早寝記録

好奇心猫を

 掃除をすっかり終えて戻ってきたクラヤミ6号の中で、おれはぼんやりと時計を見つめていた。時刻は午後二時。本格的に掃除をはじめてからは、だいたい朝の四時頃に掃除に出向くようにしている。最近では午前中には終わるようになったが、それぞれの箱の汚れる頻度や度合いなどもわかってきたから、計画的にこなせばもっと時間は短縮できそうだ。
 こんなことを考えながらなんの疑問も持たずに毎日を過ごしている自分が嫌だ。しかし、おれは感じ始めていたのだ。自分がすこしおかしい思考の持ち主なのではないかということを。感じ始めていた、というよりはきっとおかしいのだろう。火野兄を見ていてそう思う。
「柊さあ」
 未だ布団に入りながらうとうとと船を漕いでいる柊に声をかける。
「何……」
 眠そうな声が帰ってくるがかまわず続ける。
「帰りたいって思ったことある?」
 衣擦れの音がして時計から柊に目を向けると、彼は驚きの表情を浮かべて布団から身を起こしていた。
「そんなにびっくりする質問かよ」
「びっくりしたよ。なんかびっくりした」
「で、あるの?」
「そりゃあ、あったよ」
「過去形?」
 火野兄弟によると、イギョウになってしまったらもう帰れないらしい。だからイギョウである柊にこんなことを聞くのは無神経だが、聞けるのは柊しかいないし、彼に聞きたかったのだ。おれは、柊のことを知りたい。
 最近自覚したが、おれは柊に興味がある。これは好意から来るものだ。
 飄々としているようでいてとても弱く孤独な少年に、おれは親近感にも似た好意を抱いている。
「今はもう帰りたくないよ」
 少しだけ時間を置いて柊が答え始めた。
「帰れないし、帰ったって何もないから。もうほとんど忘れちゃったけど、いい人生じゃなかったってことは覚えてる。昔のことを思い出そうとするとすごく悲しくなるし、気分が塞ぐ」
「へえ」
「ここでだって敵ばっか、っていうか、それしかいないけど、灯がいるから俺はここにいる。もしも帰れたって帰らない」
「灯ってなんなの?」
 いつもより力強く言う柊に対し、はっきりとは判別のつかない感情が起こった。そんなに灯にこだわっているのかという勝手な嫉妬かもしれない。灯のことは知らないし柊のことだってわかっているとは言えない。それなのにこの我が儘な心はおもしろくないと口を尖らせる。
「灯は兄的存在だよ。近所の兄ちゃんで、俺が一方的に慕ってた」
「そうなんだ」
 過去形だということが気になったが、寂しそうに、けれどうれしそうでもある曖昧な表情で笑う柊に見とれてしまって言葉にはできなかった。もしできたとしてもきっと聞かないほうがいいことだ。
 柊のことは知りたいが、なんでもかんでも聞いて傷つけたくない。
 それに、灯のところとは別におれは柊の返事を聞いて満足していた。彼は帰りたくないと言った。よくよく考えてみたら自分だってなんとしてでも帰りたいわけではない。忘れてしまうのは嫌だけど、もう忘れてしまったし、思い出したくもない。たまに思い出される思い出は良いものも少しはあるけれど、寂しい感情が起こるものが多かった。遠ざかる人の背中ばかりが目に焼き付いている。
 聞いておいて自分のことを話さないのはフェアじゃないかもしれないが、何も問わない柊に甘えてこの話はここで終いにすることにした。
 おれは最近感じ始めていた。
 おれは結構早い段階で帰ることを諦めた。さっき柊も言っていたが、帰ったって何もないのだから。
「住めば都になればいいなあ、なんて」
 思っちゃっている。
 声に出さないはずのおれの言葉はしっかりと声に出てしまったみたいで柊の顔が驚きのものに変わった。
