早寝記録

消臭

  頭が重いし、ピキピキと痛む感じもする。体は怠く、指先一本動かすのも億劫だ。
 クラヤミ廊下に立ち竦む。少しだけ座ってしまおうか。クチナワもいないし、遅くなって問い詰められても疲れて休んでいたと言うと多分許してもらえる。これは嘘じゃないから。
 俺はクラヤミ廊下の壁に背中を付け、その場に座り込んだ。膝を立て、そこに腕を乗せてうなだれると少し楽になった。疲れているのか風邪を引いているのか。どちらだろうと考えているうちに思考が止まる。
 次に俺がものを考えられるようになった時、そこはもうクラヤミ廊下ではなかった。
 何もない箱の中。見世物が閉じ込められているところよりも広い。まだ覚醒していない頭を携えてあたりを見回すが、ドアも覗き穴もなかった。完全なる密室だがどこか清涼とした空気が流れており、普通なら恐ろしくなるほど襲ってくるだろう閉塞感もない。
 夢だろうか。
 こんなにはっきり意識出来る夢なんてあるわけないが。それに、俺は見世物小屋に来てから夢なんて一度も見たことがない。見世物小屋自体が俺が見ている夢だから夢を見ないのかもしれないと考えることもあるが、長すぎる夢は現実と同じだ。救いはない。
 考えることが面倒くさかった。
 またうつむき目を閉じる。とにかく体が重いから眠ってそれを忘れたい。
 そうしているうちに、睡魔はすぐにやってきた。抗えないような眠気。やはり疲れているのだ。だからこんなにすぐに眠れるのだろう。
 そう思ったその時だった。
 風が吹いたのだ。強いものではない。ふっと頬を撫でるような優しいものだ。夏に吹いてくれたら嬉しいのだが。
 わけのわからないことを思いつつ目を開けると、俺の真向かいの壁に背を預けて立っている狐の神様がいた。彼はいつも通り口元に笑みを湛え俺を見ている。
「久しいな」
「……まだ何日かしか経ってません」
「そうか? 人間には長く感じる期間だと思ったが、学びが間違っていたか」
「人によっては長いけど」
「そうか」
 団長が声を上げて笑う。切れ長の目は笑うと細くなり本物の狐のようだった。先程の風は団長が連れてきたのだろう。
「クラヤミ廊下で眠っていたな。何かあったのか?」
 つかみ所のない団長の気まぐれな質問。
「疲れて休んでただけです」
「そうか。やはり掃除二つは疲れるか?」
 この神様はどこまで知っていて聞いているのかわからなかった。俺が凌平を連れ出したことも知っているのか。ただ、もし知っていても興味が無いだろうなと予想できた。団長は人間味があまりないから。人型で人語も操るけれど、この人は本当に異形なのだと感じる。この人と比べてしまえばあのクチナワでさえ人間的だ。いや、もしかしたら考えようによってクチナワが一番人間的かもしれない。あいつが俺にくれる恐怖は異形にはないものだから。
「一つよりは疲れます」
「だろうな」
 また団長が笑う。壁に寄りかかって腕を組んでいる姿には余裕しか感じられず、果たしてこの人に敵う者はいるのだろうかと思った。きっとみんな敵わない。鬼でさえ文句ひとつ言わず従っているくらいだ。
「明日からまた凌平に掃除させようと思っている」
 居心地がよくも悪くもない奇妙な空間で団長から放たれた言葉は、俺の箱掃除終了を意味していた。しかし、俺が感じたのは安堵。箱に上がれなくなるということは、もう誰かに思考を乗っ取られないということだ。凌平と会わなければ俺は青が言うところの生意気な「御国」でいられる。
 ――青。
「あの」
 踏み潰したくなる蛙のことを思い出すと、忘れていたはずの頭痛が蘇った。痛む頭を咄嗟に押さえ、団長を見上げる。
「なんだ?」
「俺と一緒に掃除してた蛙、このまま凌平と掃除させちゃダメですか? あいつ、覚えたし、箱掃除ってひとりでやるの時間掛かる、し、それに、結構大変だから……」
「いいぞ」
 なんとか青を箱掃除に就かせようと必死に考えなら言葉を口にしたのに、あっけないくらい簡単に団長が即答する。
 おそらくこの人にとっては誰が掃除するかなど気にならないのだ。凌平のことは気に入っているみたいだが、他はどうでも良い。
「お前から甘い匂いがする」
「え?」
 団長がいきなり呟いた。その呟きは一音一音噛みしめるようにして宙に投げ出され、俺に届いた。今まで単調で感情が感じられなかったのに、この言葉にはなんらかの想いが込められている。それがなんなのか俺には知る由もないが。
「人間にはそれぞれ匂いがある。お前からは、泣き出したくなるような、それでいて快い匂いがする」
「……はあ」
「昔、私はお前の匂いも音も知りたいと思った。蛇が気に入っている人間の匂いが知りたかった。しかし、手が出せなかった。今日はじめてこの空間に連れてきて匂いを嗅いだ」
 返す言葉が見つからなかった。話が見えないし、相槌さえ打っていいかどうかわからない。でも団長は俺なんかお構いなしに続けた。
「お前の匂いはクチナワと似ている」
「……はあ?」
 思っても見なかったことを言われ、思わず態度が悪くなった。だけど仕方ない。クチナワと俺とじゃ立場から性格から全然違うだろう。
 もう一つ不思議だったのが団長の表情だ。いつもの崩れない笑みを浮かべてはいるが、そこに俺が今まで向けられたことのない暖かな情を感じた。まるで仲間にでも向けるような――
「落ちていたから話ついでに連れて来てみたが、良かった」
 団長がつぶやく。今度は独り言に聞こえた。
「さあ、もう戻れ。お前に付いていた狐の匂いもここから出たら消えている」
「え……?」
 団長はそう言うと一度手を叩いた。
 真っ暗だ。
 目は開けていたはずだ。意識もしっかりしている。
 しかし、今俺がいるのはおそらくクラヤミ廊下。凌平の部屋の前あたり。俺がさっき休もうとして座り込んだところだ。団長の姿はもちろんない。
 狐につままれたような気持ちだった。だけど俺が団長と話したのは多分本当だし、俺が思い出す全てのものは現実だ。だって、俺は夢を見ないから。
「行こう……」
 誰に聞かせるわけでもなく呟いて立ち上がる。
 今度こそ色小屋に戻ろう。