過去
蹴られたり殴られたり突き飛ばされたり踏まれたり。
どれも嫌だが、俺は踏まれるのが大嫌いだ。世の中にはプライドをズタズタにされて悦ぶ大人がいるらしいが、上から偉そうに踏みつけられて感じるのはただの怒り。
「ああ、もう最悪なんだけど」
言いながら、服が汚れるのも気にせずわずかにまだ湿り気のある土に座る。寄り掛かれるものもすぐ後ろにあったしちょうど良かった。尻が濡れていく感じがするが、楽だ。
体の色々な所が熱を持ったり痛んだりしているが、今一番不快なことは怠いこと。そして、怒りか憤りが煙となって体の中に充満する感覚がする。煙を晴らそうと上を見ると、夕方特有の薄い青の空がある。そういえば今日は朝から天気が良かった。
昨日は終日雨が降っていたが、今日は快晴。じりじりと嬲り焼くように照りつける太陽が街を乾かしたが、山の神社は木が生い茂り、さっきまで俺を踏んでいた男と同じくらい偉そうな太陽でさえも地面を乾かすことが出来なかったようだ。
「しょうがねえじゃん。舜、弱かった」
呆れたようにため息を吐き、唯一仲の良い幼馴染――凌平が背の低い切り株の上に腰を下ろす。俺が最悪と呟いた時から結構間があいたように思う。言うべき言葉を考えたのだろうか。俺相手に? 別に凌平相手だと、素直な感情なら俺は何を言われてもいいんだけど。
血だとかが服に付いている俺とは違い、凌平は小奇麗だった。疲れきった今も全身からなんかモテるオーラを迸らせている。そういえば、凌平とはいつも一緒にいるのに周りから罵られるのは俺だけだ。やだーこわーいとか不良とかバカとか、やってることは同じなのになぜか俺だけ下げられる。雨に濡れた地面に迷いなく座るのと、濡れていない切り株を見つけられる差のせいか。どうでも良い。
「弱くねえよ、俺。絶対前からなら勝てたって。後ろから狙っちゃいけないって决まり、誰か作ってくんねえかな」
言いながら蘇る少し前の記憶。まず後ろから背中を蹴られ、無様に床に抱きついたところで髪を掴まれ立たされそのまま殴られてまた床に挨拶をして踏みつけられた。その屈辱がまざまざと蘇った。
「無理でしょ。作っても誰も守んねえよ」
「冷静に答えんなよ。知ってるよ。でも、ああ、クソ、次は絶対踏み潰してやる、もう、虫けらのように! お前の兄貴でも関係なく!」
すっかり傷んでナイロンのテープみたいな金髪に耳や顔に適当に開けられたピアス。俺の憎む男を思い浮かべていたらついつい興奮し、思わず立ち上がる。そんな俺を凌平がつまらなそうに眺めている。
「……次はないって」
そしてひどく沈んだ声を出した。
「なんで? 凌平、やっと逃げる決心ついた?」
「なんで嬉しそうなの……。違うよ、次はヘマしないって意味」
服従の解答をする凌平に、さっきの彼の言葉で少しだけ上がった気分も下がり、俺は再び濡れた地面に尻を付けた。
「なんでそんな弱気なのー。まじで、俺がお前だったらぐさっと一発やっちゃうくらいだって。悪いけど、お前の兄貴それだけ最低だよ。なあ、逃げよう。俺、付いてくから」
深刻な顔をして俯く凌平を覗き込みながら、言ってみる。紛れも無い本心だった。まだ義務教育さえ終わっていないが、俺は凌平とならどこででも生きて行けると思っている。凌平に逃げる気があるなら、どんなことをしたって金を手に入れるし、路地裏で残飯を食い漁る羽目になったとしても一緒にいたい。今の生活よりもきっとずっとずっと良いものだ。そう思って俺はいつも逃げようと提案するが、考えられもしないで断られる。
「舜にはちゃんとした家あるじゃんか。それにおれ、大丈夫だし、逃げる必要なんかない」
