早寝記録

MAY

「Mayって知ってるか?」
 忙しない朝の食堂は、食器の擦れる音や味気ない食事をかき込む音であふれていた。いつもと同じ朝のようだが、ロゼは食堂に入った瞬間から聞き覚えの無い名が至るところでささやかれているのを感じていた。
 そして、ロゼの隣りに座った男が、話しかけてきたのだ。男はお世辞にも良いとは言えないニオイを吐き出しながらロゼに顔を近づけて言った。ロゼは男を不快に思ったが、今はその不快さを追い払うよりも食堂の至るところでされている「5月」――おそらく人の名前――について知りたかったのだ。
 ただの好奇心。あまり人に関心があるタイプではないが、メイという名は、ロゼが食堂に入ってきてからお膳を用意し着席するまで、ひっきりなしに聞こえてきていた。隣りに座った囚人とは普段話すこともなく、ただ労働が同じというだけの関係だが、その彼が声を掛けてくるくらいだからメイはかなり話題性が高いのだろう。
「知ってるんじゃねえか?」
 向かいに座っているひげ面の中年男が入ってくる。
「こいつ、確かここ来て一年も経ってないしよ。メイが暴れたのは去年の5月だろ」
「俺は今年の5月って聞いたけど」
 噂はまだ全然信用のならないものらしい。他テーブルを意識しても、聞こえてくる情報は不確か極まりないものばかりだ。
「そもそもなんだけど、メイって人なわけ?」
「ああ、新入りだよ」
 酒に焼けたのか叫び過ぎたのか、やけに嗄れた声で隣の男が言う。もったいぶった様子と、しわがれた声でメイそのものに気味の悪さが宿る。
「聞いたことねえけど」
 そろそろメイへの興味より隣の男の近さに対する不快感が勝り、さりげなく椅子を引き距離を取った。
 嗄れ声の男が口を開きかけたその時、
「メイだかなんだか知らねえけどよお、でかい顔させるわけにはいかねえよなあ」
 どでかい声が聞こえドアの方を見やると、ロゼが所属している棟で幅を利かせている中国人のチェリンという男の隣に、線の細い、見慣れない少年が立っていた。大人っぽいが、まだ体は出来上がっていないように見えるから、十代半ばか、いっても後半だろう。おそらくロゼと同年代の少年は苦笑まじりの笑顔を浮かべながらチェリンの方を見ている。
「あれがメイだよ」
 隣の男が再びロゼに顔を近づけ来た。狙われているのだろうか。
 隠し切れない不快感を捨て去るべく、ロゼは食堂中の注目を浴びているメイを改めて見た。腕が立つのかどうかはわからないが、弱ければ囚人たちのおもちゃになるだろう容姿だ。ここは女がいないから、美醜は別として小さく細っこいやつがよく男たちの標的になるが、彼ならきっと女が蔓延る外の世界でも男たちからほどほどにモテていただろう。
「なあ新入り、お前もそう思わねえか?」
 チェリンが薄汚い笑みを口元に乗せ、メイに向かって尋ねる。
「でかい顔はしないよ」
 メイが微笑む。
「ああ、チェリンさん、こいつがメイっすよ! なんだ、超弱そうじゃないっすか」
「ああ、悪いなあ、お前が噂のメイちゃんだったか!」
 チェリンの下卑た笑い声が響き、それはどんどん広まって、果ては狭くはない食堂中を包んだ。その笑い声が顔を近づけてくる男より何より不快で耐え難く、食事もそこそこにロゼは席を立った。向かう先は、洗濯室。ロゼの労働場だ。平和に生きていくためには、人のいない時間を見計らって行動することが何よりだと、ロゼはこの半年で学んでいた。

