終わり
「異形にもイギョウにも評判が良かった。甘い匂いに釣られて新しい客も途切れなかった。団長もお前の思わぬ集客力に満足している」
布団に横たわっている俺に放たれたクチナワの言葉が死刑宣告に聞こえた。その次に来るだろう言葉を俺は受け入れられるだろうか。こんなことを考えたが、受け入れないことなど自分でわかりきっている。
「疲れただろう。ゆっくり休め」
クチナワがひどく優しく笑って俺の頭を撫でた。やっぱり、と絶望にも似た胸の痛みを覚えながら思った。今俺に向けられたクチナワの人間らしくない作られた笑みは、なんとも思っていない見世物に向けられるものだ。俺はもう掃除夫ではない。言葉よりも雄弁にその事実が降りかかる。
罵られて暴力を振るわれる方が良かった。もう掃除夫じゃないと感情が見える態度で言ってもらえたほうが余程良い。
だってこれじゃ何も言えない。謝ることも出来ないし、謝ったって届かない。
打ちひしがれる俺に視線さえ向けずにクチナワが部屋から出て行った。
俺は見世物になるのだ。体は鉛のように重く、指一本動かすのさえ億劫だ。体のいたるところがじんじんと病み、どこがどう痛むのかわからないほど痛い。このだるさや痛みの原因を思う。3日間受け続けた凌辱の記憶がまざまざと蘇った。普通なら死んでいる。だけど、人間じゃなくなったおかげで俺はまだ生きている。
――俺も、夢ちゃんのようになるのかな。
今まで色で見世物になった奴らと同じような末路を辿るのだろう。泣き喚いて血を吐くほど叫んで最後には狂ってしまう。
(でも、そんな惨めな姿絶対晒したくねえ)
異形にもイギョウにも見せたくないし、クチナワになんて死んでも嫌だ。あいつが俺が狂ったところを見て何か感じるならいくらでもおかしくなってやるが、もうあいつは俺のどんな姿を見てもなんとも思わないだろう。今までのイギョウたちに向けられていたどうでもいい視線を投げられるだけ。それどころか俺が入った箱なんかに目もくれないかもしれない。
こんなことを思う自分に驚いた。俺は気付かぬうちにクチナワの傍を自分の居場所だと思っていたらしい。クチナワが唯一近くに置き続けていた自分を俺は心のどこかで誇っていたのだ。
「人間でいること」が俺のアイデンティティではなかったことに今気がついた。もう、何もかも遅いけど。
「う……」
鉄のように重い布団をまくり、なんとか抜け出す。俺がもう動けないと思っていたのか、部屋に鍵はかかっていなかった。
俺はクチナワが完璧でないことを知っている。彼が常時俺の行動を把握するのは不可能だ。
俺がこれからすることは単なる自己満足。この地獄のような見世物小屋で生きた証拠を残したかったのかもしれない。
どうせ俺に先なんてないのだから途中でクチナワに見つかっても良かった。見つかってまた捕えられても俺の生きた証が作れず終わるだけだから。
色小屋はしんと静まり返っていた。甘い匂いがして、懐かしいと思った。箱に入っていた時はおかしな匂いに犯されて甘さなんてちっとも感じなかった。壁伝いに歩いて行く。本当は急ぎたいが体が言うことをきかない。足はどんなに高く上げようとも床をするだけだし、時折目がかすむ。
足を引き摺ってなんとか鍵小屋まで行き、見世物の箱の鍵を取って今度は柊の箱へと向かう。柊の箱の前でぎゅっと目を瞑り覚悟を決める。気力があれば体も動かせると聞いたことがある。歩けるのだから、死ぬ気があればきっと普通に振る舞える。
ひとつ息を吐き、鍵を開けて箱の中に入ると、いつものように壁に背を預けて座っている柊がいた。俺を見て面を外す。
「なんか久し振りだね」
いつもと変わらない笑みに安心感を覚える。ほっとした。
「お前、もう箱に上がって良いって」
「え……?」
柊の顔が驚きに染まる。
「クチナワの気が変わんねえうちにさっさと行くぞ」
そう言って箱の鍵に付いている枷の小さな鍵で柊を拘束していた鎖を外した。こいつは見世物だしそうする理由もなかったから今までこいつの枷を外したことはない。
「何してんの。出たくねえの? ほら、早く」