「どこが大丈夫だよ……。ま、いいや。いざとなったら力尽くで引っ張るつもり」
「でもおれ、舜になら勝てる気がする」
「ひでー」
ようやくわずかにだが凌平が笑った。なぜだかきりきりと胸が痛む感じがするが、少し安心する。凌平がつまらなそうな時は決まって落ち込んでいる時だから。彼は俺が凌平の兄貴とケンカをする度落ち込むのだ。
「……なあ、舜は帰らねえの?」
「まだ良い。俺の部屋西日がすごくてさー。陽が落ちたら帰るよ」
へらりと笑い、凌平を見る。彼はまた辛気臭い顔に戻っており、俺の向こうに目をやっていた。
「……ずっと気になってたんだけど」
凌平が彼の視線の先を指さす。彼の視線は俺のすぐ脇に注がれている。
「何?」
「あのさあ、舜が寄りかかってるのって、あれじゃね?」
「あれってなんだよ。年寄りみたいな言い回しやめろよ」
「あれだよ。小学生の頃よく噂になってた祠。開けると祟られるっていうあれ」
「はあ? まじで?」
凌平の指摘に少し背を浮かせて後ろを見る。腰を回した時にからだのあちこちが痛んだが顔には出さなかった。
実際に、俺が寄りかかっていたのは祠だった。凌平が言った人を祟るという神様が祀られている祠かどうかはわからないが、小さくて年季の入ったもの。木の祠はところどころ腐っているようだった。
中腰で祠の正面まで移動し、なんとなしに観音開きのトビラを開く。
「って何してんの!」
凌平が慌てたように立ち上がり近づいてきた。
「見ての通り開けてんだよ」
トビラの中には何も入っていなかった。ただ、正面に御札が一枚貼ってあった。
「……奥になんか書いてある」
「何してんの!」
凌平が後ろから俺の肩を掴むが、俺は御札に書かれた文字が気になり祠の中に顔を突っ込む。
「……暗くて読めねえ」
「やめろよ!」
焦る凌平が子供っぽくて、面白くなり祠から顔を出して振り向くと、彼はさっき俺が兄貴に殴られていたよりも慌てているようだった。
「お前さあ、何怖がってるわけ? まじで祟られるとか思ってんの?」
からかってやる。今思い出したが、こいつは小さいころ怖がりで、よく葉っぱをお化けだと勘違いして泣いていた。
「べ、別に本気で思ってるとかじゃねえけど……。でも、何あるかわかんねえじゃん」
わからない、と言って恥ずかしそうに口をとがらせる凌平が昔に戻ったように感じられて懐かしくなり、つい笑ってしまった。
「だっせえな。それに、ほら、俺こんなんもってるから襲われねえよ」
言いながら尻ポケットに手を突っ込んで中のものを出す。
「なんだよその汚えの」
「汚いとか言うなって。シワシワでふにゃふにゃだけど、ちゃんと食べれるよ。チョコレート。お供えにいいだろ」
「……お前さあ」
「俺みたいなやつだったら、嫌われ者の神様の方が守ってくれるかもしれないし」
トビラの中にチョコレートを置き手を合わせる。打ち捨てられたような祠だからもう神様もいないかもしれないが、もしいたらすごく寂しいだろう。少し歩いた所に立派な神社があり神主もいるが、見る限りではこの祠は誰にも手を掛けられていない。
人を祟ると噂の祠だとしたら、さらに可哀想だ。
なんとなく、同情した。俺もよく良いとはいえない噂をされるから。
「……よろしくね」
凌平に聞こえないように小さく言ってトビラを閉めた。後ろで凌平がため息を吐く。
「おれ、帰るわ」
「今帰ったら兄貴いんじゃん」
凌平を見ると、彼は立ち上がり風に揺れる木々に目を向けていた。
「さっきお前をいいだけ殴ったからもう冷めてるよ。今機嫌取っとけばまた何日か良い」
