早寝記録

陰気な方

 日々は変わりなく過ぎていく。柊との関係も同様に変わりなく、彼に抱いた罪悪感は徐々に消えていった。
 同じ毎日を繰り返している。しかし、今日はいつもとは少しだけ違うようだった。いつもは揃っておれが掃除をしているのを見ているか、終わったらすぐに帰る火野兄弟だが、今日は弟の方だけが箱に残っていた。彼は、おれが掃除をするのをぼうっと眺めている。
「凌平はなんか変わったことねえの?」
 しばらく見るだけだった火野弟が突然話しかけてきた。おしゃべりな兄がいなくてもしゃべるんだ、というのがまずはじめに思ったことだった。
「変わったことって何?」
「兄ちゃんは火種を口の中に入れて、その火種の何倍もの炎を吐ける。俺はそれを受けられるようになった。これ、種も仕掛けもないからさ、普通の人間なら死んでる。そういうことないの?」
 火野弟に聞かれて考えるが、ここに来てから変わったことなんて忘れっぽくなったことくらいしか思い浮かばないし、ないと思う。忘れっぽくなったのも過去の事で、ここに来てからのことは忘れないようだ。
「別にないよ」
「そっか。あれば掃除なんてしてないもんなあ」
 火野弟は、それっきり何も言わずに再びおれが掃除をしているところをただ眺め始めた。
 火野弟は掴みどころがない。口数少なく、考え事をしていると言うよりはぼんやりとしているように見える。しかし、そうかと思えば不意に確信を突いてきたりする。
 火野兄は弟とは対照的にわかりやすい人だと思えた。彼は感情がそのまま顔に出るようだった。そして、兄の方は挨拶がわりに柊から離れろと言う。
『いずれ帰りたくなる時が来たって、柊といたら死んでも帰れなくなるよ』
 正直、繰り返される彼の言葉にはうんざりしているが、それでも彼の表情が本気で自分を心配していることを示しているから強くは言えない。

