仮面の下
クラヤミ6号に柊はまだ戻ってきていなかった。小さな提灯をひとつだけつけて、おれは彼を待った。
提灯の中に灯した炎がゆらゆらと揺れ、ぴんと張られた紙に波模様を作る。火の種を入れたなら、何時間も変わらず提灯はあたりを照らしてくれるが、おれは部屋の隅に置かれていた蝋燭を灯した。一本目が消え、暗闇の中手探りで二本目を点けた時ちょうど柊が帰って来た。戸を開く音でそれを認識する。
「柊は、イギョウなの?」
振り向かずに問う。見ずとも柊が息を呑むのがわかった。この質問が彼を傷つけることもおれはわかっている。
「いきなり、なんだよ」
柊の小さな声はすこし震えていた。おれはゆっくりと振り返って柊を見た。わずかに乱れた巫女装束に身を包み、いつもの狐面をつけて彼は立ち竦んでいる。彼の相棒らしい小さな神様は一緒ではないようだ。
ずらされた面から覗き見える彼の口元からはいつもの笑みが消えていた。室内に落ちる沈黙に口を塞がれる。
無神経な質問を受けた柊の心情などわからないが、無意識での想像がおれの息を詰まらせた。ひどく悪いことをしている気分だ。実際しているのだけど。
「俺は……」
柊が言い淀む。彼は開いた口をまた閉じて、少し置いた後、諦めたように短く息を吐き出した。
「聞いたんでしょ。誰からかは知らないけど。俺はイギョウだよ。どう? すっきりした?」
気をとり直したのか、普段の調子でそう言って柊が狐面に手を掛けた。柊の言葉を反芻する。やっぱり、という気持ちとおかしな悲しみとが心の中で渦を巻く。
「一見するとわかんないだろうけどね。変わったところなんて髪の毛の色くらいだし。俺、元々は真っ黒だから」
柊が狐面を取り外し、壁に掛けた。それから、淡々と着替えをし始める。おれは自分から聞いたくせに次に何を言うべきか決めかねていた。聞いて、答えが返ってきて――そのあとのことを全く考えていなかった。
しばらく彼の着替える姿をじっと見ていた。現実感のない和装から親しみやすいTシャツ短パン姿へと変わっていく。人を捨てた少年が今おれの目の前にいるのだ。けれどそれがどういうことかわからない。
世にもおぞましいもの達がいる。死んだものがまるで生者のように存在している。
人を捨てた人間がいる。そのどれもがイコールで結びつくだろうが、おそらくおれたち人間もその中に入っている。存在している者のおぞましさにきっと差はない。
イギョウの存在を知った時から、おれは彼がイギョウだったら嫌だと思っていた。今真実を聞き悲しみを感じたが、よく考えてみればこの小屋に入り、掃除夫の役割を受け入れた段階でおれも人を捨てている。
火野兄弟のように元いたところに帰ろうともしないし、帰りたいとも思わない。この生活が続くことを願いはしないが邪魔にも思わない。おれは流れのままずっとここで死ぬまで存在するのだろう。
「……凌平」
柊の呼ぶ声にはっとして顔を上げる。いつの間に来たのか、柊はおれの真正面に座っていた。彼の顔に表情はなく、一瞬だけ浮かべられた笑みはすぐに消えていった。
「なんか笑えねえや。なんでだろう」
その後、繕うように自嘲する。
「……なんでだろうね」
「なにそれ。なんだか意地悪な返しだね」
そう言って柊が苦笑した。苦笑だけど本当の笑みだ。
「おれも聞いたはいいけどそのあとのこと考えてなかった。傷ついた?」
どうしようと考えて、敢えて意地悪く行く。
「このくらいで傷ついてたらこんなとこでやっていけないよ」
「風当たり強いの?」
「まあね。嫌われ者だから」
「嫌われ者なんだ」
「良いんだけどね。わかってたことだから」
柊は力なく笑った後、おれから目を外し、おれたちの乗っている布団へと目線を下げた。