心の中でこのブラコンと罵倒する。こいつは兄貴のやることに対し一喜一憂しているが、どうせ良いのはほんのちょっとの間だけだ。俺は人間の本質は悪い時のものだと思っている。だから少しの間優しかったとしてもこいつの兄貴はただのクズだ。まあ、そう思っても凌平にとってたった一人の家族だから何も言えないが。
こういう時、いつも悩む。父親が再婚してから、家に俺の居場所はなくなったと正直に言えばいいのか、俺の家に家族の理想を見ている凌平の夢を壊さずにいるのが正しいのか。
「……殴られたら電話しろよ。助けに行ってやるから」
「お前、いっつもそれだ。いつかおれのせいで死ぬよ」
「そうしたら恩売れる。俺、今一生懸命お前に恩売ってんの」
「意味わかんねえ」
凌平が乾いた笑みをこぼす。学校では中学生らしくアホみたいに騒いでいるのに、放課後になるとこんな表情ばかりだ。本当は俺以上に生意気なやつなのに、最近兄貴の虫の居所が悪いせいか元気がない。
「……でもおれ、舜には感謝しない」
凌平が沈んだ声を出した。表情にもどこか翳りがある。
「そう? 別に、良いけど。俺、ただ腹立つから向かってってるだけだし」
言うと、一瞬凌平の顔が泣きそうに歪む。一瞬のことだったが、それは確かに泣く前のものに見えた。しかし次の瞬間にはその表情も消えていた。
「さっきと言ってること違うよ」
「そうだっけ?」
「恩売ってるんでしょ、おれに」
「そうだったかも」
適当に返事をする。それが凌平にもわかったのか、彼は諦めたように小さく笑った。
「じゃあ行くね。また明日」
凌平が俺に背を向けて歩き出す。
「あ、なあ」
小さくなったところで、ふと思い立ち声を掛けた。
「何?」
凌平が、足を止めて振り返った。
「祭り、忘れんなよ。来週だからな」
「ああ、覚えてる。舜、去年からずっと言ってんじゃん」
「他の奴らも一緒に行くからって、やっぱ面倒だから止めたとかって断わんのなしだから」
「なんでそんな祭りにこだわんの」
必死な俺がおかしかったのか凌平が吹き出す。祭りに行くと悲しいことも全部忘れられると昔言ったのは凌平なのに。それとも彼は小学生の時のことなんかもう忘れてしまったのだろうか。俺はそれから全部の祭りに彼を誘った。去年はクラスで一番かわいい女子が祭りに凌平を誘うと言っていたから気を遣って誘わなかったのだ。まさかこいつが裏で断っているなんて思いもしなかった。
「とにかく行くよ。俺、楽しみにしてんだから」
「わかったよ」
そう言って凌平は鬼の住む狭い家へと帰っていった。引き止める何かが俺には何もないのが残念だった。
(兄貴より、俺と一緒のほうが幸せだと思わねえ?)
祟るらしい神様がいる祠に向かって声には出さずに話しかける。本当に神様がいるなら凌平の兄貴を祟って欲しい。俺もついでに祟って良いから凌平には幸せになってほしい。俺は彼に惚れているからできれば一緒に幸せになりたいが、凌平はそれを望んでいない。
俺が女だったら凌平を掴んで離さないのに。自分が不幸になっても守ってやるのに。何があっても平気な振りして笑うことだって出来る。
今だって、本当は西日なんかどうでも良い。俺が帰らないのは、殴られて蹴られた所が痛くて動けないだけ。
俺はまた祠の裏側の湿った地面に座り、祠に背を預けた。神様とか非現実的なものは信じていないが、もし神様が本当にいたとして信仰を失ってしまったらどうなるのだろうか。この小さな祠から抜け出せず縛り付けられたままだったら死ぬよりも可哀想だ。
今度団子でも供えてやろうと思った。