傷
「嘘をつかず答えろよ、御国」
「……何を? 答えるよ、俺は」
「そうか」
クチナワは無表情だった。
「上に、何をしに行った」
一瞬言葉に詰まる。凌平の顔が浮かんだからだ。掃除をしに行った、と普通に答えようと思った瞬間、クチナワの強い力によって後ろを向かされ、後ろ髪を掴まれそのまま鍵小屋の硬い壁に打ち付けられる。掴まれた後頭部、打ち付けられた額に激しい衝撃と痛みを覚え少し遅れて視界が霞んだ。目が開けられずに閉じたまま、床に投げ捨てられた俺はなんとか半身を起こし、痛む額を手で抑えた。ずきんずきんと痛みを主張するそこは熱く、ぬるりとしていた。目元をこすり、目を開けてなんとなく手のひらを見ると、ぼやけた視界の向こうで手が真っ赤に染まっている。
「上に何をしにいった」
「……そ、掃除」
やはりクチナワは怒っている。理解して、後悔した。
わかっていたことだけど、こんなことになるなら黙って掃除だけしとけばよかった。柊の頼みなんか聞かなければ良かったんだ。本当に、掃除だけしてればよかった。最初に箱に上がった日、どうしてあの時俺はドアの先にいた凌平と話なんかしたのか。きらいだ。柊も凌平も嫌いだ。だって俺は今、殴られて血を出してる。俺のせいじゃないのに。誰かのせいにしないとやっていけなかった。額も頭の後ろも痛くて泣きそうだった。
俺は引き寄せられたんだ。俺のせいじゃない。神を感じてしまった人間のように、知らず知らずのうちに、抗えない力で扉をくぐり、凌平に近づいた。俺のせいじゃない。
ミクニ、ミクニはひとりぼっち。
異形の歓声の中、過去俺に向けられた異形たちの声が頭の中に響く。
――寂しいんだろ? そうだろ!
青の揶揄がいまさら胸に突き刺さる。
(なんで俺ばっかこんな目に……)
自分を哀れんでみるが、余計苦しくなった。凌平には柊がいる。守ってくれる久納も。柊には凌平がいる。稲様も近いうちに完全に復活するだろう。俺には誰がいる? 誰もいない。けど、少しだけ青に会いたいと思った。生意気で、俺なんかあいつにとってはどうでも良い存在だが、俺は、俺にとってあいつは――
「……掃除。掃除って答えじゃだめなの?」
俺には誰もいない。床の血だまりから、立ったまま俺を冷たく見下ろしているクチナワに目を向ける。俺には誰もいない。かばってくれるやつなんていないのだから、自分で自分を守らないと。
「じ、時間はいつもと違うけど。俺、あんたに言った。元団長から、は、箱掃除頼まれたって。けど、それももう終わった。さっき、団長が来て――」
「御国」
「ぐっ、うぅ――」
冷ややかに睨みつけながらクチナワは俺を蹴り転がし、腹を踏みつけた。体の中で変な音が鳴り、自動的に俺は何かを吐き出した。血だまりが濃くなる。血を吐いたと気付きながら俺の無様な姿を見物している異形たちの歓声を聞く。
痛みを訴える腹を抱えて思うことはひとつだ。
――怖い。
怖い。見世物になりたくない。狂って死にたくない。苦しみたくない、痛いのも嫌だ。安心したい。誰かといたい。こんなところから出たい。怖い。死にたい。帰りたい。帰ったら、俺は一人じゃないのだろうか。
「お、おれはうそなんてついてない」
血を吐きながら、細い呼吸をしながらなんとか言葉を紡ぐ。
「そうじ、してたんだ……」
ぎろりとクチナワが睨む。氷が割れるように、俺の心も割れそうだった。わかってる。クチナワが聞きたいのはこんなことじゃない。
口の中にへばりつく血を床に吐き出し、俺はとうとう意を決し口を開いた。
「……き、今日は掃除の前後に凌平に会いに行ったんだよ」
はぐらかせないと思い、自分の血だまりの中に這いつくばったまま本当のことを言う。こいつには本当のことしか言ってはいけない。知られてまずいことを言わないように事実を告白するのだ。割れた額から流れた血が視界を隠す。
「続けろ」
「わかってる」
クチナワの表情を窺おうと、血にまみれた目を袖口で拭う。ぼやけているが、なんとか見える。首だけを起こし見上げると、やはりクチナワは冷たい、爬虫類のような目で俺を見下ろしている。あまりの冷たさに恐怖に侵されかけたが、必死で奮起、なんとか恐怖を押し込める。
ここで周囲に俺が怯えていることを悟られたら、もしこの場を生きて凌げたとしてもこの先弱者として異形たちから虐げられる。今は裏切りを追求するためのただのショーだ。異形たちはクチナワに任せるばかりで手を出してこないから、かろうじてまだ俺はクチナワの掃除夫でいられている。
だけど、俺の命はあとどれくらいあるのだろう。
いや、今はこんなこと考えている暇はない。足りない頭をフル回転させ、言うべき言葉を探す。
「仲良くなったんだ。凌平、普通に接してくれるから、俺にも」
「理由として足りない」
「じゃあ、他にどう」
