと、答えろということなのだろう。鏡の中のロウを見ると、彼はまだ俺に目を落としている。けれど、彼の目には今何も映っていない。俺もよくあるが、目を見て、または顔を見て話せない時に、今のロウのように視線をどこかに逃してしまう。
真剣に答えないといけない。俺がイヴァンの顔を見られないときは総じて不安なときだから。
「イヴァンは、俺の話を聞いてくれたから」
鏡の中のロウと目が合い、思わず目を逸らす。
「話?」
「そうだよ」
ここに来た時のことを思い出す。あの頃は、どうせここでもみんなから無視されるのだと思っていた。無視されて、都合の良いときだけ近づいてきて、それで――。
「質問にも答えてくれた。無視されないことが嬉しくて、すごくしつこかっただろうけど、イヴァンは一度も無視しないし殴らなかった。……俺にとってはすごいことだったんだよ」
「無視されたりしないことが?」
ロウの声は穏やかで安心する。逸らした目線を上げれば、鏡の中で彼と再び目が合った。声と同じく敵意のない表情。今度は俺も目を逸らさない。
「俺、人から好かれないから」
「日本でも?」
「……せめて役に立てたら良かったんだろうけど、何やっても人並み以下でさ。守ってくれる人もいなかったから、でかくなる前に物好きの外国人に売られて終わり。売られてから、割と言葉の覚えは早いことを知ったよ」
「この間も、きれいな発音だった」
「ありがとう。褒められると嬉しい」
正直に告白すると、それまで鏡越しに俺を見ていた鏡の中のロウが目を伏せた。
(綺麗だな……)
ふと思った。きめ細やかな白い肌に、艷やかな黒髪。人種的には俺と彼は似たようなものだから、なおさら美しく感じるのかもしれない。
(はじめのときは思わなかったけど……)
俺なんかをタイプだと言われて否定しなかったから、俺の目になんらかのフィルターがかかってしまったのだろうか。
(違う)
フィルターじゃない。俺を否定しなかったから、そこで俺は初めて彼に興味を持ったのだ。単なる背景から心を持っている人間だと思って彼を見るようになった。「イヴァンの元仲間」から「ロウ」に変わったから、彼の容姿も意識するようになっただけ。
そういえば、ここに来た頃の俺は、イヴァンでさえもどうでもいいと思っていた。ロシア人かと思った、と人によっては殺されてもおかしくないようなことをぽろっと言ってしまい、殴られなかったことで少しだけ興味を持ったが、どうせ期待しても無駄だという無意識の思いが根底にあったから、下水労働のときに少しずつ話すようになって彼が俺を無視しないことに気が付くまで、俺は彼の瞳の色さえわからなかった。
「クゼ」
鏡の中のロウをなんとなく見つめながら思いに耽っていたから、ふいに聞こえてきた彼の声はまるで夢の中で聴くもののように感じられた。
「俺はイヴァンのことはよく知らない」
ロウは鏡を通して俺のことをまっすぐに見つめていた。真剣な眼差しになぜか背筋が伸びる。
「ここに入った頃同室だったカイとイヴァンが仲良かったからなんとなくつるんでただけで、二人で話したこともほとんどない」
「そうなんだ」
「ああ。……だから、いいやつとか悪いやつとかは俺が言えたことじゃねえのはわかってるけど」
そう言うとロウは時間を稼ぐように深く息を吐いた。
「俺は、クゼに死んでほしくない。……だから、イヴァンが本当にクゼが思った通りのやつなのかどうか、初めて無視されなかった――ってのは一旦どっかにおいといて、ちゃんと見てみてほしい。って言ったら、俺を嫌うか?」
ロウの困ったような笑みに、俺は戸惑った。ロウの言っていることはわかる。俺がイヴァンを好きになったきっかけはあまりにも単純だ。普通であれば無視せず、質問に答えてくれただけで好きになるなどきっとありえないことだ。
