風の何か
あれから、おれの頭の中に常に異形とイギョウが居座るようになった。イギョウとは何かがまるで至上命題のように思われて、気づいた時には考えてしまっている。
まだひっかかることがある。火野兄弟は、「イギョウになったらもう帰れない」と言った。それならば、人間だったら帰れるのだろうか。
また、ぐだぐだと考えてしまっている。
考えを振り払うように頭を振って、すっかりおろそかになってしまっていた手を再開させ、通路を掃いていく。
「おつかれさん」
「……どうも」
箱の中から声がして、すぐあとに風が頬をかすめた。
ただ箱の中に風が吹くという見世物。声の正体は、風の何か。団長に聞けばその正体を教えてくれるとは思うが、知ってどうする――という気持ちがあるので聞けないでいる。それに、今興味があるのは柊のこと。
自分でも理由はわからないが、とにかく柊のことが気にかかる。はっきりとした好意ではないと思う。嫌いではないが、そもそも好きとか嫌いとか、そういう感情がわかるだけまだ一緒にいない。それなのに、自分はあの狐面をかぶった少年のことが気になって仕方ないのだ。情かもしれない。好意よりもこの言葉のほうがしっくり来る。
気がついたら、箒の柄を爪の先が白くなるほどに握りしめていた。
提灯小屋に来て日が浅く、まだ異形やイギョウなど知らないことばかりだ。同じ人間のことだってわかっているとは言えない。どのくらいの人数がいるのか、彼らはどうしてここにやってきたのか。柊はなぜ人でなくなったのか。
人間がイギョウを忌み嫌っている理由はなんとなくわかるが、火野兄弟の柊に対するものは切迫していたように思う。人間とイギョウは互いに反目しあっているのか。それとも人間が一方的に嫌っているのか。何もかもがわからない。
わからないうちに柊から聞いておきたい思いもある。先入観を持ってしまう前に彼の言葉で真実を知りたい。もしも今後おれが火野兄弟やイギョウを唾棄している他の人間と親しくなってイギョウを厭うことになってからだと、柊に聞く時が来たって絶対に色眼鏡を通して彼の話を聞いてしまうだろう。
提灯小屋に来てからおれは自分のことが信じられなくなっていた。過去のことを忘れ、自分が消えて行くような感覚に陥ることが少なくない。
柊にここに連れてこられたが、彼のことはこの小屋の中で一番信用している。やはり確かな情がある。なぜ生まれたものかは考えたくもないが、自分がこうして箱の掃除をしていることは起こりうる最悪の状況ではない気がしている。
どっぷりと思考に浸かっていたが、掃除中だということをふいに思い出し顔を上げた。
「あ……」
箱と箱の間に、塵が丸く高く積もっていた。
「たまには恩返し」
さっきと同じ風の声。風の何かはおかしそうな笑い声とともにおれの頬を一撫でし、通りすぎていった。
「……ありがと」
嬉しくもあり、しかし馴染んだことに対する複雑な気持ちが沸き起こる。
おれは細かな掃除は取りやめて、風の何かが集めてくれた埃を回収したら柊の部屋へと戻ることにした。
戻ったら聞いてみよう。
きっと柊は答えてくれる。これはおそらく過信ではない。