 綺麗な雑巾を濡らして箱の中を丁寧に拭いていく。日々の手入れがそのまま効率の良さにつながるのだ。
「凌平さあ」
「……何? つうか見てんなら手伝ってよ」
「俺、一仕事終えたばっかなのに」
「若いだろ。元気だろ。手伝えって」
「俺の方が年取ってると思うんだけどなあ」
 期待せずに言ってみると、火野弟はぶつぶつと言いながらも不承不承腰を上げた。そして、雑巾を濡らし煤を拭きとっていく。しばらくはふたりで無言で作業をした。少しずつだが煤が消えて白い箱が顔を覗かせる。少しずつの作業。進みはのろいが、火野兄弟の箱が一番時間と手間がかかるから、ここさえしっかりやればあとは手早く終わらせられる。
「凌平さあ」
 火野弟が雑巾を左手に持ち替えた。さぐるようにおれの名を呼ぶ彼の声に、懸念していたことがついに来るかと思った。
「何?」
 人を説得するときなどは、押してダメなら引いてみろという。
 きっと、今が引きどきだ。
 火野兄弟は同じ人間であるおれにすくなからず仲間意識を抱いてくれているようだった。火野兄は口酸っぱく柊から離れろと言い続けている。弟は我関せずと言った調子でいるが、おれにはそれが不思議だった。火野兄が押すタイプならば弟はきっと引くタイプだ。来るだろう戦いの始まりに身構える。
「俺達以外の人間に会った?」
「……は」
 しかし、彼が口にしたのはおれが想像していたのとは全く違うことで、なんだか拍子抜けしてしまった。しかし気を抜いてはいけない。緩んだ気を引き締め直す。人間に関する話題の終着点は「柊から離れろ」。これにつながる。
「御国とか……御国とか」
「ミクニ?」
「御国だね。人間に会ったかはどうでも良かった。凌平、御国に会った?」
「い、いや」
 しかし、火野弟は本気か冗談かわからぬようなぼんやりとした口調を崩さない。
「なんだ、まだか」
「御国って名乗るやつには会ってない。通りすがりとかは知らない。おれ、異形と人間の区別つかねえから。ひょっとしたら幽霊との区別だってついてないかも」
「ああ。まあ、しばらく見てるとわかってくるんだけど、けど凌平引きこもってるから時間かかりそう」
 火野弟の指摘に情けなさを感じ言葉につまる。
「けどたまには見てるよ。つうか、おれからしたらあんたらがおかしい。よくもあんなグロテスクなもん平気で見れるよ」
「今でも急に現れたらぎょっとするけど、いいやつもいるよ」
「……知ってるけどさ」
 言いながら、風の何かを思い浮かべる。彼は掃除をするおれを待ち、律儀にお礼を言ってくれるのだ。気まぐれに埃を集めてくれる時もある。目には見えないがいいやつだ。
「全部が全部苦手なわけじゃない。けど、見ると勝手に、なんていうの、胃液が上がってくる。おえって。しかも考えてみればなんかすっかり受け入れちゃってるけど、おれ見世物小屋の掃除夫なんてしたくない。お客様として大事にする筋合いはねえよ」
 そう言うおれを火野弟が冷めた目で見た。
「凌平、そう言う割にはしっかりと掃除するよね」
「暇だから!」
「ああそう」
 火野弟が適当に返す。いらついたが、懐かしい苛立ちだった。なぜ懐かしいのかはわからないが、気が緩んだのか、訊かなくていいことを聞いてしまう。自分から話題に出すのは馬鹿な事だと思ったが、なんとなく彼ならば知りたいことを教えてくれると思った。
「あのさあ、イギョウってたくさんいるの?」
 おれの質問に火野弟は手を止め、表情のあまり変わらない彼にしては意外そうな目をしておれを見た。しかしすぐにいつもの火野弟に戻り止めた手を再開させる。
「そんなにいないよ。人間のおっさんとかはよく客として来て異形の女に誘惑されてイギョウになるけど、ここに定着はしない。クチナワがどっかに捨てるから。女の子は結構いるけど全員色小屋行きだから会えない」
 火野弟が淡々と教えてくれる。新たに出てきた名前も気になるけれど、今の彼の説明でおれはある確信を抱いた。
 それは、どうしたらイギョウになるのか。今までなんとなく予想はしていたが今の火野弟の言葉ではっきりとわかってしまった。
「……男でも、色小屋行きになることあるから、どんなに可愛い子に言い寄られても受け入れないほうが良いよ」
「それは大丈夫だけど……」
「もしイギョウになるなら、元団長か団長、それから稲様……はいないしもうダメか」
「稲様?」
「ああ。柊の相棒。柊をイギョウにした人」
 相棒と聞き、クラヤミ6号の中を縦横無尽に走り回るあのふもふもしたしっぽが思い浮かぶ。でもあんなのじゃ今おれの想像した方法でイギョウにはなれない。確信したイギョウのなり方は間違いだったのだろうか。けれど、もし間違いだったなら嬉しい。
「どんな人なの?」
 敢えて「人」と聞いた。火野弟の表情は変わらない。
「背が高くて、色が白いけどかっこよかった。性格はちょっとアホっぽいところがあったけど。モデルさんみたいでさ。でも、元団長とクチナワと喧嘩して、いなくなった」
「……ねえ、柊の相棒ってふたりいるの?」
「ふたり? 稲様だけだと思うけど」
「小さい狐いない?」
「ああ。それ稲様だよ、多分。狐といっても彼ら大体は人型でいるから。妖狐は人型にもなれるし小さくもなれるんだ」
「……へえ」
 格好良い狐の神様と柊のあれを少しだけ想像してしまった。
「凌平なんか顔赤くねえ?」
「気のせいだろ」
「ふーん」
 火野弟はそれきり何も言わずに掃除を手伝った。
 せっせと床を拭く姿に少しの申し訳なさを感じる。
「用事……」
「何?」
 火野弟が顔を上げる。
「おれになんか用事あったんじゃねえの?」
 そう尋ねると、火野弟は首をかしげ「別にないよ」と言った。
「ないの?」
「ないよ。暇だし、なんか少し話したいなって思っただけ」
 火野弟は控えめに微笑むと、照れくさそうに頬をかいた。