 終身刑の島がある。島一つがそのまま監獄になっていて、絶対に出られない。脱獄をもしするならば看守に取り入るのが一番だろうが、島からは出られてもそのあとは……。
 そこまで考えてロゼはため息を吐いた。そもそも大層なことは何もしていないのだ。小さな賭場にいて、これまた小さなイカサマをしながら生計を立てていたが、釣った相手が悪かった。ひとつのイカサマで終身刑なんて本当に笑えない。しかも周りは殺人犯ばかり。だが、ここはロゼ自身が選択した場所でもあるのだ。『殺人犯と、カルト信者、どっちが良い?』とほがらかに尋ねて来たのは島を統括する所長だった。ロゼはしばらく悩んだ末、「殺人犯」と答えた。今もその時の自分の決断は英断だったと思う。たまにカルト的なやつがいるが、彼みたいなものばかりの中に放り込まれたら体が死ぬ前に精神の死が訪れる。
(考えたって無駄だけどさー……)
 でも、考えずにはいられない。自分の罪は、カモを間違えただけ。普通ならば刑期は一年にも満たない。そもそも檻の中に入るに値するだろうか。それほどの小さな罪だ。それなのに終身刑。ロゼは深く肩を落とした。諦めなければ、やっていけない。
「下水ってどこにあるか知ってる?」
 声が聞こえたのは突然だった。今は食事時間のまっただ中であり、どう考えても声の人物はまだ配膳を終えた頃じゃないか。ロゼは、さっき知った声におそるおそる振り向いた。
 やはり、想像通りの人物が立っている。さきほどと同じ、笑みを浮かべて。
「こことは反対側」
「ああ、そうなの?」
 さっき知った声の主――噂のメイが、笑みを消し、うんざりとした様子で頭をかいた。肩まである男にしては長い髪が乱れる。
「参ったな。誰も教えてくれないのに反対とか……。ねえ、君さ、良かったら連れて行ってくれない? 今日だけでいいから」
「……死体でも捨てんの?」
「は?」
「まあ、よく流れるところだけど」
 努めて冷静に言って、ロゼは来た道を引き返した。
「連れてってやるよ」
 怖いし。
 選択肢は、ひとつしかない。特にロゼのような、まるでケンカに縁がない生活を送ってきた者にとって、反抗は死を意味していた。
 人気のない廊下に、ロゼとメイの足音と、あとひとつ、床を擦る不気味な音が聞こえている。ちらりと後ろを見ると、後ろから、大男を引きずっているメイがついてくるのがわかる。冷静に見えるが、ロゼの心臓ははちきれそうだった。爆発するなら今だろう。
 暴力や暴行が跋扈する街で、賭場に篭りイカサマだけで生きてきたロゼは腕っ節を鍛えることはしなかった。小さなサイコロと自由自在に操れる表情だけが彼の武器だったのだ。
 自分が持つメイの情報は無に等しく、5月に大変なことをした、という情報しか持っていない。大変なこととは大変なことなのだろう。彼が当たり前のような顔をして引きずっている男だって、さっきメイを小馬鹿にしていたチェリンにほかならない……ように思える。というのも、彼の顔は血に染まり、もはや何者かわからない。
「君、名前なんていうの?」
 下水に下りる階段に差し掛かった時、メイがのんびりした調子で尋ねた。ロゼは、振り向かずに答える。
「ロゼ」
「ロゼ? 本名?」
「そんなようなもん」
「なんか曖昧」
「名前なんてなかった頃に呼ばれだしたんだよ。ワインの名前。そこにあったからって付けられた」
「まじで? 適当」
 メイが笑い声を上げる。
「でも、俺も適当だしなあ。5月に捕まったからMayって、ふざけてる」
 こんな会話をしながら、気付けば下水の入り口まで来ていた。
「出てすぐの小部屋にマスクとかあるから、着れば良いよ。すっげークサイから」
 ロゼの言葉にメイはなぜか戸惑ったような顔をし、すぐに笑顔で礼を言った。
 それからは全力疾走だ。朝食の時間は他の食事時間よりも短いから急がなければ。囚人たちの列に入ったらもうおしまいだ。一度捕まったら、殴られ、ケツにぶちこまれ、最悪殺される。殺されたことはまだないがリンチもレイプもどっちも避けたい。朝は労働があるから一日の中で安全だという見方もあるが、ただで済まないことだってそれなりにある。
 メイを下水へと送り届けてしまったがために囚人たちが持ち場へ行こうとする波に不運にも乗ってしまったが、幸運なことに囚人たちはメイの話題で普段のような暴力へと頭が回っていないようだった。息を潜めて地味に、しかし怯えているように思われない絶妙の雰囲気でロゼは洗濯室まで進んだ。

