早寝記録

苦悩

 罪悪感を埋めるためには愚かな自己満足が必要だった。
 午前零時の提灯小屋は下劣な喧騒で賑わっている。でっぷりと脂ぎった巨体を持ち、顔には丸い穴が二つ開いただけの男が、小学生程度の体躯しかない西洋の異形の首をまるで酒瓶でも持つように鷲掴みにして闊歩している。西洋の異形はしわくちゃな顔をさらに歪め、口からはどろりとした緑色の液体を出していた。それを見て嘔気を催す。口を手で覆い、箱にぶつかりながらそれでも前を見て進む。穴があったらちゃんと覗き、悪夢のような芸を見る。
「凌平」
 十数個箱を覗いたところで後ろから肩を掴まれた。振り向く間もなく声で団長だということがわかった。
「何してるの?」
「見世物小屋を楽しんでる」
「顔、青いけど」
 団長がおれの前に回りこみ顔を覗きこんできた。その瞳は優しく、心配の色が滲み出ている。
「……ねえ、異形をただ殺すだけのショーって人気なの?」
 他に聞こえないように小さく尋ねる。この騒ぎの中じゃ余程でかい声を出さない限り聞かれるなんてことはないだろうが、それでも普通の声で話すのは憚られた。
「人気だよ。残酷であればある程良いみたいだね。そういうのは嫌うものも多いが、好きな奴もかなり多い」
 やはり見世物小屋なんて所は悲惨魔道の世界だ。首を引きちぎり血潮を浴びて恍惚の表情を浮かべてる狂人を面白く見物できる奴らが多いなんて。掃除の時は何をしているか想像しないようにしていたから、たまに吐くことはあってもまあまあ普通に掃除できたが、これからはそれが可能だろうか。
「ねえ、凌平」
 団長が思わせぶりな甘い声を出す。彼の手がおれの頬に優しく添えられるのを夢心地で見つめる。
「随分参っているようだね」
「……変なもん、いっぱい見たから」
「それだけ?」
「なんだよ」
 からかわれていることは十二分にわかっている。彼の口調は優しいが、その口元にはうんざりするほど嗜虐的な笑みが浮かべられているし、なんだかもう散々だ。彼にさっきの心配気な色はもうない。しかし、団長がおれの前に立っているおかげで彼の綺麗な顔以外見えないから、それはありがたかった。
 依然として様々な異形が生み出すおぞましく忌々しい音からは逃れられないが、強烈な吐き気は過ぎ去った。できることならこのまま時間がきて、みんな帰ってしまえば良いのに。
(でも、それじゃあだめだ……)
 自己中心的な考えにうんざりした。
「少し夜風に当たろうか」
 おれの罪なんて知らずに、団長がふ、と息を吐き出した。落ち着いた笑みに、つい素直に付いて行きたくなる。だけど今のおれに逃げは許されない。
 だって柊を傷つけてしまった。勝手に稲様を出した時から柊の元気がない。それなのに彼が気を遣ってくれているのがわかり、それも辛かった。柊は悪いことをしていないのに。
「おれ、まだ全然見足りねえの」
 団長の申し出を断ろうと、いつの間にか掴まれていた手を外そうとする。しかし、少し力を入れたくらいじゃ全く外せない。
「おれ、行かねえから」
 今度はさっきよりも強く力を入れ、団長の手から逃れようとする。
(びくともしねえ)
 しかし無駄だった。彼の一体どこにこんな力があるのか、渾身の力を込めたって全く動かない。
「無駄だよ。人間には敵わない」
 おれの疑問を感じ取ったのか、団長がおかしそうに笑ってそのまま進みだした。
「君は変わってる」
 団長が弾むような足取りで箱と箱との間を縫うように通り抜けていく。毎日掃除している見慣れた場所のはずなのに、彼が今どこを歩いているのか、そしてどこに向かっているのかわからなかった。
 次第に生きたものが生み出す不快な音が消えて行った。その代わり幽愁の笛の音が細く静かに空間を流れている。それは直に頭の中に響いているようだった。きっと耳を塞いでも音は鮮明になるだけで消えはしない。無数の箱が整然と並んでいるが、生きた気配はない。ぽつりぽつりと等間隔に置かれた提灯の光が、箱の側面に半円状の模様を作り出している。
 ここは団長の世界だ。
「団長」
 不安を覚え、たまらず話しかける。前を行く団長の顔は見えない。今おれの手を引いている者は果たして団長なのだろうか。中身のない、団長の面を付けただけのからくりかもしれない。