「……ごめん」
ふいに、言わないと思っていた言葉が口をつく。傷つくとわかっていて実行した確信犯なのに謝っちゃいけない。不遜な態度で嫌な奴を貫かなければいけなかったのに。
今の無し、と言おうとしたところで膝に乗せた柊の手がわずかに動いたのが目に入り、開きかけた口を閉じる。
「凌平」
彼の膝の上に置かれた拳がかたく握られた。俯いた柊の首がさらに沈む。
「何?」
「きっと、凌平もその内に俺のことを嫌いになる。……はじめから嫌いかもしれないけど、もっともっと、嫌いになる」
無理をして絞り出したような、蚊の鳴くほどの小さな声だった。この吐息さえもわかるような距離でなければ意味を持った音として聞きとれなかったはずだ。
柊がゆるゆると顔を上げる。泣き笑いの表情が彼をひどく幼く見えさせた。そして、柊がためらいがちに呟いた。
「嫌われても仕方ないけど、それまでは、出て行かないでほしいんだ」
言ってから必死に笑顔を作ろうとしている姿が痛々しい。
嫌われても仕方ないなんて、彼はどうしてそう思うのか。おれがイギョウが理由で嫌う人間に見えるのだろうか。見えるのだろう。彼にとっては全部が敵だ。
じゃあそれならどうしてこんなことを言うのか。信用出来ないなら、頼るべきじゃない。
(おれは、信用してもらえるようなやつじゃないけど……)
自分がどんな人生を歩んできたかわからないけど、これはわかる。おれは信用できる人間じゃない。だっておれがもしも良い人間でたくさんの人に囲まれていたら帰りたいと願うはずだし、今の環境から逃れたいと強く思うはずだ。けどそれがない。
決まって思い出すのは去りゆく人の背中。そして、ぽっかりと心に穴が開いたような喪失感。病気じゃないかと思うほど左胸のあたりがざわつき、痛み出す。きっとおれは誰かに捨てられたのだ。そして、拾われなかった。救いの手は差し伸べられなかったのだ。
「……柊、おれをこんなとこに連れてきたこと、もう忘れたの?」
つい感じてしまった寂しさを振り払うようにわざと恨みがましく言ったら、柊の眉が情けなく垂れ下がった。
彼が何か言う前に続ける。
「おれは忘れたよ。なんか知らないけどこんなとこにいて、なんか知らないけどあんたに色々世話になってた」
だから出て行かない、と言おうとした所で、柊の右手がおれの腕を掴んだ。しかし、すぐに離される。
彼はおれの腕を掴み、何をしたかったのか。ばかだと思ってしまうほど弱い力で、何をしようと思ったのか。彼のしたかったことは実際にはわからなくても、目に見えて落ち込む柊に対しておれはしたいことがあった。
イギョウかとの問いに彼が傷つくということは明らかだった。
おれは悪い人間だ。人が傷つくことをわかっていてできるのだ。だから、今からおれがするのは彼のためじゃない。狡くて寂しい自分のためだ。
「ねえ、おれ、柊のこと嫌いじゃない」
自分のためだが、ついでにうなだれている柊にどうにか伝われと、おれはもう一度強く繰り返し、そのまま彼を腕の中に閉じ込めた。忘れているだけかもしれないが、今までにこんな言葉を吐いて誰かを抱きしめたことがないから、自分がすごく恥ずかしいことをしている自覚がある。
触れ合った部分から感じる柊の体温は人間のそれで、それがおれに相変わらず安心を与える。
「おれ、どんどん忘れて行っちゃうし、なんか変で、この先どうなるかわからないからしっかりしてる内にあんたから聞いておきたかったんだ」
「……俺がイギョウって?」
「うん」
柊は横に垂らしていた両腕をそろそろとおれの背へと回した。そうして消え入りそうな小さな声でお礼の言葉をつぶやいた。