それよりも――。
「もしかしてロウって、俺に嫌われたくないの?」
「気になるのそこ?」
ロウが控えめに笑った。
「イヴァンのことは、あんたには悪いけどもうしょうがないよ。刷り込みに似た感じで、多分俺イヴァンに殺される時まで信じてる気がする。何を信じてるのかはわかんねえけど……。って、自分で何言ってるかわかんないや」
「まあ、俺の言いたいこと伝わったんだろうなってのはわかる」
「俺に嫌われたくないなんて思う人、今までいなかったよ」
「ここにいる」
即答される。穏やかに断言され、俺はまたしても困ってしまった。ここまできたら嬉しさよりも疑問のほうが強くなる。
俺は今まで人に好かれたくて、優しくされたくて仕方なかったが、好かれたり優しくされるような人間ではないことを自分でも十分すぎるほど理解していた。
それなのにロウは俺に嫌われたくないと言う。
「お、俺の顔……自分で言うのも変な感じだけど、俺の顔がタイプだって周りに言われて否定しなかったから、やりたいのかなとは思ってたけど……」
それが好意的な態度に繋がっているのだろうと思っていた。
「やっ、やり、べ、別にそういうんじゃない」
「ごめん」
「初めは、かわいい顔してるなと思ったくらいだったけど……。ほら、イヴァンが独房入れられてたときのこと、覚えてる?」
「え? あ、うん。俺が下水に身投げしようとしてたやつ」
すでに鏡は見られずに俺は俯くしかなかった。好意を言葉に出されたことなんてないから、ロウが何を言い出すのか、彼が思いを音にしてくれない限りわからず、それまで俺はどきどきしながら待つほかない。予想ができないことに対してのストレスはすさまじい。
「その後もハイゼがクゼにちょっかいかけるから観察する機会が多くあったんだけど、クゼっていつもイヴァンに一生懸命だから」
「一生懸命……」
「良いなあって思うようになった。俺もこういうふうに好かれたいなあって」
絶句。何も言えない。何を言ったらいいのかわからない。もしもイヴァンとの約束がなくても、仮に俺がイヴァンを好きじゃなくても、安易にケツを貸したらいけないやつだ。だって、ロウは俺の外側だけじゃなくて中を見てくれてる。
俺は人に好かれるようなやつじゃない。大事にされた経験なんてないし、いつも俺は邪魔者だった。
俺は好かれるようなやつじゃない。それはわかってる。でも――。
(嬉しい……)
「殺されてほしくない。クゼはいいやつだ。なんとなくだけど、そう思う」
「わ、悪いやつだよ、俺は。数えてないけど、たくさん人殺してるし、性格だって悪い」
「髪の毛切ってるとき、俺は安心してた。もし俺が失言しても、クゼはキレたりしない。そこらへんに転がってる鋏を俺に向けもしない。そんな確信があった。それはクゼが弱いからじゃなくて、普通のやつだからだ」
「……普通の人は、誰も殺さない。俺が普通だったら、とっくの昔に死んでたよ。人を殺してまで生きてない」
「俺がそう思ってるだけ。それならいいだろ」
かなしい。
ロウは俺を過大評価してくれている。無価値な俺は彼が思うような人間ではないのに。それなのにロウは俺をいいやつだと言ってくれる。俺をいいやつだなんて言ってくれる彼が哀れだ。なんとなく悲しい。でも、認めてもらえたことがどうしようもないほど嬉しい。
「よくわかんねえ……」
発するつもりのない言葉が口から出た。日本語だったからロウにはわかるはずないのに、彼は何も問わなかった。
「また伸びた頃に切るよ」
そう言って彼は後片付けをし始めた。手伝うと言ってみたら、役割を与えられた。布巾を濡らして鏡や台を拭くのも、物を所定の場所に戻すのも新鮮で、このときばかりはまるで普通の人になったような心境だった。
普通になりたい。
心の底から願ったのは、生まれて初めてだった。