「お前から、殺してしまいたいほど気に障る匂いがする」
「なん――」
クチナワは俺の言葉を遮りうっすらと笑うと、俺の横に膝を付けた。気に障る匂い。まさか――
一瞬の邂逅が脳裏をかすめた。胸が、体中が中から破裂してしまいそうなほど激しくざわつく。以前と変わらぬ長身が地に沈む光景――
クチナワは稲様が人型に戻ったことを知っているのか? 団長は知っているふうだった。だけど、団長は『狐の匂いもここから出たら消えている』って言ったんだ。
知らないはずだ。クチナワが気がついていたとしたら団長はあの時あんなこと言っていない。
クチナワは完璧じゃない。小屋の中で起こっていることを知ることは出来ないし、それが箱ならば尚更だ。お得意の蛇の使いをやることも久納のテリトリーである箱では難しい。でも、殺してしまいほど気に障る匂いなんて、稲様以外いないだろうし、久納のことを嫌っていても俺は箱掃除をしていたんだから久納と会って話すことに対してこんなに怒るとは考えられない。でも、こいつは知っているから先の発言をしたのだろう。わからない、でもとかだけどで頭のなかがいっぱいになる。
本当のことを言うか? 稲様が一瞬人型になったって。その後人型を保てているかはわからないから「一瞬」と使ってもいいだろう。でも、そうしたらどうしてそうなったか聞かれる。そこで答えたら、凌平が……。
それに、稲様が人型になったことがわかったら、柊はどうなる? 腹いせに殺されるかもしれない。本当にこいつが柊に手を出せない保証はないのだ。
「……凌平に頼まれて、クラヤミ6号に行った。あ、あいつと柊の部屋」
「頼まれた?」
「あ、ああ」
凌平には今久納がいるからクチナワも容易に手を出せない。凌平に手を出したらきっと鬼がキレる。あんな中に閉じ込めて大事にしているのだから凌平のことは絶対に久納が守るだろう。
ざわめきが続く中、ミクニ! と聞き覚えのある声が小さく聞こえた気がした。なんとなく、切羽詰まったような声。間近にあるクチナワの顔から視線を外し見物客の中を探すが、目的の人物は見つからなかった。当たり前だ。あいつは箱にいるのだから。大丈夫だよ、しっかりしろ。俺は青がいてもいなくてもひとりじゃねえか。こみ上げてきた感情を奥の奥に閉じ込めて視線をクチナワに戻し、俺は続けた。
「稲様の筒を持ってきて欲しいって……。で、そうした」
嘘を吐いた。あいつはこう思っていそうだったが、口には出さなかった。御国には頼んねえってはっきり言っていた。それなのに俺は勝手にやったんだ。
クチナワが俺の目をまっすぐに見つめてくる。瞳の奥の心の底を見ようとしているようだった。
判決を待つ被告人は、こういう気持ちなのだろうか。俺は数秒後、または数分後に死刑囚になるのだろうか。
額の痛みが心臓に移ったのではないかと思うほど鼓動が激しく打っている。
ゆっくりと額から垂れてきていた血が、右目に到達した。
それを拭うために右腕を動かした時、クチナワの瞳が再び変化する。
人間と同じ色だった瞳孔が、血の色に染まった。背中を悪寒が駆け上がる。それはすぐに頭のてっぺんまで達した。こいつはクチナワじゃない。
クチナワは確かに怖いけど、今の目の男は俺が知るクチナワではなかった。もっと別の何かだ。
こう思った一瞬のうちに彼の瞳は色も形も元の人間と同じものに戻っていた。
ふ、とクチナワが笑みをこぼし、ぽつりと呟く。
「恨みを買ってることを認識しないから、こうなるんだ」
「え……?」
「どこで誰が何を見ているかわからない」
鉄柵がおりるような音。
両手首には冷たい感触
そして、両手首を確認する間もなくさきほどよりも大きな音が耳を貫き、目の前に本物の鉄柵が現れた。
箱だ――
周囲の異形たちからひときわ大きく歓声が上がる。
「お前は俺の掃除夫だ。3日で許してやる」
鉄柵の間からクチナワが種のようなものを俺めがけて投げた。
空豆みたい、とのん気に感想を漏らす間もなく足元のそれがふたつにぱっくり割れ、中からヘビのような触手が数本姿を見せる。
見たことがあった。体の中に入ってきて、かき回すんだ。体中をねっとりと這って甘い匂いのよくわからない粘液を出す。俺が最も嫌う、下品で浅ましく悪趣味極まる見世物。
ヘビが俺目掛けてのろのろと体をくねらせて進んでくる。力が抜けた。箱に入ったら激しかった頭や腹、ついでに胸を苛んでいた痛みも緩和した。
諦め、絶望、よくわからない。
いつの間にか鉄柵が壁に変わっている。箱が完成したのだ。
ふと見上げると、無数の覗き穴から目が生えていた。人間も異形もイギョウも欲に濡れた目はどれも同じだ。俺はこのような浅ましい目をよく目にしたことがあった。
いずれ……いや、近いうちにこいつらは中に入ってくる。そして蛇とおなじように俺の体の中に入ってくるのだろう。