 おれがひとり幻の世界を歩いているのかもしれないのだ。それはどんな罰よりも恐ろしいものだった。
「……クノウ」
「は? 苦悩?」
 答えが返ってきたことに安心しながらも、わけのわからない言葉にまた不安がやってくる。
「久(く)納(のう)。俺の名前」
「……名前?」
 団長がちらりと振り向いて俺を見る。感情のある人間の顔だ。どうしようもないくらいの安堵を覚えた。
「ここは、俺の望んだ見世物小屋じゃない。ここは、団長の見世物小屋だ」
 口元には笑みを浮かべているものの、普段とは違い、おっとりとしてもおらずおどけた口調でもなかった。
「どういう意味?」
「異形を殺すだけのショーは好きじゃないってこと」
 そう言って団長がはぐらかすように笑った。すでにいつもの団長に戻っている。
 気付けば音が復活していた。鬱鬱とした笛の音は今も聞こえているが、それに混じって木々のざわめきが耳に届く。久しぶりの音だった。
 そのうちに箱に終わりが来た。暗くてよく見えないが、提灯二つに照らされている長方形の仕切りは、おそらくドアだろう。
「ここ、団長の部屋?」
「久納」
 これは、名で呼べということなのか。でも、どうして急に? なぜか、ただの気まぐれだとは思えなかった。おれは不快な胸のざわめきを感じている。これは不安であり、恐怖でもある。
「久納……。ねえ、どこ行くの?」
 彼は振り向き、ふっと笑った。
「外だよ。夜風に当たろうって言ったじゃないか」
「外? 出れんの?」
「もちろん。凌平だって外から来た。来たからには出られる。よく、人間たちが言っているのを聞くけど、ここは彼らが言うような異世界じゃないからね」
「わけわかんねえ」
「わかっている必要はないよ」
 やはり、長方形の仕切りはドアだった。何の変哲もないただのドア。このさきに「外」があるのか。
 おれはここは閉鎖された世界だと思っていた。もう木々をみることもなければ風が吹くこともない。風は「風の何か」によってもたらされるだけだ。
 おれの緊張を歯牙にもかけず久納はあっさりとドアを開けた。その瞬間風が吹き抜ける。思わず目を閉じる。髪の毛がふわりと舞った。
 目を開けた時、まず初めに感じたものは異様な懐かしさだった。上空には星がきらめき、その下で木々が揺れている。そして、森の先には木に下げられた提灯の道がある。
 おれが辿ってきた道だ。しかし、不思議とあの道に戻りたいとは思わなかった。帰りたいとか帰りたくないとかそういう問題ではない。道の先に何か得体のしれない恐怖が潜んでいるような気がしているのだ。あそこに足を踏み入れたら、きっと――。
「懐かしいかい?」
 優しい声色で久納が聞いてくる。彼の問におれは無言で頷いた。
「おれ、あそこからここに来た気がする」
「そうだね」
「……柊は、なんであの時ここにいたんだろう」
 ふと疑問に思った。
「さあ? たまたま、じゃないかな」
「たまたま? じゃあ偶然おれに会ったってこと?」
「俺は神様じゃないからわからないけど、この道を歩いてくる人間はみんなが思っている以上に多い」
「……どういうこと?」
「言ったままだよ。それに、人間は中々本当の意味で信じようとはしないが、運命というものは確かに存在している」
「……運命?」
「凌平が柊に導かれたのは必然。最初から決まっていた」
「あんたにはわかるの?」
「おれがわかるのは過去にも未来にも偶然はないってことだけ」
 久納がにっこりと笑う。
「久納って、誰なの?」
「誰なのって、俺は俺だよ」
 そう言っておかしそうに声を上げて笑う団長に、おれは焦りにも似た憤りを覚えた。
「そういうことじゃない」
「わかってる。からかってみただけ。俺は――」
 久納が答えようとした時だった。おれは自分たちの背後で土を踏みしめる音を聞いた。
「随分仲がいいんだな」
 おれと久納以外の声。その口調は馬鹿にしたようなものだった。振り向いて声の主を見る。
「ああ。団長。帰ってきてたんですか。全く気付きませんでした」
 おれは久納の顔を見上げた。とても綺麗に、だけど柊の被っている狐面のような無表情さで彼は微笑んでいた。
「ずっと気づいていたくせによく言う」
 久納に団長と呼ばれた男が笑う。
 おれは、彼――元団長から目が離せなかった。