鋏2
東棟C区に俺とイヴァンの房がある。
ロウは理容班を出たあと、自分の居住区を越して俺を房まで送ってくれた。
イヴァンは不在なのか、房には鍵がかかっていたため、ドアの横についている小さなカメラを覗き込みロックを解除する。
看守は自由に開けられるが、他の囚人は中からの許可がないと入れない仕組みになっているのはありがたいことだった。
思ったとおり、房は無人だ。
監獄内は季節がわからないほど気温が一定だが、誰もいない房の中をなんとなく肌寒く感じた。
(初めて話を聞いてくれたから)
今日は疲れることなんてしていないのに妙な疲労感を覚え、雑に靴を脱ぎ捨ててベッドへ倒れ込む。
刑務所とは思えないくらいふかふかした布団に顔ごと包まれた。気持ちいい。夕食後に髪を切ってもらったから、あとは眠るだけ。ベッドの心地よさに意識ごと身を沈めてしまえばいいのに、俺は眠気に抗うようにしてイヴァンのことを考えた。
俺は、初めて話を聞いてくれたからイヴァンのことが好きになったとロウに告げた。自分の気持ちについてあまり深く考えたことはなかったが、尋ねられて頭に浮かんだのだからこれが俺の真実なのだろう。無視されなかった。質問を繰り返してもちゃんと答えてくれた。そんな経験は「初めて」だった。
「……はじめて」
じゃあ、初めてじゃなかったら? 俺に優しくしてくれる人が他にもいたら、イヴァンは特別じゃなかったのか? 俺は初めて神を疑うどこかの信者みたいに考え続けた。けれど、どんなに考えようとも仮定の域を出ず、暇つぶしのゲームくらいにしかならない。
そうこうしているうちに開錠音がしてトビラが開き、俺ははじかれたように身を起こした。
「おかえり!」
ベッドの上に正座をして迎え入れると、イヴァンは灯りも付けずに俺のベッドの前に立った。
「寝てたのか」
「いや、考え事してた」
「考え事?」
「うん。電気付けねえの?」
「いいよ」
イヴァンが俺のベッドに腰掛ける。そして斜め後ろにいる俺に目を遣ると、一言「ガキみてえ」と吐き捨てた。
「言われると思った。ロウにも若くなったって言われたし」
「若いっつうか……。同じ年っていうのが信じられねえな、やっぱり」
「それさ、イヴァンが気になるなら、今度看守に本当の年齢聞いてみようか?」
言いながらイヴァンの隣に移動してベッドから足を下ろす。ドアに開けられている小さな覗き窓からわずかな灯りが届き、そのおかげでイヴァンと俺の足が見えた。結構な体格差。俺は子供体型ではないし、イヴァンもがっしりとした体型ではないのに、その差はまるで大人の男と女のように思えた。
「本当の年ってなんだよ」
「俺、前に大体の年齢しかわかんないって話したと思うんだけど」
「話してねえよ」
「え?」
「ハタチなんじゃねえの? お前、前に同い年って言っただろ」
「……結構意識ない期間あって、十七からハタチくらい」
「はあ!?」
イヴァンが俺を睨む。彼の迫力に気圧され、少し距離を開けるがすぐに詰め寄られる。
「じゃあ十七だろ! くそ、常識ぶっ壊してお前が同じ年なのを受け入れようとしてた俺がばかみてえじゃねえか!」
「い、いや、だから、わかんねえって。同じくらいの年なのは変わんないじゃん」
「変わる!」
「えー……」
イヴァンがいらだちをぶつけるようにして自分の頭をがしがしとかく。
でも、自分で十七からと言ったが、十七だとしたら俺がたくさん人を殺してからまだ二年しか経っていないことになる。たった二年。今俺が狂わずに生きていられるのは、記憶が曖昧だからだと思っている。俺は人を殺した時の感触を覚えていない。
レイプと罵倒の日々を過ごし、薄汚れたスラムの片隅で日本刀を拾ったところは鮮明に覚えているが、それから拾った刀を使ってどう人を殺したのかはっきりと覚えていない。錆びているように見えた刀の切れ味は最高だった。しかし、俺をいいように扱っていたやつらが真っ二つになって死んでいったのを、映像と言うよりは言葉で覚えている。それをもったいないと思いながらも、覚えていなくて安心している自分がいる。
キレて刑務所を変えられた時も、興奮状態だったのか武器を手にしたところまでしか覚えていない。俺がやったことは事実としてあるが、人を殺した記憶はない。
「なんだよ、いきなり黙って」