「すごい。凌平、なんかはじめてのタイプだ」
「そう?」
 もうどうでもいいやと思い柊を見ると、彼は難しい顔をしてぶつぶつとひとりごとを言っていた。
「だから団長も気に入ったのか……」
 それから、勢い良く顔を上げて言った。顔は真剣そのものだった。
「イギョウになるのはやめといたほうが良いよ。もしなるなら、団長か元団長にしたほうが良いよ。そうしたら多分扱いは全然違うから!」
 こんなアドバイスはいらないと思った。
 けど、さっき火野弟も同じ事を言っていた気がする。イギョウを憎んでいるはずの火野兄弟の言葉とは思えなかったが、だからこそ彼の言葉には信憑性がある。
 そういえば――
 火野弟は、柊をイギョウにしたのは稲様だと言っていた。
 稲様――背が高く、格好良く、モデルさんみたいな狐の妖怪。体勢を変えずに目を動かして柊の布団の向こう側へと視線をやる。いつもの場所に薬箱があった。そこの中には稲様が入った竹筒のような箱が入っている。
 おれはここに来てから掃除以外の時はほぼ全ての時間を柊と共にしている。そして、その場所はクラヤミ6号がほとんどだ。
 しかし、彼の相棒であるはずの狐の神様――稲様には一度しか会っていない。それも残像で。
 稲様が何者なのか、なぜ姿を現さないのか聞いても良いか迷った。火野弟は元団長とクチナワと喧嘩していなくなったと言っていたが、それは間違いだ。だっておれは残像だけど、柊の相棒に会ったのだから。
 聞いたら柊は答えてくれると思う。しかし火野弟は柊をイギョウにしたと稲様の名を挙げたのだ。だから聞いて良いのかわからない。
 けれどおかしい部分もある。前におれが柊の相棒を紹介されたとき、その時は残像しか見えなかったが、柊からは稲様に対する嫌悪や憎悪のような悪い感情は受けなかった。
 むしろ親しいんだな、と思えるほどだった。それならば、柊は自ら進んでイギョウとなったのだろうか。
(埒あかねえ)
 いいか、言ってしまおう。柊は怒らない。
「柊」
「何?」
 一呼吸置いて、なんともないように口を開く。
「稲様に、会ってみたい」
「……はい?」
 言ってしまった。柊は仰向けに寝ていたが、肘をつき身を起こした。
「今、調子悪いんだよ」
 柊が伏し目がちに呟いた。どことなく目は泳ぎ、彼の嘘を告げる。
「調子が悪い?」
「そう。……なんか、なんていうのかな」
 柊が彼の布団のそばにおいてある薬箱に目をやった。その中には稲様が入っている。
「なんで……。凌平、なんでいきなり稲様に会いたくなったの?」
「ああ。なんか、おれ、クラヤミ6号に住んでるくせに、稲様を残像でしか見たことねえから」
「残像って……」
「狐の神様があんなに小さくて素早いなんて知らなかった」
 そう言って、おれは急にばつが悪くなり柊から視線を逸した。柊が話したくないということははっきりとわかった。
 彼がイギョウとなった経緯も何もかもわからないが、おれが彼の心を乱し、しなくても良い嫌な思いをさせていることは事実だ。
 せめて柊が嫌な想像をする前に取り繕う。
「今言った理由も本当だけど、おれ、稲様について聞いたんだよ。火野、弟の方から。それ聞いたら見てみたくなって。すごい格好良いよって言ってたから。けどおれは残像しか見たことないから。別に、困らせる気はなかった」
「……俺も……」
 柊が何かを言いかけて口を閉ざす。
「ううん。……駄目だ。俺、なんか凌平といると言わなくてもいいこと言っちゃいそうになる。すっげー女々しくて重たい恋人みたいなこと。……トイレ行って全部流してくるね」
 そう言って柊が立ち上がる。クラヤミ6号から彼が出ていくのをおれは黙って見ていた。