 洗濯室には、囚人服やシーツ、清掃班が拾ってくる下水班の防護服やマスクが運び込まれてくる。下水班の防護服は鼻が曲がるんじゃないかと思うほど臭いが、ロゼは医療班から届けられる血みどろの囚人服やシーツなどの方が嫌だった。血の匂いは嫌いだ。それに色だって鮮やかなものも、乾いて黒ずんだものも薄くなった赤もどれも気持ち悪い。だから下水係にしてほしいと試しに班長に言ったら変人扱いをされたが下水係になることが出来た。
 下水班と同じようなマスクを装着し洗濯をする。しかし、息を吸ったら隙間から臭いが入ってきそうで、作業中にあまり口を開くものは普段はいなかった。
「メイって、地下街全部ぶっつぶした、あのメイらしいぜ」
 水の音や風の音がけたたましくなる洗濯室に、珍しくうわさ話が湧く。
「あのメイって言われても、知らねえよ」
 ロゼは機械に薬品を延々投入しながら、うわさ話に耳を澄ませた。
「――地下街ってあったろ」
「ああ。あの、世界最大規模の。え、まさかあれぶっ壊したの?」
「俺がここにぶちこまれる一ヶ月くらいまえだから、4ヶ月前か。水責めだよ。水道管やったとか? なんかよくわかんねえんだけどさあ、気付いた時にはどうしようもなくなってたんだって。みんな死んだ」
「へえ。騒がれただろ、じゃあ」
「うざいくらいニュースでやってたな。しかも、あいつ全く抵抗せず捕まったし」
「すぐあいつがやったってわかったんだ」
「ああ。堂々とやってたもん。映像にも残ってた。それから逃げるわけでもなく近所の2階建ての建物の屋上で惨状を楽しそうに眺めてたんだって」
「……なんなの。メイっておかしいの?」
「まともだったら普通やんねえだろ。あーあ、そのせいで俺がやっちゃった事件なんて少しも話題になんなくてさ、まじで運悪い。もっと刑期軽くていいじゃんなあ」
 軽い調子の囚人のため息を聞きながら、ロゼはさっき出会った彼を思い起こした。血だらけの男を引きずりながら、聖人君子のような笑みを美しい顔に湛えていた。
(……まともじゃねえな)
 ロゼは思った。だけど、下水に送った時、戸惑った顔を見せたメイを見て、こいつなら釣れそうだと思ったのも確かだった。賭場に来たら絶対にいいカモになる。きっと楽しそうにサイコロを振るだろう。そして負けてもヘラヘラと笑ってまた遊びに来る。
(って、ただの想像だけど)
 疲れてるのかな、と薬品を一度置き、大きく伸びてみる。思い出したら帰りたくなるからなるべく賭場のことは思い出さないようにしているのに、うっかりと鮮明に思い出してしまったのだ。
(他のこと考えよう)
 再び置いた薬品を取り、一気に機械の中に投入した。機械は大きく、その中では数十の防護服が予測不能の回転を見せている。それを眺めながら考える。
(水責めかあ)
 薄汚れた街の小さな賭場しか知らないロゼにはさきほど彼らが言っていた地下街など知った世界ではなかったが、それでも名前くらいは聞いたことがある程度に大きなところだ。メイはそこを壊した。水で責めて、たくさんの人が死んだらしい。
 計画が成功したのなら、彼はどういう気分でビルの屋上から見下ろしていたんだろう。
 おそらくないと思うが、機会があれば聞いてみたかった。


