制裁
団長は言った。『狐の匂いもここから出たら消えている』と。
狐の匂いとは稲様の匂い。あの一瞬の邂逅で俺についた稲様の匂いだ。前後の文脈というか、状況を考えれば消える匂いは団長のものではなく稲様のものだ。
だって団長が相手だったらこいつらは騒がない。団長の匂いをぷんぷんさせている俺に近づきもしないだろう。だから匂いではないのだ。
いや、こんなことは今はどうでも良い。今考えるべきは俺の状況。
まず状況を整理しなければならないだろう、今の状況、今の状況……。
思考がめまぐるしく変化しているようで再び考えだした時にそれまで完全にフリーズしていたことを知りまた初めから考え直すハメになる。けれどわかっていることがある。俺が何を考えても無駄だということだ。でも考えなければいけない。そう、友達のために。
(友達……?)
「ミクニ! ミクニがウラ切った! クチナワさんのテキを手に!」
「ミクニ! ミクニがつかまえた! キツネの神サマつかまえた!」
友達、というキーワードが頭に浮かびはっとする。
目の前に突然現れた、虫が腐ったような異形を力任せに踏み潰す。白い煙を出しながら二匹の虫が消えた。それと同時に湧き上がる歓声、怒号……。
顔を上げる。目の前には俺の主。そして俺とクチナワを取り囲んでいる異形、イギョウ、化け物……。
「うるせえよ……」
つぶやいていた。今俺が潰した異形に対してか、それとも俺達を取り囲んで騒いでいる異形たちに対してかは自分でもわからない。全てうるさい。俺の心臓も、うるさい。いっそ止まってしまえばいいのに。
こんなん、もうこれっきりだ。全部終わったはずだったのだ。箱掃除はもう終わりだし、元団長の命令なく俺は箱に上がれないから凌平に会うこともないし、もしこの先凌平が稲様を連れて色に柊を助けに来たって俺の出る幕はない。
もう終わりだ。
そのはずだった。
動悸が激しく気分が悪い。このまま気付かないふりは出来ないだろうか。このままものを考えられぬ異形にはなれないだろうか。目の前に立っている主様の横を通り抜けてこのまま部屋に戻って、何食わぬ顔をして深夜にまた来て掃除をしたい。
「……いたんだ」
だけど俺のばかみたいな願望が現実になることはなく、俺はじっと自分を見ているクチナワに話し掛けた。格好悪く声が震えた。
「朝から、珍しいね」
普段通りの格好、普段通りの表情でクチナワは立っていた。眼鏡の奥の目はまだ人間の目だったがそれが俺を安心させることはなかった。何を考えているかわからない。自分の考えでさえ今はまとめられないのにこいつの考えなんてわかるはずないのだが。
異形たちは声を押し殺しているようだった。みな俺がクチナワに制裁されるのを待っているのだ。
これは仕組まれたショー。団長と別れ、色小屋に戻ってきたのだが、鍵小屋を開けた瞬間こいつらが小屋を取り囲んでいた。その時点で勿論嫌な予感はしたのだ。ついに復讐の時が来たのかと他人事のように思った。俺はまだまるで夢でも見ているような思考に侵されていたから。現実から遠ざかっていたのだ。だから死ぬかもしれないと思っても、それは非現実的なものであまり慌てなかった。
だけどどこからともなくクチナワが現れた時俺の心臓は別の生き物になったかのように騒ぎ出した。死ぬぞ死ぬぞと胸の奥で俺を脅す。
異形たちの期待を含んだ目が鬱陶しい。
俺はどんな表情をしているだろう。きっと情けない。クチナワがふと笑い、口を開いた。静かな語り口だった。
「異形たちがうるさいんだ。御国が裏切っただのなんだのな」
「裏切った? 俺が?」
「ああ。みな騒いでいる」
「裏切ったんなら、か、戻ってこない」
帰ってこない、と言いかけてはっとして言い直す。『帰る』のは家だ。俺にこの言葉は使えない。使いたくない。
俺とクチナワが話しだしたことでざわついていた異形たちが黙った。俺の情けない姿を、声をあいつらの不気味な脳に焼き付けようとしているのだろう。あいつらは心の底から俺が制裁されるのを待ち望んでいる。
そうなるだろうが、無様な姿だけは晒すまいと心に誓う。どんなに怖くても泣いて許しを乞うことだけはしない。
そうだ。許しを乞うなんてできない。クチナワの足元に跪き縋り付いて助けてくれと言うのは簡単だが、そうしたら俺がこの後ちっぽけな制裁だけで済んだとしても今度は異形たちに舐められて襲われるハメになる。
異形たちは俺に恨みのある奴もない奴も純粋にこの「見世物」を楽しんでいるようだった。誰も彼も目は爛々と輝いておりいびつな形をした口を吊り上げて笑みの形を作っているものが多い。声は押し殺せても好奇心までは隠せないようで人間らしい表情とも思える笑顔の不気味さはこの上ない。まだ朝だというのにこんなに異形がいるということはきっとクチナワがトビラを開けたんだ。俺を懲らしめるために。
「自殺願望でもあるのか」
「ないよ」
「では、何か思い出したのか?」
「は?」
「落ちた人間が思い出せたなどとは聞いたことはないが、何か思い出したのか?」
クチナワが意地悪く笑った。違和感を覚える。なぜ、今こんなことを俺に聞く? 俺が思い出したらクチナワを裏切る行為をするのか? 思い出したと言ったら、クチナワは裏切ったことを納得できるのだろうか。考えたかった。それがわかれば、記憶も自分もない俺のことが少しでもわかる気がした。
「思い出したって、どういうこと?」
だから今の状況も忘れ、俺はクチナワに尋ねていた。
「悲しい過去でも思い出して、柊に騙され、自己犠牲に目覚めたのではないか?」
「悲しい過去? やっぱり何か知ってんの? 俺のこと」
「さあ。どうだろうな」
にやりとクチナワが笑い、一歩俺に向かって歩を進めた。それに異形たちが沸き立つ。吐き気がする汚い歓声を聞きながら必死で考える。
クチナワが俺のことを知っていても不思議じゃない。俺はこいつら異形のことは知らないが、知らないからこそ色々な可能性がある。こいつがどこで何を見ているのかはわからないのだ。もしかしたらここに来る前の俺の姿だって見ているかもしれない。本名かクチナワが付けたのかは知らないが俺に名前をくれたのは今目の前にいる男だ。俺は自分の名前さえ知らなかったのだ。
だけど、過去探しももう終わりだ。クチナワの眼が人間のものから爬虫類のようなものに変わる。美しい円を描いていた瞳孔が縦に伸び俺を刺す。
今、過去は関係ない。
ここをうまく切り抜けることだけを考えろ。
こう強い気持ちで思うが、わずかに足が震えている。怖いのだ。でも、そんなの知ってる。怖いけど、どうにか忘れて考えなきゃ。誰だって我が身は可愛い。やっぱり、俺は死にたくない。つらい思いも痛い思いも嫌だ。怖い。
「さて、お前に聞かなければならないことがある」
クチナワが一歩、また一歩と俺に近づいてくる。こめかみに浮かんだ汗が流れ落ちる感覚。それすらも幻覚かもしれないが。
「さあ」
正面まで来て見下された俺は、まさに蛇に睨まれた蛙だ。くだらないことを思ったら箱に置いてきた青を思い出し、そんな場合じゃないのに腹が立った。
あの青い蛙は今頃のん気に箱探検でもしているのだろう。