俺は茫然とする柊の腕を掴み強引に外に連れ出した。目の前が真っ暗になったがただの立ち眩みだと思い鍵小屋までの通い慣れた道を進む。段々と視界が晴れてくる。幸いにも柊の箱から上に上がる階段まで距離はあまりなく、こうして柊を連れ出してしまえばたとえ俺のこの行為が誰かに見つかったとしても逃げきれる。
「ほ、ほんとに出て良いって言ってたの?」
「本当だよ。じゃなきゃこんなことしない。俺、殺されたくねえもん」
「でも、御国すごい汗」
柊の指摘にそっと舌打ちをする。
「風邪引いたんだよ。俺はお前らと違ってか弱い人間なんだから」
「だから3日も来なかったの?」
「そうだよ。それ以外に理由あるかよ」
「そうだよね」
柊は安心したように嘆息した。すぐに鍵小屋に着いた。足を踏み入れて暗い室内を見回して誰も――クチナワが待ち構えていないことを知った時、どうしようもないくらい安堵した。柊よりも先にはしごを登り、箱へと繋がる扉の鍵を開ける。ドアを開けるといつものクラヤミ廊下がちゃんと存在していた。少し遅れて柊がやってくる。体をずらし、柊が扉の向こうへ行けるようにして、笑いかける。
「凌平とか青に、よろしく言っといて」
「御国……」
「もう二度と俺に会わないようにしろよ。またクチナワに捕まったらお前もう出してもらえないよ」
「……そうだね」
「早く行け」
渾身の力を込めて柊の背を押してクラヤミ廊下に出す。渾身の力でさえ弱く、いよいよ限界が近づいているらしい。
「御国」
「なんだよ」
「ありがとう」
柊の言葉を聞いた瞬間扉を閉めて鍵を掛けた。
なぜか涙がせり上がって来たからだ。泣くなんて変だし泣いてるところも見られたくない。閉めきった扉から音は何も聞こえてくることはなく、柊がいた気配もない。
薄闇の中、静かに佇む扉をほんの一瞬だけ見つめた後、すぐに鍵小屋から出る。そして古井戸に向かった。道中何体かの異形とすれ違ったが、脳みそなんてないような低級の異形たちで、幸運な事に俺を気にするものも騒ぎ立てるものもいなかった。
だけど、井戸に向かっている間中名前のわからない感情に襲われ、表情が歪む。心臓もかなりうるさいがこれは心理的なものではなくただ息が上がっているのだ。苦しく辛い体を早く何とかしたいと思った。
古井戸へと続く、ところどころ腐った木の扉を開け、いつも見上げる空さえ見ずに井戸へと倒れこむように進む。
俺は最期にあの白蛇のところに行くんだ。
緊張なのか恐怖なのか体がおかしい。喉から不安が煙になって入ってきているような感覚だった。心臓が鎖で縛り付けられているように感じるし、もう悲しくもないのに泣きそうになっている。
だけど、このまま生きていたってつらいだけだ。ここに来てから唯一優しい目で俺を見てくれたのはみんなが恐れる白蛇だけなのだから、俺は殺されるにしても白蛇が良い。
「もう嫌だ」
井戸に両手を付いて、ただ黒いだけの井戸の中に向かって呟いてみたら、ついに涙が出てきた。死ぬのはどうしようもなく怖い。井戸の縁にかけている手が情けなく震えている。
(でも、生きてたって、寂しいだけだよ)
自分に言い聞かせるようにして、何度も同じことを考える。生きていたって寂しいし、この先俺は見世物になるのだ。イギョウや異形に自我がなくなるまで辱められる。奇跡が起きて見世物から抜けられたって、俺は好かれるような人間じゃないからずっと寂しいままだろう。もし好かれたとしても、誰の一番にもなれやしない。俺が憧れるような信頼関係は夢物語なのだ。
重い足を上げて、井戸の縁に乗る。ここから飛び降りればすべて終わるだろう。下は真っ暗だが、白蛇は見えるだろうか。一瞬でも見えたら良いんだけど。
「怖い……」
痛いかな。そりゃ痛いだろうな。戻ろうか? いや、それはだめだ。そうしたら今落ちるよりも痛くて苦しいことが待っている。
逃げられない。
逃げられたとしても、俺には先がない。
多分、人がひとりで生きる意味は無い。誰かに必要とされて初めて生きる意味が付与される。俺は、いくらでも代替がきく。
大きく息をつこうとしたが、ひどく浅いものになった。
上を見る。いつもと何も変わらない景色だ。
「いつか、踏み潰してやる」
誰にでもなく呟いて、足を一歩踏み出した。
そこには何もなかった。