 洗濯班は数少ない当たり班だと言われている。洗濯班の中でも下水係にならなければ天国だと。肉体労働が主な囚人たちから見れば、延々とシーツにアイロンをかけ続ける労働はご褒美に等しいのだ。
 労働を終えたロゼは、ひとり食堂に来ていた。食堂には食事の臭いや汗や体臭が混ざり合ったむわっとした空気が立ち込めている。一応換気のための機械は取り付けられているが、それが正常に機能しているとは思えなかった。
 人の声や食器が出す不快な金属音などにうんざりしながら食事をよそうために囚人らの列に並んだ時だった。
「ロゼはいるか!」 いきなり現れた看守のドスの利いた声が食堂内を鎮めた。ロゼに気付いた囚人たちが怪訝そうに、または好奇心をあらわにロゼに注目する。
「あれ、I区の区長じゃねえ?」
「そうだ、ロゼってやつ何したんだよ」
「独房行きか?」
 囚人たちが思い思いのことを飛ばす中、
「ロゼ! 早く来い!」
 後ろの囚人の背中を押され、ロゼは空っぽのトレーを置き、区長の待つ入り口へと向かった。食堂中の囚人が自分を見て、そして好き勝手なことを言っている。ここまで目立たずにやってこれたのに、これはいたすぎる。それ以前に、区長はまるで鬼の面をつけた悪魔のような出で立ちで、今にも隠し持っている棍棒でぶち殺さんばかりの怒気を放っている。
「ロゼか」
 区長が短く問うてくるのに頷いて答えれば、そのまま凄まじい力で腕を引かれる。
「下水に向かう」
「え?」
 なんで、とは聞けなかった。下水に向かうと告げた時の区長の目が殺意に満ちていたからだ。だからロゼは疑問を抱きながら区長に引っ張られるしかなかった。
 下水、と聞いてひとつ浮かぶのはもちろんあの出来事だ。
(メイを、下水に連れて行った)
 それしかないだろう。下水班の防護服を上手く洗えていなかった、とかで咎められるのならまだ嬉しいが、あいにく今日の洗濯も上手く出来た。心臓は騒がしいが、今朝、メイに声を掛けられたときほどではない。ただ、すれ違う囚人たちがひそひそと声を潜めながら自分を見ていることにこれからの身を案じずにはいられなかった。
 下水に下りるための階段に差し掛かった頃、ようやく区長が口を開いた。
「メイと話をしろ」
「え?」
「下水は人を流すためにあるのではないと説明するんだ」
 そう言って看守は下水へのドアを少しだけ開けるとロゼをドアの向こうへと押し込んだ。ロゼは背中で鍵が閉まる音を聞いた。

 下水は広い。にも関わらず、いくつものブロックに分けて汚水の中を監視し、大きな異物があったら取り除かなければ汚水の流れが止まってしまうらしい。ロゼは、下水特有の悪臭にまず顔をしかめ、いつもとは異なった様相を呈していることに気が付き唖然とした。
 ロゼが区長によって押し込められたのはDブロックだ。隣はCとEで、普段であれば一見しただけではブロックごとの区切りがあまりわからないが、今はそれぞれの境目からシャッターが下ろされている。
(何が起こってるんだ?)
 ロゼは気休めにいつもポケットに入れている洗濯室のマスクをし、とりあえず歩き出した。少し進んだ所で、Cブロック付近に数人の囚人と看守がいるのが見え、駆け足で向かう。そこで初めてロゼは下水を流れる汚水の耳をつんざくような音が今日は聞こえていないという事に気がついた。
 走りながら下水を見ると、水の流れは止まっていた。
「――っ」
 そして、その中には水に浮かんでいてもわかるほど血に塗れた囚人たちの死体の山が築かれていた。
 Cブロックの付近を改めて見ると、3人いる看守の内ふたりは床に押し倒されている囚人に銃を向けている。しかし、囚人を押し倒している方も防護服を着ているから、もしかしたら囚人かもしれない。
「ロゼか!」
 走り寄るロゼを見つけた看守が叫ぶ。
「ロゼ?」
「メイ……」
 やはり、押し倒されている方はメイだった。見ると、床に頭がおかしな方向に曲がった看守がふたつある。
「また会ったね」
 この状況をどうとも思っていないのか、メイはどこまでものんきそのものだ。
「なんてね。看守に連れて来られた? おれを止めろとか何とかって」
 なんとか言えばいいものを、3人の看守は表情を引き攣らせながら黙ったままメイから目を離そうとしない。防護服の男はメイに馬乗りになり彼を拘束しながらメイとロゼの顔を見比べている。
「……説明して来いって言われたんだけど」
「説明?」
「下水は人を流すとこじゃねえよって」
 ロゼの言葉にメイが吹き出す。
「知ってるよ、そのくらい」
「……下水に人溜まってるよ」
「溜めたから」
「……わかってないじゃん」
「よく、下水に死体が流れてくるって聞いたから、死体ができたから流したんだよ。別に、溜めようと思ったんじゃない」
「そっか」
「捕まえたんだから殺せば良いのに、ずっとこのままなんだよ。離されても、もう何もしないのに」
「……信用、できるか」
 看守の一人が絞り出すように唸る。
「じゃあ、せっかく銃があるなら使えばいいじゃん。別に良いよ、おれ、撃たれても」
「まるで他人ごとだな」
 防護服が言う。
「他人ごとだよ。っていうか、君も災難だね。巻き込まれて。名前……は、良いか」
「……イヴァン、立たせろ」
 いつの間にかロゼの後ろには区長が来ていたが、情けなくもロゼがそのことに気付いたのはこめかみにひんやりとした銃口が突きつけられた瞬間だった。
 俺には人質の価値なんてないんだけど……とロゼは当然思ったが、それを出してはいけない空気があり何も言わず銃口を感じるしかない。
 看守たちは人質に価値がないことにはひとつも気づかずに慎重にことを進めていると思っているのだろう。想像するとコメディだが、笑える余裕はない。
 イヴァンという防護服の男が、メイを拘束しながらもゆっくりと体勢を変え、立ち上がる。メイは彼がやりやすいように協力しているようにさえ見えた。
「そのまま、独房に向かえ」
 区長が命令する、看守たちが銃口をメイに向けながら後退る。どうやら、ずっと銃口を向け、囚人にメイを拘束させながら連行するらしい。
「何をぼさっとしている。お前も行くんだ」
「え」
 区長がロゼのこめかみに銃を押し当てる。ちょうど気持ちがいいツボに入ってしまったが、そんなものを感じ取れるわけもなく、ロゼはなぜか下水一行と独房へ向かうことになった。