呆れた声を出したイヴァンが顔を覗き込んできた。暗さが彼をモノクロームに見せている。
――イヴァンは、俺の話聞いてくれたから。
数十分前に自分が言った言葉。
――質問にも答えてくれた。無視されないことが嬉しくて、すごくしつこかっただろうけど、一度も無視しないし殴らなかった。
今まで言語化されずに俺の胸の中に漂っていたもの。自分の中にあったものなのに、言葉として外に出た途端、まるで意思を持った何かのように俺に考えろ考えろとアピールしてくる。イヴァンは無視しないし、殴らない。お前に優しくしてくれる。音になって意思を持った何かは、厚かましくこんなことを言ってくる。
「……十七だとしたら、まだ二年しか経ってないんだ」
イヴァンは優しい。話を聞いてもらいたい。
「何が」
「地獄」
俺は地獄にいた。死ねば良かったのに俺は死ぬことをせず、自ら鬼になってしまった。
「二年前のことなら、思い出そうとしたら思い出せそうで、嫌だなって、ふと思った」
「そうかよ」
「うん」
沈黙が落ちる。やはり、いけない話題だったろうか。あんなことを言って、俺はどんな返答を望んでいたのだろう。ただ、話を聞いて欲しかっただけ? わからない。どんよりとした気持ちが育つ。自分のことや気持ちについて考えることが多くなったが、それに比例してわからないと悩むことも増えた。
「……クゼ、最近変わったように見える」
イヴァンの言葉が頭に入ってきて、胸が何かが突き刺さった。殺される、と瞬間的に思う。イヴァンに傍にいることを許された俺で居続けようと思っていたのに、変わってしまったらもう一緒にいられない。殺されてしまう。俺の終わりは彼に決めてほしいが、それが「今」は嫌だ。胸が、心臓が、頭が痛い。
「何びびった顔してんの」
嫌われたと思って――なんて言ったらいけない。縋るような態度は彼は好まない。イヴァンに助けを求めた同室者たちは、助けを求めたから彼に殺された。
「まあ、大体わかるけどな」
イヴァンが溜め息を吐く。
「殺さねえから安心しろよ」
意外な言葉に顔を上げて、おそるおそるイヴァンの顔を見上げる。
「殺されたくないわけじゃない」
声が震えてしまった。
「……死にたくないって言えよ」
「ただ、今は嫌なだけ」
「……なあ」
「何?」
何が正解かわからない。だけど、俺は変わったらいけないはずだ。今までのイヴァンの同室者とは違うから俺は生かされている。イヴァンも興味を持って優しくしてくれている。それはわかっていたが、では彼が俺のどこを気に入ってくれているのかは全然わかっていなかった。イヴァンと同室になった時の自分の態度を思い出そうとしても、特に悩んだりせずに質問攻めにしていたことくらいしか思い出せない。
「お前、俺のことが怖いんだろ」
「そんなことない!」
間髪を容れずに否定する。俺の勢いにイヴァンが苦笑を漏らした。
「あるだろ。怖くなきゃ殺されるなんて思わない。俺が同室者を殺した話も知ってるだろうし、それでからかわれたりもしてるだろ」
「その話は知ってるけど」
何が正解かわからない。嫌われたくない。答えが欲しい。一時間後の自分に話を聞きたくて仕方ない。
イヴァンのことは全然怖くない。優しいから好きだ。
言うべきことを考えるが、命乞いのように聞こえる言葉ばかりが思い浮かぶ。
(いつかきっと殺される)
無意識の思考に、がぶりを振って抗う。イヴァンが見ていてもお構いなしだ。気にするべきだが、ばかな俺はこの奇行がイヴァンにどう思われるかよりも、自分の考えに裏切られ、支配されないことを重視してしまった。
(イヴァンは怖くない。優しい。俺はイヴァンのことが大好きだ。話を聞いてくれたし無視しないし、俺のあとについてこいって言ってくれた)
そうだ、イヴァンは優しい。俺の後に付いてこい。この言葉に俺がどれだけ救われたかなんて誰にもわからない。ずっとひとりぼっちだった。一人きりで生きてきた。『イヴァンの同室者はよく変わるんだ』いや、イヴァンは俺と一緒にいてくれる。話を聞いてくれる。質問にも答えてくれるし『飽きた頃に殺すから』笑いかけてくれるし、目を見てくれるし名前を呼んでくれる。それなのに、なんで怖がる必要がある? 俺はイヴァンを恐れていない。『今に殺されるぞ』恐れようがない。当たり前だろう。だって、イヴァンは、そうだ、俺はイヴァンが、
――イヴァンが怖い。