「ごめんね」
 銃を突きつけられているロゼに向かい、メイが微笑む。「迷惑かけようとかそういう気持ちはなかったんだ」
「なんで殺したの」
 なんとなく、ロゼは尋ねてみた。看守やイヴァンという名の防護服の男、廊下にたむろしている囚人たちに聞こえてしまうことはわかっている。
「……難しい質問だね」
「そう?」
「理由は、殺りたかったから、かな」
「とんでもない」
「そうだよ、とんでもない。けど、あいつ、チェリンだっけ? あれに似てたんだ」
 ここまで聞いて、メイが今朝引きずっていた男について話していることに気づく。
「一応、殴られるくらいだったら我慢しとこうと思って来たけどさ、なんか失敗しちゃって」
「あいつを捨てたんだ」
「そう。せっかく教えてもらったし、労働始まる前に捨てた」
「下水班なの?」
「あれ? 言ってなかったっけ」
「言ってない」

 こんな普通の……普通かは微妙だが、穏やかに会話をしながら独房が並ぶ棟へと足を踏み入れる。棟への入り口には銃を持った看守がおり、ドアマンの係も請け負っていたが、メイが彼の横を通り過ぎた時明らかな緊張が走ったのをロゼは感じ取った。
 扉が完全に閉まりきると、ひんやりとした不気味な空気がロゼの体を貫いた。あかりは少なく、ほぼ完全な暗闇に近い。足音がやけに響いて聞こえる。
 少し進むと、左右への分かれ道に出た。
「ヘル区長、どちらへ」
 銃をメイに突きつけている看守が尋ねる。
「別区だ」
 区長の言葉に看守たちが息を呑み、
「特別待遇じゃねえか」
 イヴァンもおもしろそうに呟いた。

 ヘル区長がひどく重々しい鍵で開けた先にあったのは長い廊下と、その先のたった一つの個室だった。
「期間は未定だ。食事はベッドの下の引き出しに入っているものを食え」
 まず区長がこう言い、ロゼを房の中へ投げ入れる。
「えっ」
 それからすぐにメイもイヴァンによって投げ入れられ、ロゼとメイはふたりなかよく床に倒れ込んだ。
 ロゼが立ち上がり非難の声を上げる間もなく、ドアは閉まり、さらに分厚い鉄扉が上から落とされた。
「……まじで?」
 床に肘をつき、なんとか体を起こす。橙に発光するぼやけた電球が切なげに辺りを照らしていた。